ユビキタス情報社会

              


                                                      

                               人間科学専攻4期生  植林 明

                 
 先日、文部科学省のユビキタス研究プロジェクト(http://www.8mg.jp/)のフォーラムを聴講する機会を得た。 数年前から「ユビキタス」という近未来の情報社会を表す言葉が聞かれるようになってきた。 ユビキタスとはラテン語で「遍在する」「神はどこにでもいる」という意味で、ニュース等でお聴きになった人も多い事だろう。 ナノテクノロジーにより、塵のような微細なコンピュータチップが開発され、あらゆるものに内蔵され、そのダストチップ同士が通信し「いつでも、どこでも、何にでも」使われるようになっている情報社会である。 このフォーラムでは技術的側面だけではなく、認知科学、社会学、法学の面からも、新たなユビキタス社会に対して提言していこうというプロジェクトである。 文系の知と理系の知を融合して、社会を好ましい方向に進めることをテーマとしている。

 一般に言われるユビキタス情報社会のポジティブな面は、機械など(情報家電などとも呼ばれている)が連携しあって、人間に気を使ってくれる。 家に帰ろうとするのを感知して、状況にあわせてエアコンを点けたり、風呂を沸かしたりとか、冷蔵庫が賞味期限の近いものを教えたりその材料でのレシピを用意したり、本のバーコードがダストチップに変わり、所有者や貸出し者を認識したりする、余計なお世話だと思う面も多々あるが... 携帯電話から家の機器を制御したり、JRのSUICAカードなどがそのはしりであろう。

 ネガティブな面では、インビジブル(遍在でかつ存在に気がつかない)に監視され、個人の情報が漏洩する恐れがある事である。店舗内監視のビデオカメラも、カメラが見えている事で防犯効果もあるが、見えないまま監視されているのは気持ちが悪い。 テレビ電話が流行らない理由として、相手は見たいが自分は見せたくないと言う気持ちが強いと聞いたこともある。

 このフォーラムでもパネルディスカッションになると、予想通りテクノロジーで個人を管理する社会が危惧され、ハリウッド映画の「マイノリティ・レポート」を比喩とした話が多く議論されていた。(最近の近未来映画はこのような世界の想定が多いようだ)

 理系と称するインフラ技術を研究する人からは、「いずれ慣れてしまう」という言葉が出ると、文系と称する人は「善くない事に慣れてしまうということが良くない」と反論し、文系が「個人の選択が第1に優先されなくてはならない」と言えば、理系からは「新幹線が出来ても、それに乗るか、乗らずに大阪まで歩いていくかは個人の選択だ」と応酬する。

 携帯電話やブロードバンドのインターネットが普及して便利になると、同時に新たな犯罪の種にもなっている今、技術の進歩は止められないが、ユビキタスな環境の中で生きてゆく人間の知恵にも期待したい。

 インターネットやメールなど新しいメディアを活かした、文字通り通信制の我が大学院も、時代とともに進化し続けるであろう。 理系と文系と分けるのはどうでも良いし、そういう人間ラベリングするのも私の趣味とするところではないが、どちらの系だと自認しても、新たな環境に対しては、侮ることなく恐れることなく注意深く人間社会を見据えて行きたいものである。 個人的にはあまり変化する前に卒業してしまいたいのだが...