阪神淡路大震災

              


                                                      

                               人間科学専攻4期生  土井  博

                 

  平成7(1995)年1月17日午前5時46分、後にその震災を「阪神淡路大震災」と呼ばれることになった兵庫県南部地震が発生しました。震源は北緯34.6度、東経135.0度の兵庫県淡路島北端付近で、震源の深さは約20km、マグニチュードは7.2と推定されています。
私は、神戸生まれの神戸育ちですが、仕事に就いてからは数年毎に転勤をするというような状況で、平成6年4月に前の勤務地である高知県から神戸に移動したところでした。そして、この地震を経験したのは、やはり人生のめぐり合わせとしか言えないのかもしれません。私は、地震の当時、神戸市垂水区の5階建て建物の5階に居住していました。震源からは近い距離です。
以下、記憶の範囲内で、地震の発生後の状況とその個人的な感想をお伝えします。

 地震発生は早朝であったため、私達家族は震動によって目を覚ましました。「これは大きいぞ」と思いながら立ち上がろうとしたけれど、揺れのために直ぐには立ち上がれません。とても大きな金槌で下から叩かれている、というような揺れを感じました。比喩的に表しますと、金槌を家庭用の大きさと考えた場合、私達の住む建物はパチンコ玉より小さいというものになるだろうと思います。そのように感じました。地鳴りもすごかった。ゴーン、ゴーンという音と揺れです。揺れが少しおさまって、私達は直ぐに着替えをして外に出ました。
「関東地方か、東海地方で大きな地震がとうとう起こったか」というのが、階段を下るときに思ったことでした。そのときは、神戸を中心とした地域が被災地であるとは露知らず、恐ろしさはありましたが、死者が6,000人を上回る被害という災害の恐怖と比較するとそれほどの恐ろしさではなかったと思います。

 私達は、家を出て建物の敷地内にある小さな公園に避難しました。最初、何がなんだか、全く様子は分からない。どうも停電になっているようだ。空が白みかけるころ、何かが降って来ます。雪かと思いました。段々と明るくなると、雪ではないことが分かってきました。後になって、どうも地震後の火事のための煤・灰などが、風によって運ばれてきたものであるということが分かりました。余震も続いています。

 午前10時を過ぎる頃、寒さもあり、余震もおさまらないけれど、とりあえず建物内に戻りました。食器棚は倒れ中のものは全て床に、本箱も同じようなもの。寝室の蛍光灯は、笠がずれていました。蛍光灯がよく割れなかったものです。当時寝室横の部屋にあった縦型のピアノは、50cm以上移動していたと思います。ピアノの後ろは襖で、ちょうどその後ろに私達は寝ており、ピアノが寝ている部屋側に倒れていたならどうなっていたことかと思うと、ゾッーとします。部屋の様子から、地震の大きさを実感しました。

 とりあえず、家の中の散らかりを片付け動けるように場所を確保して、電気が通じた午前11時を過ぎるころからテレビに噛り付いていたように覚えています。どうなったんだろうか。テレビに映し出された火事の様子が、今でも目に焼きついています。それは、JRが動き出して、火事の酷かった「新長田駅」周辺を通過したとき、まるで戦争の空襲の跡のような状況が目に入ってきたからです。空襲をしらない私は、ほんとうに空襲の跡はこのような状況ではないかと思いました。それが記憶として、強く今でも残っているのだと思います。テレビでの火事の様子と、実際の火事現場を見た時間の差があっても、頭の中でそれが結びついて、明確な記憶として強く残ってしまったのです。
当日の夜は、枕元に着替えと靴を準備し、いつでも逃げる(?)ことができるように準備して眠りについたように思います。

 地震発生後、水道とガスは不通です。そのため水は配給で、食事は朝に1回に炊けるごはんを最大限炊いて、一日分をまかないました。米とぎは、軽く一度だけ。電気が通じていたことがなんと有難かったことか。風呂の水(地震前夜のもの)が残っていたのも幸いでした。その水が、水洗トイレを流すのに非常に役立ちました。風呂は、子供達だけが電気釜、ポットなど利用して沸かしたお湯をバケツに入れて、使わせました。このような体験は、日頃の生活がなんと便利であるかを、私達に痛切に感じさせました。それが、時が過ぎ、いまではそのときに感じた、水道やガスの有難さを忘れています。

 そのような生活をして、少し時間が経ち、住居の周辺を歩き回ると、建物にはヒビも入っていました。地割れのような場所(土地)もありました。家の形が跡形もなく倒壊した家、擁壁が崩れたところ、歩くとガスの臭いが漂うところもありました。道路は、舗装がガタガタです。
JRが神戸駅まで開通すると神戸駅から職場の三宮まで歩くのですが、やはり道路はガタガタなので、最初のころは登山靴を履いて行きました。
そうこうしているうちに、私達が住む地域では、復旧がすすみ水道は約1ケ月、ガスは約1ケ月半で通じたのです。

 このような地震を経験して、もっとも強く感じるのは、私達の「生」は偶然でしかないのではないか、ということです。神戸周辺でのこのような大きな地震の発生は、その発生の前はほとんど問題にされていなかったと思います。そして、この地震で多くの方が亡くなりました。私達家族は幸運にも、怪我ひとつ負うことはなかったのです。これを偶然という以外になんと言えるでしょうか。

 この体験が、通信教育を受けている現在の「私」がある理由の一つであると思います。

 時が過ぎると、阪神淡路大震災の体験の印象は薄くなっていきます。でも思い起こすたびに、一瞬一瞬の「生」の大切さを思わずにはいられないのです。

 この原稿の検討・下書きをしているときに、スペースシャトル「コロンビア」の事故のニュースが報道されました。事故の原因は、2月8日現在、まだ特定されていません。スペースシャトルの「安全」が問題のひとつとなっています。阪神淡路大震災においても、日本社会の安全の課題がクローズアップされました。

「安全」、「生」、「水」などは、日常的には意識に上りません。しかし、それらが意識されるときは、重大な事態が起こっているものです。それらについて、意識過剰である必要はないでしょうが、適度な注意を払い、生きている(生かされている)ことに感謝しつつ、活き活きとした豊かな生活を過ごしたいと思います。

●地震時に起こる「液状化」に関心のある方は、どうぞ。

 ところで、地震ということで地盤の「液状化」ということが問題になることがあります。この「液状化」についてどのようなことなのか、この機会をおかりして説明し、ご覧の皆様にそのメカニズムを知っていただけたらと思います。参考文献として大崎順彦著『地震と建築』岩波新書をあげておきます。以下の説明も、その内容をまとめたものです。

「液状化」は、砂(しまり具合のゆるい砂地盤)と水(地下水)があってはじめて起こる現象です。粘土や水のない砂地盤では起こりません。
力が物体の中を伝わる場合、その物体の内部を「引っ張る」「押す」「ずらす」といった伝わり方があります。今、問題となるのは「押す」(=圧縮)と「ずらす」(=せん断)です。力を伝える物体の各部分は場所によって異なりますが、圧縮とせん断が共存しています。

 砂地盤は無数の砂の粒子からできています。せん断に対しては、粒子と粒子とのかみ合わせで抵抗しています。このかみ合わせは、圧縮する力が強いほど強くなります。このことが重要です。圧縮する力がなんらかの原因でなくなると、かみ合わせはなくなり、せん断に対する抵抗がなくなってしまうのです。この現象が「液状化」です。

 砂地盤は砂の粒子からできており、その粒子の間に水が飽和している状況を考えてください。この水が地下水です。(最初に書きましたような)ゆるい砂地盤に地震力が働くと、粒子間のしまり具合をきつくしようと砂粒子が動こうとします。しかし、砂の粒子間は水(地下水)で満たされ、その水は動くことができないために(砂の粒子が動こうとするため)急に圧力が高まります。砂の粒子はしまりを地震動によってきつくしようと働き、そのために飽和水(地下水)は圧力をあげ、水の圧力の高まりが砂のかみ合わせを逆に失わせてしまうことになるわけです。これは、砂の粒子間のかみ合わせを保っていた圧縮がなくなった状態であり、せん断に対する抵抗力を失った状態となります。「液状化」とは、このような状況です。液状化が起こると、重い建物は沈み、軽い(地下にある)浄化槽は浮き上がり、水が数メートルも噴出したりします。

「液状化」のメカニズムを説明しましたが、興味をもたれた方は、参考文献をみていただければと思います。「液状化」のほかに、地震の強さを示す「マグニチュード」や「地震動の性質」(スペクトルなど)の興味深い(?)話が載っています。

                                以上