私のうつ病体験談


                                                      

                        人間科学専攻4期生 後藤和彦


 "これから、述べる体験談は、私が副理事をしております精神障害者の方々の社会復帰を支援するNPO法人発刊の小冊子に掲載した私のうつ病体験談を電子マガジン用に、再度、修正・加筆したものです。"

 これから、私が経験したうつ病との闘いについて書かせていただきますが、この経験談が現在苦しんでおられる方々やそのご家族に少しでも力になるか、もしくはご参考になれば幸いです。でも、"うつ病との闘い"などと書いたもののどのように文章化すればいいものかよく判らず、又10年前のことで自分の記憶も薄れましたが、とにかく自分が体験したこの貴重な体験についてその事実を素直に述べてゆきたいと考えます。

 私は、その頃、在籍部署が自分の肌に合わず自分の希望によりある部署に転属を希望し、そして希望どおりに代えてもらいました。

 転属当初は自分の希望部署でもあり楽しく仕事をしておりましたが、次第に仕事が多忙になり夜中に帰宅という事が多くなりました。そして、自分のその仕事(設計業務)に対する不慣れによる業務推進の遅れによる責任感などにより次第にまるで雪が静かに積もるように自分でも気がつかないうちにストレスがたまってきたように思います。

 そして、毎日のように8時出社、翌日の早朝3時頃帰宅というような毎日を続けているうちに毎朝布団の中で涙が出てくるようになりました。現在ではあの気持ちは自分でもよくわかりませんが、隣に寝ている妻や子供たちの穏やかな寝顔を見るたびに、自分自身に対する情けなさや苛立ちなど、押し寄せる感情の波に耐え切れなかったのは事実です。

 でも、自分が希望した部署でもあり、倒れるわけにはいかない、がんばらねばという気持ちが何とか自分を支えておりましたが、どんどん気持ちは落ちこんでゆき、死にたいとすら考えるようになりました。

 仕事の納期がどんどん迫る事による焦りと連日の深夜残業により心身ともに疲労してしまい、毎朝、出社するまで、涙が自然にでてくるようになりました。でも、会社ではそんな弱気な自分を見せるわけにはいかない、がんばらねばという気持ちで振る舞っており誰も私がストレスで押しつぶされそうになっている事など気がつかなかったようです。

 でも、日増しにストレスはたまり、どんどん気持ちは落ちこんでゆき新聞を見ても自殺の記事ばかり目がゆき、記事に載っている自殺された方の気持ちがなんとなくわかるようになってきました。
 
 そんな自分を家内はどのように接していいのかわからない様子でしたが、お正月に帰省し母親の顔を見るなりどっと涙があふれ、これはますますおかしいという事で病院に行く事になりました。初めての精神科で緊張していましたが、主治医の先生は私の話を真剣に聞いて下さり、そして、"典型的なうつ病です。診断書を書きますので休職しなさい。"と言われました。

 まさか自分がうつ病になるとは信じられませんでした。そしてこんな忙しい時に会社を休むわけにはいかないと数日悩みましたが、その先生の言葉で緊張の糸が切れたのか、とうとう朝、起きれなくなり会社を休む事になり、会社からなるべく離れたところで静養しなさいという先生のすすめで実家に帰る事になりました。

 しかし、実家に帰ったものの最初の1カ月は毎晩のように仕事の夢をみる毎日が続き、そして休職により職場に迷惑をかけて申し訳ないという気持ちにさいなまれていました。休職に入った直後の気持ちをたとえて言うならば、空襲で廃虚になった街に呆然と立ちすくんでこれからどのように生きていけばいいのかわからないというような気持ちでした。

 でも、この病気と休職の体験がその後の自分の人生を大きく変える事になるとは予想もしておりませんでした。

 私が通院していた病院の中にはキリスト教の聖堂があり毎朝ミサが行われており、私も2週間に1度の通院の際にはそのミサに参加させていただき、診察後は誰もいない聖堂でじっとキリスト像をみていました。時には涙がとめどなくあふれる時もありましたが、その聖堂も含め病院全体が暖かい雰囲気に包まれており本当に心が安らぎました。

 内科や外科の診察と違い、カウンセリングと薬だけで本当に病気が治るのかなあという気持ちでしたが、先生は私の話を真剣に聞いて下さり、診察後、診察室を出る時に"必ず治るから・・安心しなさい"と絶えずおっしゃて下さり大変勇気づけられました。

 毎日の暮らしといえば、車で近くの山に登り、都会の街なみをボーと見ていたり、病気関連の本を何冊も買ってきては読みあさる毎日でしたが、そのような会社、仕事から全く切り離された暮らしをしているうちに次第に心も落ち着きを取り戻し笑顔も出てくるようになり、又、先生のご指導もあり全ての生活ペースをトップギアーからローギアーにシフトダウンする事で時間がゆっくりと流れるように感じられ、慌ただしく行き交う都会の人や車をみていると自分が別世界にいるような錯覚にもおちいりました。

 又、病気関連の本を読んでいると自分自身の性格、行動、認知パターンの特徴がわかりはじめ、特に私の場合、完全主義、まじめ、お人好し、周囲を気にする、こだわりが強い等の性格がこの病気に関係しているらしくこの性格を改善するのが病気を治すのに必要だという事に気がつきました。

 そして、この気づき、そしてその後の色々な体験が今までの価値観を大きく変え、全てうちのめされたという感覚が消えていき、新しい自分が生まれていったような気がします。そういう意味では、この病気と休職経験が自分に大きなプラスをもたらしたと言えます。

 実家での静養も1ケ月以上経つと会社や仕事の事も次第に忘れていき、気分も良くなってきて、1週間のうち数日は自宅に戻るようにしたのですが、自宅に戻っても会社の近くまで行く事が出来ず、又、会社の人々すべてが私の休職の事を知っているのでは…、そして、ストレスに負けた弱い人間だと評価されているような気持ちが常に付きまとい劣等感と挫折感が再び襲ってきました。
 それ故に、自宅では会社の人に会う事を極度に恐れ、外出する時は会社の人々に会う確率の少ない平日の昼間だけで、しかもサングラスをかけたりして一種の対人恐怖状態となりました。(復職後、知った事ですが、私の休職など他部署の人々は誰も知らなかったようで、お医者さんは、"みんな自分の事で精一杯であなたの事などそんなに気にとめていませんよ。"とおっしゃられ、自分がすごく人の目を気にする人間である事に気がつきました。その気づきにより、わざと赤いネクタイをしたり、髭を伸ばすなど目立つ格好をする事にしました。それには2つの理由があり、まず一つ目は目立つ格好をする事により人の目に慣れる訓練をすると共に、二つ目は、後述するように私は周囲の意見に従ってしまう自己主張の弱い人間である事がわかり、奇抜な格好をする事で人から何か言われてもしっかりと自己主張をするか、もしくは聞き流して気にとめないように自分を変えようという事でした。)

 平日は何もする事がなく単調な暮らしをしているうちに次第に何かしようという気が起こりはじめ以前勉強していた英語の勉強でもしようかなと思い英会話スクールに入学しました。そして、同時期に何気なく高校の卒業写真をみていると、当時英語で文通していた彼女の写真が目に入り、あの当時から英語が好きだった事を思い出し、更に社会人になってからも強制される事なしに英語を勉強していた自分を思い出し、今の仕事(設計業務)に対する自分の適性や、それまで、進学や就職などの人生の岐路に立たされた時の自分の判断がどのようになされていたのか考えるようになりました。

 その過去への記憶をたどっていくと、人生の岐路に立った時に自分では、ある程度判断はしているけれど最終的に親や周囲の人の言う事に従っていた自分を発見しました。

 この英語との再会と英会話スクールでの多くの人々との出会いが自分というものを見つめ直す機会を提供してくれた事は勿論の事、その後の休職生活、復職後の人生に影響を与える事になりました。

 私が通っていた英会話スクールは中規模のスクールでしたが、そこでのエピソードを一つご紹介したいと思います。そこに、通い始めて1ケ月後に、集中講座が開かれ、生徒が30人集まり、その中に私以外に男性、女性各1名の大人の生徒さんがやってこられました。平日の昼間に出席できるなんて・・、どんな仕事かな?と、いつも考えており、ある時3人で偶然話しをする機会がありました。お互い始めて話しをした訳ですが、男性は高校の先生、女性はお医者さんとの事で、なぜ、昼間に来れるのですか?、と聞いたところ、男性の方が、現在休職中との事で、女性の方もそれを聞いて私も休職中ですと驚かれ、さらに、なぜと聞くと、男性の方は鬱病ですと答えられ、すぐさま、女性の方もえ〜!!私も鬱で休職しています。とびっくりされました。

 偶然、3人の鬱病患者が同じ場所にそろった訳で、急に親しくなり色々話しをしましたが、男性の方は、高校のクラスをまとめる自信がなくなられたとの事で、女性の方は毎日の外来での診察で多くの患者さんにそれぞれ診断してゆく自身がなくなったとの事でした。

 今まで、同じ病気の人と話す機会がなく、この病気の苦しさを誰かわかってほしいという気持ちでしたが、ようやくわかってもらえる仲間ができたという気持ちで大変嬉しくなりました。

 その女医さんは、京都にある大学の理学部に入ったものの、医者の職業にあこがれ途中で医学部に編入されたらしいのですが、自分の人生があまりにも順調にいきすぎ、挫折を味わったことがなかったとのことで、そのしっぺ返しが今来たのかなとポツリとおっしゃられたのが、今でも記憶に残っています。そして、彼女は私に"あなたは挫折した事ある?"と聞いてこられました。挫折?!としばらく考えていると、そう言えば、都会から言葉も文化も何もかも違う地方に転校し、いじめられ、いつも泣いて家に帰った思い出や、大学受験に失敗し、浪人生活を余儀なくされた記憶がよみがえってきました。その事を話すと彼女は"そんな、経験されたのなら、絶対、病気も治るよ。大丈夫・・"と言ってくれました。そうかなと思いましたが何度もいじめられているうちに、次第に泣かされたら泣かしてやるという負けん気がついてきた事や、孤独な浪人人生を乗り越えてきたではないかという自信が湧いてきました。この女医さんの一言により、自分の心の中でエンジンが再び動き始めた気がしました。

 私に英語を教えてくれる先生はアメリカ人の先生でしたが、私の病気の事もわかってくれ心配してくれましたが、ある日、彼は狭い日本にいるより広いアメリカに行けばきっとよくなると言い始めました。私も突然の彼の言葉に驚きましたが、その事をお医者さんに話すと、簡単に行く事を承諾してくれ、家族も行きたければ行けば良いという事で渡米を決心しました。そのアメリカ人の先生は、同じ行くなら、気候のいいカリフオルニアがいいと推薦してくれ、メキシコに近いサンディエゴに行く事にしました。彼はサンディエゴの友人から現地の新聞を取り寄せ、ルームメイト募集の記事をもとに片っ端から電話をしてくれ、電話の声や応対からこの人なら大丈夫という事で一人のアメリカ人を見つけてくれました。いよいよ、渡米する日、家族が空港まで見送りに来てくれました。初めての渡米という事で不安がありましたが、何か見つかるかもしれないという期待もありました。

 今考えると随分思い切った事をしたと思いますが、でもあのころは、全て失われたという気持ちと、どうにでもなれという半ば開き直りの気持ちが渡米の決心をさせたと思います。
  
 アメリカでは、前述のルームメイトと2人で家賃をシェアーして暮らし、現地の移民対象のフリーの英会話学校に通っていました。そして、休日は、車で砂漠地帯まで行き、砂漠に向かって大声を張り上げていましたが、アメリカという国は非常にエネルギッシュな国であり、毎日行進曲を聞いているような感じを受け、また誰もが胸を張っていきているという姿を見ているといつまでもくよくよしていてはいけないという気持ちになってきました。学校が夏休みに入ると大陸一周をしようと思い、格安のバスチケットと列車のチケットを購入し、3週間の大陸一周に出発しましたが、時には、深夜のバスターミナルに到着し、ホテルも無く、バスターミナルで一晩あかした時もありましたが、そのような経験をしているうちに、英語もろくにできない自分が、右も左も分からない広大なアメリカ大陸を旅行しているという事実に気がつき、世の中なんとかなるものだという事がわかってきました。

 そして、更に、日本からアメリカまで、ジェットでも10時間以上かかり、アメリカ国内の移動でも数時間かかる場合があり、地球の広さを再認識するとともに、今まで、あくせく働いていた自分が滑稽に思えてきました。そして、どんなに人間が、がんばっても地球は24時間でしか回らないのだという当たり前の事に気がつき、何か自分の中で新しい価値観が生まれてきたような気がしました。

 色々な人に助けられてすごした、快適なアメリカでの3ケ月の暮らしを終え、帰国しましたが、帰国した翌日、今まで建物を見ることすらできなかった会社に行く事を決心し、帰国報告のためにサンダルばきで会社の門をくぐりました。突然、私が現れた事に部署の人たちは驚いた様子でしたが、暖かく迎えてくれました。

 なぜ、会社に行けるようになったのかなと考えると、やはりアメリカという国のたくましさを見ているうちに自分も洗脳されたのかなという事と、前述のように、世の中なんとかなるさ、復職しても再び病気になるかもしれないけれどその時はその時に考えようと思いはじめ、また、地球はでかいんだから、焦っても仕方が無い、のんびりいけばいいさと思えるようになったからだと思います。

 復職後、海外関係の部署に異動し、数ヶ月後の12月に今度は出張で渡米する事になりました。二度と来る事がないと思っていたアメリカでしたが、機上から朝もやのアメリカ大陸がグングン近ずくのを見た時、休職中の記憶がよみがえり、涙があふれてとまりませんでした。(今もこの文章を書いていて少し涙がでてきました)

 とはいえ、これですんなりと病気が治ったわけではなく、それ以後幾度となく気持ちの落ち込みはあり、常に、薬をお守り代わりに持っていましたが、何度も落ちこんだりしているうちにその時はジタバタせず、とことん落ち込めばいい、なんとかなるよという気持ちでいるように心がけています。ジタバタすると余計に深みにはまる気がします。

 そして、この病気のおかげで、冷静に自分を見つめるもう一人の自分が生まれ、常に、自分の状態をモニターして、水平飛行が保てるようにしている気がします。

 そして、復職してから数年後、通信制の大学に入学し、心理学の勉強を始めましたが、社会人がほとんどで、この心理学を勉強している方々の中には、私のような経験をされた方や、子供さんを白血病でなくされた奥さんなど色々な方がおられて、今でも、それぞれ、ボランティアなどで活躍されておられます。これらの方々は、みなさん、常に自分の心と向き合いながらそれぞれ苦しみを乗り越えられてこられたと思い、そして、人間の心理に興味をもたれたと思い、私も、同様に、ますます、心理学に興味を引かれ、大学院に入学した次第です。
 そして、今、精神障害者の方々の社会復帰を支援するNPO法人の副理事として、活動を行っております。この体験談が、他の方々にすこしでもお役にたてば幸いです。

 最後に、長い休職期間、色々援助の手をさしのべて下さった病院の先生や、看護婦さん、そしてご迷惑をおかけした会社関係者の方々、色々苦労をかけた家内と子供達に感謝してこの体験談を終わらせていただきます。ありがとうございました。