あの時の、おばさん学生は今

         
                                                      

                               人間科学専攻1期生・修了 島田洋子

                 
 将来という言葉を使うとき、人は何年先を考えるだろうか。社会人ゆえに学んだことを社会に還元したいという思いは年齢により、さまざまな感慨を引き起こす。

愉快な小坂ゼミ一期生

 小坂ゼミ一期生は、卒業しても、修士の資格が、現在、将来において職場での地位や社会的立場に直接的には関係のない学生の集まりだった。「知りたい。」の思いだけの集団だった。ゼミ長のHさんは抑留生活以来"人間とは何か"を考え続け、Bさんは民生委員などをしながら亡くされた息子さんと現在の若者の姿を重ね合わせながら、御自分の病気と闘っていた。Iさんはご主人を突然亡くされ、人間の運命を考えていた。Nさんは法務教官として少年達を救う道を、Tさんは宗教的世界観と人間の関係を、ASさんは西田哲学から芸術分野の解明を、AIさんはキリスト教をとおしてアウシュビッツにおける精神世界を、私は医療分野からと、皆それぞれに考え、知りたいと思っていた。

小坂国継先生、ゼミ生と初対面のとき、小坂先生の話の後
「簡単な自己紹介をしましょう。」と、Hさんが提案した。
順々に話し、Hさんの番になった。時は数分経った。皆、視線は宙を見つめたり、下を向いていたり、小坂先生は机の上でペンをいじっている。
話はHさんの第二次世界大戦従軍話の真最中。

層が厚いと表現すると、一期生は年齢層がまず厚かった。
軽井沢合宿では、夜間講義の予定時刻を発表すると、
「私は夜8時には毎日寝ます。起きていられますかどうか・・・」
「お風呂あがりでは、化粧をし直さなくては講義を受けられない。」
という意見があったが、夜間講義は予定どおりに行われた。
また、Hさんの趣味は写真撮影で、機会あるごとに合宿中の皆を撮影していた。集合写真を撮る時は、Hさんこだわりのアングルがあるようで、立ち位置を細かく指示し、なかなかシャッターを押すことにならない。
「女子は前。」
・・・女子なんて呼ばれたのは何十年ぶりだろう・・・
合宿の写真は、後にHさん手作りの冊子となって配られた。表紙はHさん自筆による筆文字で書かれ、ページをめくると、写真撮影の時刻を追うごとに、小坂先生の笑顔がひきつっているように見える。

合宿の合間をぬって近くの珈琲店へ行くことになった。宿舎を出た場所でのコーヒーの香りは私達に、安らぎを与えてくれた。
「コーヒーはあまり飲んだことなか。」
「それなら紅茶にする?」
「いや、コーヒーを飲んでみるとよ。」
小さなデミタスカップで届いたコーヒーに砂糖を6杯入れたHさん。
「おいしかー。」
・ ・・大丈夫だろうか・・・
合宿終了日には、信州帰りのはずなのに、皆あやしげな九州弁となっていた。

 通信制大学院は、対面指導に比べ、やはりメールによる指導だけでは心細かった。二年次になり、いよいよ本格的な修士論文指導が始まった。自分の修士論文経過発表会の日はもちろんだが、他者の発表の時も都合のつく限り、地方の学生は上京した。

 皆、論文作成に四苦八苦し、修士論文経過発表会が終わっても、同期生からの忌憚のない更なる意見を得たいと会話は進んだ。Tさんが言った。
「ねえ、フロッピーは何色にする?青?白?ピンクも可愛いわよね。」
・・・色より、中身が・・・

 卒業しても研究を続けようという一期生の声から、さらに冊子を出そうということになった。本の出版にむけての活動は、一期生全員の賛同を得て始まった。
「冊子といっても、卒業文集のようなものではなく、研究会会誌にしよう。」
そこは社会人の強みで、規約、編集、デザイン、印刷、会計に少しは詳しい者達がそろっていた。卒業後の活動なので、"西田哲学研究会"を発足させ、研究会会誌を『場所』と名付けた。

 卒業一年後に西田哲学研究会会誌『場所』が発行された。各人の都合で、投稿しなかった一期生にも『場所』は配られた。Bさんの奥様から、研究会会誌のお礼とBさんの訃報が届いた。大人のジョークを言って、皆を笑わせ、自分で照れていたBさんの顔を思い出した。何度か学業断念の危機にあいながらも、修士論文を書くということがBさんの生きる張り合いでもあったと、後に聞いた。Bさんの生前からの意向により、先に逝った息子さんへの手土産にと、大学院の学位記は棺に入れたとのこと。それぞれの学位記だったのだろう。

私の西田哲学さがしの旅

 石川県・宇ノ気町に西田幾多郎記念哲学館が2002年6月に開館した。開館記念式典にASさんと出席することにした。宇野気駅前には、西田幾多郎の銅像があり、"郷土が生んだ世界的哲学者 西田幾多郎博士像"と記してあった。東京の私のまわりでは、"キタロウ"というと"ゲゲゲのキタロウ"のほうが有名で「誰、それ。」といわれるのが常だった。久しぶりに再会した金沢の友人達に旅の目的を話すと、皆、西田幾多郎の名と、西田幾多郎記念哲学館の開館を知っていた。西田幾多郎の親戚の方々も出席されていて、写真でしか知らない西田幾多郎の生前の風貌を想像してみた。

 式典のイベントとして哲学ホールでは、上田閑照氏、大橋良介氏、安藤忠雄氏の講演があった。式典のときと違い、聴講希望者は多数であった。立ち見の人のために、椅子を出そうとすると、椅子は場所をとるので入場できない人ができてしまうということで、空いている場所がないほど、人があふれていた。私達も式典用にとスーツを着込んでいたが、階段通路に腰掛けた。
「消防法が・・・」という声があったが
「消防署はない。」という。
・・・本当かしら・・・

 式典には各マスコミ関係者が多数来ていた。翌日、金沢で西田幾多郎記念哲学館の新聞記事を探した。ひょっとしたら、私達が写真記事の隅に映っているかもしれない。新聞は"金沢百万石祭り"の記事がほとんどで、どこにも哲学館のことが載っていない。写真記事は華やかな"金沢百万石祭り"の様子と各県からのミス○○と人気俳優の顔が載っていた。インターネット上では、毎日新聞支社の記者名つき記事として載っていたが、翌日には、記者名なしの数行の記事となっていた。

お土産は哲学館 の売店で"無"の字をアレンジしたTシャツを2枚買った。
我が家の子供達はTシャツを見て、
「おかあさん、これ、"す"?」
「"無"の字のくずし字よ。」
そんなTシャツを東京で最初に着るのは、同じものを買ったAS夫妻と我が家の子供達だろう。

 難しかった小坂先生の講義も回を重ねるたびに、分かってくるような気がする。2002年夏、京都大学で、小坂先生の集中講義があった。私は連絡係り役で、頼りにしているASさんの後からついていこうと思っていたら、ASさんから「仕事で行けない。」と連絡が入った。それに他の人達の都合がはっきりとわからない。連絡係りとはいえ、京都大学の藤田先生に聴講をお願いした手前、このままでは、いたずら電話と同じようなことになってしまう。
・・・ひとりでも行こう(ぐすん)・・・

 京都大学へ行ってみたら、幸いにも数人の参加者がいて、ほっとした。
構内の建物は新旧あり、講義のある旧館の入り口には張り紙が多数あり、風に揺れ、ひらひらとしていた。張り紙はその他いたるところにあり、まず目に入ったのは、

教授・・・女子学生・・・セクハラ・・・
窓は開けない・・・鳩が入るので・・・
流し・・・食べ物を捨てない・・・詰まるので・・・
トイレ・・・盗聴、盗撮注意・・・
教室に入ると、教壇にトラ猫が座り人懐っこく、ニャーと泣いた。"京大猫"と名づけたトラ猫は毎回教室で私達をニャーと向かえ、講義が始まると教室から出て行った。

京都大学の大学院生と歩く夜の大学構内は暗かった。
「心霊スポットはあるのですか?」
「ないです。」
・・・京都大学の皆さんの髪に白い毛が混じっている・・・
「皆さん、お幾つくらいですか?」
「30歳から35歳くらいです。」
「私は幾つくらいに見えますか?」
「30歳くらいですか?」
「あっ、当たり!」
・・・ヒョエー、子供のお下がりを着てきてよかった。哲学を勉強していると女の年齢がわからないものだろうか。でも、嬉しい・・・
京大のMさんがぽつんと言った。
 「哲学をやっていると言うと、"難しそうですね""頭がいいのですね"とよく言われます。哲学で生活をするのは大変なので、他のことで生活することも考えたのですが、何をしたいかと自分に問うた時、哲学をしたいという言葉が返ってくるのです。僕は日本の哲学の将来のために哲学をしたいのです。まだまだ力不足で恥ずかしいのですが・・・学んだことをいかに社会と結びつけて、考えればいいのか・・・」

 学問に対する熱い言葉を若者から聞いて、胸がキュンとした。先生方が同じことを言っても、今の生活の延長上のことであり、胸キュンにはならないだろう。また、将来という言葉を使える若さを羨ましいと思った。年齢差あり、レベル差ありだが、哲学の道のりを広くとるならば、この若者と同じ道のりを歩きたいと思った。

 しかし、社会人・家庭人となった私は、今の生活を維持しなければならない。私には、これから何ができるだろうか。知りたいとの一念で学んだが、このままでいいのだろうか。それには何をしたらいいのだろうか。自己アピールは苦手だが、何かをしよう、そんな思いに、この頃なってきている。