ヘーゲルとわが学問観                    

                              

                            人間科学専攻1期生・修了 大槻秀夫

 

 

著者紹介

大正14年生まれの元高校教員
(昭和61年に定年退職)。福島
市在住。数学を(時には現場の
事情で物理や電気を)担当して
いた現役教員時代以来、「近代
科学」を産み出したのは何なん
だろう、という疑問を懐いてきた。
通信制大学院が出来るのを知っ
て、本研究科に入学。上の疑問を
自分なりに解き明かしたいと願い
修士論文のテーマに「アイザック
・ニュートンと科学革命」を選んだ。
大学院で学び続けたい気持ち止
み難く、この4月から科目等履修生
として勉学を継続している。

                  はじめに

 このマガジンの誌面を借りて、ここ数回、ニュートン以降の「科学」思想の展開について連載してきた。今回はお休みとする。この1年間、ヘーゲルの著作を再読する機会に恵まれた。この際に、自分の「学問観」を反省してみたいと思ったからである。

 

1.ヘーゲル哲学からの衝撃

私とヘーゲル哲学との関わりというか、学問との関係を考えてゆくならば、私の学問への関心が如何に浅薄なものであったかを思い知らせてもらったといわざるを得ない。学問というのは単に知識の集積というか、多くの未知(自分自身および世間一般の)の知識を集めることによってそれを整理すればよいのではないかと簡単に考えていたのである。しかし、必ずしもそのようなことではなく、一つのなんという事もない事柄であっても、それを突き詰めて考えていった場合そこにはこの上なく深くかつ思いもかけない問題が潜んでいるのであり、そのことを真剣に考え、取り組んでゆくことが大事なのだという事が朧げながら分かってきたと言えるのではないか。したがって学問の世界における知識の集積は非常に膨大であり整然としているようではあるが、それらは決して確実に定着しておる知識の宝庫であり、後世のわれわれにとっては付け入る隙のない学問の体系が出来てしまっておると考える必要もないし、後世のわれわれのなすべき学問の余地は十分にあり、しかも広大無辺であると思って差し支えないのではないかと意を強くすることも出来る。特に高齢による記憶力の衰えや注意力の散漫というハンディキャップは確かにマイナスではあるが、決定的なマイナスと考える必要はなく努力の積み重ねによって十分に補いうることであると激励される思いであった。

ヘーゲルについての私のこれまでの知識は、彼は弁証法の思想を体系化した哲学者であり、弁証法とはものごとは内部の矛盾によって正、合、反という段階を経て発展してゆくものであると言うくらいのものであった。その程度の知識に満足していた私がヘーゲルの著作に触れる機会に恵まれて見ると、正直言ってヘーゲルは実に難解でチンプンカンプンであった。ではあるが、全部が全部理解不能であるというわけではなく、その一部分でも成る程と思わせる点があり、そこに珠玉ともいうべき思想を見出すことが出来る。このことはヘーゲルに限らず学問全体についてもいえることであり、またわかりきったと思われる常識とみなされている知識全般に対しても当てはまることである。ヘーゲル・アリストテレスに限らずコペルニクス・ガリレオ・ニュートン・ファラデー・アインシュタイン等々についてもそんな風に言えるのではないか。そこで、古代からの偉人、哲人の業績や思想を恐れることなく、また軽薄に解釈することなく研究を重ねてゆけば、駑馬といえども何かしらの得るところがあるものと勇気を振り絞って前進する意欲が湧いてくる気がする。是非そうしたいものである。今私が出来ることは、非才ではあるが頭で考えて何がしかの思想をひねり出し、これをこれからの若いものの何らかの参考にして、次代の世の中を築いていってもらう縁にしたいものと思っている次第である。

 

2.ヘーゲルの『法の哲学』と私の学問観

 ヘーゲルの『法の哲学』はヘーゲルの哲学体系の「精神哲学」のうちの客観精神の章を詳説したものであり、ヘーゲルのいう「法」とは単なる「法律」ではない。Rechtと言う言葉は「権利」「正義」と言うような意味を持つが、ヘーゲルが『法の哲学』において考察しているのはこの広義におけるRechtなのである。従って『法の哲学』は、実は法の解釈が目的ではなく、歴史的・精神的なものを支配している理性的法則を捉えようとするヘーゲルの倫理学なのである。だから『法の哲学』について述べるといっても、ヘーゲルの思想の全体的立場について考察すればよいのではないかと思われる。実を言えば『精神現象学』「序論」に限らずヘーゲルの文章は晦渋な表現に満ちておりその真意を捕捉するのは容易ではない。私はその難解な叙述を前にしてただ途方に暮れてしまうのである。そこで私は、誤りを恐れずに、岩崎武雄氏の解説を手がかりに、ヘーゲルが言おうとしている最も本質的なことについて解釈を試みてみたい。

ヘーゲルの根本思想、それは即ち歴史のうちには我々人間の手では動かしようもない法則が働いており、この法則によって歴史の過程は必然的に定められていると言う思想である。『法の哲学』はこの根本思想の上に立ってそれに倫理的形態を与える事によって成立したのではないかと思われる。初め18世的な啓蒙主義的思想から出発したヘーゲルは、やがて、この思想の限界を自覚し、その立場を越えていった。ヘーゲルの考えたのは、歴史のうちには一つの大きな法則的な流れが存していると言う事であった。その法則をその汎神論的思想によって絶対者・神の自己実現の過程としてヘーゲルは把握した。絶対者とは精神であり理性である。そしてその本質は自由と言う事である。歴史は絶対者がその中において自己の本質を次第に実現して行く過程なのであり、従って歴史のうちには自由と言うものの進展が存するのである。即ち国家の組織を自由の原理によって作り上げて行く事こそ、歴史の到達すべき目標である。世界史がこのように人間の自由を実現して行くと言う事は、絶対者ないし神の摂理なのであり、この法則に人間は決して抵抗する事は出来ない。個々の人間は自らの関心と情熱とによって行為の目的を定め、実現しようと努力してゆくのであろう。そして絶対者といえども個々の人間の働きなくしてはその目的を歴史のうちに実現して行く事は出来ない。このことは歴史の動向が個々人の働きによって決定されて行くと言う事を意味するのではなく、個々人をして自由に行為せしめながら絶対者は自己の目的を実現して行くのである。ヘーゲルはこのことを「理性の詭計」と称している。

『法の哲学』の序文において彼は、心情の純潔さのみを重んずる考え方に対し、激しい批難の言葉を述べている。現実を支配している理性的法則を概念的に把握すべきであると言うのである。単に頭の中で考えられた理想に従って、あるべき世界を打ちたてようとするのではなく、存在している理性的な現実の姿を把握する事が必要であると言うのである。しかしこのことは、すべて現実に存在するところのものをそのまま理性的なものと考えて、それを肯定することではない。まったく無批判的な現状肯定主義を意味するものではない。いわゆる現実的なものから偶然的なものを取り除いた本質的なもののみを取り出すことを意味するのである。むしろ、現実のうちに存する理性的なものを現実的と称し、理性的なものは決して我々が頭の中で考えるようなものではなく現実を支配し現実のうちにあるものであるということを、ヘーゲルは強調している。ヘーゲルは、主観的な意志のよさを重んずる立場の限界を認め、現実のうちに実現している客観的な理法を重んじた。われわれは真に客観的に善なるものを把握し、それを意欲しなければならない。真の「倫理」の立場を「道徳」の立場を超えたものと見たところに、ヘーゲルの独自性は存する。

さて、私の学問観を「ヘーゲル哲学」の根本思想に関連して述べてみようと思う。そもそも私がこれまでの一般的職業としての人生の一区切りを停年ということで引退し、いわゆる余生を悠悠自適の環境に委ねたのであるが(別言すれば、それは自分の以後の人生に積極的責任を感じないで済むと言う事ではないかとも思われる)、それまでの自分の生活態度を振り返ってみた時には、決して後悔しなければならなかった人生ではなかった。私なりに一生懸命自分の本分を尽くしてきたつもりである。しかしながら、その職業を通じて順風満帆だったとは言えない。勿論自分の努力不足が全くなかったとは言えないが一応自分としてはやれるだけやってきたと胸を張って言えると思っている。それにも拘わらず、もっと社会人類のために貢献するような仕事をする事が出来なかったかと言う思いも捨て去る事が出来ない。それは自分の努力不足ではなく、教職員と言う立場から考えた場合、なすべき事と、その立場からは無意味な種類の努力があったと言う事ではないだろうか。例えば教員でありながら、小説を書いたり、発明・発見に興味を見出したり、利殖に励んだり、ある意味では世の中の為になることを副次的にやり遂げる有能な人がないわけではない。併し自分の職分がありながら、他の分野に手を出す事は、私のような菲才のものにとっては無理な相談である。とは言え、自分の人生を通じていろいろな矛盾や不満を感じてきたことも事実である。嘗てそのような不満を言葉にした時、「単なる愚痴に終わらせないためには、その思いを他人に伝えるべきである」と言う事を自分に最も近い身内のものから言われた事があった。でも自分の思いを他人に伝えるにはそれなりに他人に理解される事が必要である。それだけの才能のない自分にとっては、せめて少数の人にでもその思いを述べてその人を通じて他人に伝えてもらえるのではないか。それには学問があるのではないか、そしてその中にいくらかでも意義があれば、世の中の錚々たる学者たちと比ぶべくもないけれども、私なりにその思いを他の人たちに伝える事が出来るのではないかと、向学の道を選んだ次第である。学問とは何らかの知識を得るだけの事ではない。獲得した知識から新しい思想を生み出し、世の中の役に立てる事である。新しい思想は科学的なものもあるだろうし、文系的なこともあるだろう。芸術的なこともあるだろう。又直接役に立つ事も、間接的に影響を及ぼす事もあるだろう。影響を及ばすまでに長い時間を要する事もあるだろう。併し学問をするものにとっては、その根底には、自らの思想を通じて、おのずから「かくあるべし」と考える思想の実現に寄与することを目指していることは否定し得ないことであろう。学問によって邪まな願望を達成しようとか、金儲けに利用しようなどと考えるのは学問とは言えない。それは学問に名を借りた、単なる売名行為であり、欲得ずくの行為である。あくまでも、自己の得る知識によって世の中のあるべき状態の実現に役に立てる事である。このように言うと、浅学菲才を省みないで何を言うかと馬鹿にされそうな気もするのであるが、私としては自分の出来る限度をわきまえた上で学問というものに取り組んで行きたいと思っているものである。