「大自然とともに生きる!『森の生活(ウォールデン)』」

 

                      人間科学専攻3期生  安彦 美穂子

 

.D.ソロー著・飯田実訳『森の生活(ウォールデン)』(Walden:or Life in the Woods,1854)岩波文庫、1995年第1刷発行、上巻(2000年第11刷発行・定価600円+税)、下巻(2001年第10刷発行・定価660円+税)

 

 

今、ここで花ひらいている……。鳥が小枝をくわえながら通り過ぎて行く……。雨上がりの、土の匂いがなぜか懐かしい……。風の音が、今日は寂しげに泣いている……。夜空の星は、それぞれに違って光輝く……。そして、今、ここで人は生きている……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎日の慌しい生活の中で、じっくりと、いや、ほんのわずかでも「自然」と向き合う時間があっただろうか。「自然」と向き合うということは、「自己」を見つめることでもある。あえて向き合うことなく、もし、幸運にも、ひらく花に出くわしたとしたら、急ぐ足を止め、花の声に耳を傾けることのできる余裕を持ちたい……。だが、「自然」とともに2年2ヶ月もの時間を過ごした人物がいる。アメリカの作家ソロー(Henry David Thoreau,1817-62)である。

1845年、H.D.ソローは、アメリカ合衆国マサチユーセッツ州コンコードにあるウォールデン湖畔の森の中で、たった一人、彼自身の理想的世界を実践させた。自らの手で建てた小屋を住みかに、手を使った労働、つまり自給自足だけで生活を営んだ。隣人といえば、もっぱら野鳥、小動物、昆虫であり、「翼の生えた猫」の話は面白い。時には、人間の友人との出会いや、訪問者もある。例えば、世界中のどの制度にも関わらない、生まれながらの自由人(ingenuus)や、純粋な愛が行動の源となっている詩人。風変わりで気難しそうな人たちだが、とても素朴で人間的だ。

 

 

「自然」の移り変わりを体全体で感じ、すべてのことを「自然」から教え受け、ともに生きながらの、動植物の生態、友人、読書と哲学的思索などが、『森の生活』の中にぎっしりと綴られている。しかし、穏やかな題名が示しているような、単に森での生活記録ではない。そもそも、なぜ、ソローがこのような生活を試みるに至ったか……。

 

 

「私が森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからであり、死ぬときになって、自分が生きていなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかった。人生とはいえないような人生は生きたくなかった。生きるということはそんなにもたいせつなのだから。」(上巻162-164頁)

 

 

人間社会に浸った生活から一変して、「自然」の法則に従い、最も簡素な生活を実践させるということは、「自然」の過酷さ、「自己」の欲望との闘いのように思われがちだが、彼の場合はまったく違う。「『自然』は人間の強さばかりでなく、弱さともうまく折り合ってくれるものだ。」(上巻24頁)簡素な生活ゆえに、人間らしく、自由気ままに生きることができ、このような生き方こそ彼にとっては至極当たり前な、ささやかではあるけれども最高の幸福なのだ。『森の生活』は、ソローの森での生活記録であると同時に、「人生をどのように生きるべきか」という問題を探究した哲学的著作でもある。

 

 

「われわれは存在するように見えるものを、存在するものと思いこんでいる。……永遠の時間には、確かに真実で崇高なものがある。けれども、そうした時間や場所や機会はすべて、いま、ここにあるのだ。……『自然』そのものと同じように、一日を思慮深くすごそうではないか。……一日を精一杯、楽しく生きようと心にきめて。……生であろうと死であろうと、われわれが求めるものは実在だけである。」(上巻172-176頁)

 

 

ソローにとって「生きること」の探究は、ただ頭の中にあるものでもなく、手の届かない遠いところにある幻想的なものでもない。現実の、「いま、ここ(現在)」の世界で「自己」を実現させることにある。ソローの求める「実在」は、現在の生活そのものの中にある。森での生活は、彼の、それまでの日常生活の狭い限界を乗り越え出て、「自己」を解放させ、楽しみながらの労働によって生計を立てる営みが、心からの喜びに充たされる生き方であるかどうかの実験であった。この実験的生活によって学び得たことの一つをソローは綴っている。

 

 

「もしひとが、みずからの夢の方向に自信をもって進み、頭に思い描いたとおりの人生を生きようとつとめるならば、ふだんは予想もしなかったほどの成功を収めることができる、ということだ。そのひとは、あるものは捨ててかえりみなくなり、目に見えない境界線を乗り越えるようになるだろう。新しい、普遍的でより自由な法則が、自分のまわりと内部とにしっかりとうち立てられるだろう。」(下巻276頁)

ソローにとって「生きること」は、「哲学すること」。すなわち、自分の、一度しかない人生を真剣に考え、その考えに自信を持って従い、幻想から抜け出し、いかなる現実をも直視し、ありのままに生きる。というのが、彼自身の人生をより良く生きるあり方であり、森での生活を通して、さらに確信を得た生き方の方法であった。

 

 

 

私たちが生きる現代、効率良く、便利かつスピーディーな生活になったものの、何かとても大切なものを多く失いかけている気配。混沌とし複雑化する世の中にあって、ソローのような「自然」とともに単純化した生活、生きるあり方を顧みることによって、かえって、何か新しいものが見えてくるかも知れない……。そして、何と言っても、『森の生活』の中で描かれている大自然の豊かさ、素晴らしさ。せめて本の中でも大いなる自然に触れたいという方、一読の価値あり!

 

 

 

春はすぐそこまで来ている……。「春の到来は、『混沌(カオス)』からの『宇宙』の創造であり、『黄金時代』の到来であるかのように感じられる。」(下巻256頁)