奈良 −鹿の角きり−
人間科学専攻4期生 片岡公博 |
「奈良」と聞けば、みなさん、歴史の教科書や修学旅行先でお馴染みのことと存じます。例えば奈良といえば、大仏、奈良公園、鹿、お水取り、萬葉集、大和三山、古墳、寺社、大台ケ原・・・・・。京都と同様、古都と呼ばれています。
奈良は、青垣にまわりを囲まれ、夏は湿気が高く蒸し暑く、冬は底冷えする、盆地独特の気候です。また、奈良には海はありません。
それでは、今回、奈良のお国自慢として、秋の伝統行事「鹿の角きり」をご紹介いたしましょう。
「ええところを見せやなあ、あかんで〜、しっかり、せいよ〜。[1]」奈良公園内の鹿苑に関西弁のアナウンスが響きわたる。大学院の前期レポートの提出を終え、一時的にほっとしているさなかの私は、10月中旬の祝日に親子で鹿苑の角きり場に来ていた。
さながら、和製の闘牛場である(牛でなく鹿なのだが)。陣太鼓の鳴るなか、追い込まれた鹿は入場してくる。そして、勢子のひとりが放った縄が鹿の角をとらえ、勢子たちは一斉に鹿を押さえ込む。そこで、神官が鹿に水を飲ませ、のこぎりで角を切り始める。勢子たちのいでたちは、鉢巻にはっぴ姿、ひとつひとつの動きは決して単純ではなく、先輩から後輩に受け継がれてきたものだという。神官は、烏帽子をかぶり直垂を着ている。鹿は春日大社の神のお使いであるという。また、角は、人間の爪切りと同じで、切られても痛くないらしい。
「ええところを見せやなあ、あかんで〜、鹿に蹴られないようにしっかり、せいよ〜。」と再び励ましの声が響きわたる。神官が左右の角を切り終えた後、勢子たちは、押さえ込んでいた鹿を解き放つ際、その脚で蹴られてならない。秋に発情期をむかえる雄鹿は気性が荒々しいので、角を切った後も油断は禁物なのだ。みごと、勢子は鹿を解き放ち、会場からは拍手がわきおこる。
そんな会場で、いつもの癖で、鞄から本を取り出す。おもむろにひろげた本は、大学院人間科学専攻必修科目テキストのヘーゲル『法の哲学U』[2]。そこで、すかさず横から、「ここまで来て、その本読むの?」と訝る声が。確かに、この情趣豊かな風景と空間のなかでそう言われてしまえば、確かにそうなので[3]、とっさに本を鞄にしまいこむ。
鹿の角きりは、江戸時代の寛文11年(1671年)に始まったといわれている[4]。角きりによって、鹿が雄同士の闘いでけがをしたり、自然の樹木や人を傷つけたりするのを防ぐことになるという。
その後、親子で鹿せんべいを買って、飛火野あたりへ。鹿も利口なもので、10枚一組のせんべいを買ったときは、一斉に群がって、私たちのまわりを取り巻いたけれども、残りわずかの枚数になったとき、鹿は、観光客のせんべいの多いほうへ移動している。
2歳に満たない私の娘は、鹿の口に驚いて泣き出す始末。妻と息子は、仔鹿の群れを追いかけている。仔鹿は、びくびくしていて、なかなか人に寄ってこようとしない。そんななか、まだ、角きりを終えていない雄鹿があらわれ、息子はとっさにせんべいを隠す。
奈良公園は、約190万坪。現在、雄鹿が236頭、雌鹿は765頭、仔鹿は203頭の計1204頭がいるという[5]。鹿は集団で行動する。餌は芝生で、せんべいはおやつにあたる。鹿の糞は、糞虫が土にかえてしまい、その土が芝生を育てるという。しかしながら、昨今では、鹿がビニールを食べてしまって、胃癌になってしまうらしい[6]。
また、奈良公園の逸話では、恋人同士がデートすると、「さよう奈良」になってしまい、恋愛が破局するということも耳にしたことがある。自分には経験がないので、その伝聞が迷信なのか否かは定かではない。ただ鹿の鳴き声が哀愁をいざなうことがあるのだけは確かだ。
秋萩の 散りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 聲の遙けさ [7]
(萬葉集 巻八 1550)
奈良は、鹿の角きり後、めっきり冷え込みました。今、紅葉がすっかり色づき、落ち葉が舞い、冬支度を迎えようとしています。
[1] 「すばらしいところを見せないとだめですよ。しっかりしなさい。」というほどの意。
[2] 中央公論新社より『中公クラシックス』として刊行されたもの(藤野 渉・赤沢正敏 訳 2001年11月)。ちなみに、新書版サイズなので、比較的持ち運びに便利である。
[3] 今から思えば、同時にヘーゲルがつぎのように私に対して呼びかけていたのかもしれない。「愛がなければ、家族は成り立たない、『法の哲学』の家族論を読んだなら、今この場面でおのずとその本は閉られることになろう」と。
[4] 鹿の角きり場の入場時に配布されたちらしの記述による。
[5] (財)奈良の鹿愛護会「『奈良のシカ』頭数調査表」(平成14年7月16日現在)による。
[6] 同上
[7] 『萬葉集注釋 巻第八』(澤瀉久孝 著 昭和36年1月 中央公論 P190・191)および『萬葉集二 新日本古典文学体系2』(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之 校注 2000年11月 岩波書店 P276)の訓釈に、今回はとりあえず準拠することにした。
ちなみに、『續萬葉集動物考』(東 光治 著 昭和19年12月 人文書院)に「鹿考」(P87〜P121)があるのは興味深い。
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