未来のパンセ


国際情報専攻2期生・修了 橋本信彦

 情報その4

思考する犬(特に本文とは関係ありません)
■ ケンタ・オス4歳・体重32キロ・獰猛だが涙もろい
■ 常に何かを考えている、情報が足りないと嘆いている。





 その誕生以来、インターネットを利用したネットワークおいては、私たちが意図を持ってそこに入り込むことにより、あるいはまったく意図などしなくとも、ただウェブサイトを覗くだけで、多くの貴重な無料情報が得ることができます。また、たくさんの援助活動などの助け合いが、頻繁におこなわれています。いまやネットワークから得られる情報は、過去に例がないほどの、大きな情報資源といえるでしょう。

 最近こんな例がありました。アメリカのことです。ある女性が自身の無計画な購買により、彼女個人にとっては莫大な借財を抱えたのです。途方くれた彼女は、自身の窮状を事細かに記載したウエブサイトを作り、全世界に向け救援を要請したのです。私はこのニュースをみたとき、その結果を早く知りたい、と考えたのは勿論でしたが、ほんの少し、何かしっくりいかない、つまり疑念が頭をかすめました。

 事の顛末を先に述べましょう。結果として彼女は、借財のほとんどを、全世界から送られ振り込まれた援助金で返済し、さらには有名になったそのサイトで、新たな事業さえ始めたそうです。もちろん、私と同じように、その目的や手段から、そのような意図を目的とした情報発信に疑念を持つものもいました。かれらは反対の立場をとるサイトを作り、そこへも多くのアクセスがあったことを付け加えておきます。

 ネットワーク社会といわれる、情報の氾濫するこのデジタルメディア社会で、私たちが注意し、考えなくてはならないことの一つに情報の質があります。現在、私達がすでにそのなかにすっかり浸かっているともいえるネットワーク社会では、その初期においては、基本的には目的意思をもっての情報入手が基本原則でした。しかしながら、社会基盤としてのデジタルインフラが、その拡張において、デジタル社会を重点目標とした政府の旗振りの結果、短期日でその整備が進行するにつれ、その情報入手環境に大きな変化が急速に生じてきたのです。

そこでは意図しない情報も、意思を持って入手する情報に貼りついてくるようになってきています。このような状況下の私たちには、最も新しい便利なメディアを、快適にそして目的どおりに利用する為に、さらなる新しいリテラシーの取得が不可欠になってきたようです。

 情報の欠如が、私たち個人はもちろんのこと、企業を含むあらゆる組織、そして国家までをも含めて、深刻な問題として議論されていたのは、ついこのあいだのことです。それほど遠い過去の話ではありません。情報不足の環境ほど、あらゆる決定に困難がつきまとうものはなかったのです。このことが社会活動の広範な分野、教育・研究・政策・経済・外交などにおいて、多くの負の影響を与えてきたことは論ずるまでもないでしょう。

 そのような環境のなか、デジタルテクノロジーの急激な進歩とデジタルインフラの拡張により、多くの情報が簡易な操作で入所可能になったことを、私たちが諸手を上げて喜び、何の疑いも持たずその環境に賛意を示したことにたいして、思慮不足の非難をあびせるのは適当ではないはずです。経緯を考えれば、無理もないことでしょう。

けれでも私達の社会が情報の不足の時代、ある意味で情報飢餓の状態であった時代は、あっという間に過去のものになってしまいました。急激な技術進歩により、気がつくと、いつのまにか逆に情報過多の社会になっていたのです。

社会が、情報飢餓から情報過多へ変化するのに、多くの時間を必要とはしませんでした。私たちはいま、特にナレッジマネジメントの前線で仕事をしているも人々にとっては、膨大な情報量との闘いがその仕事の一部とさえなってきているのです。彼らのため息が聞こえてきそうです。

 アルビントフラーがその著書『第三の波』において、人類はいま新しい文明の創造に向かっていると書いたのは30年も前のことでした。そこでは、第一の波としての農耕社会、そして第二の波の産業社会、それらを越えて押しよせる「第三の波」は、社会生活のすべてを、その構造までをも含み一変させつつあると論じています。ポストインダストリアルソサエティー、あるいは、単に脱工業化社会という表現をもって、未来社会を考えていたわけです。

その第三の波が、いまその威力を増し、押しよせる津波となって、私たち人類に覆い被さらんとばかりに舌なめずりしている光景を思い浮かべるのは私だけなのでしょうか。溢れ出し、覆い被さってくる情報の流れを、その蛇口を、なんとか人知でコントロールしなくてはなりません。どうすべきか、真剣に考えなければいけないときがきています。

 情報の押しよせる波は今以上に、今後ますます高く、そして強くなると考えられます。それは規模としての増加と範囲としての増加をも含みます。すでに今現在、深刻な社会現象として、人々の思考停止化現象が広がりつつあると私は考えます。

少し説明が必要かもしれません。思考停止化現象とは、現在進行形の重大な問題として、私たち、特に都市型社会において生活している日本人が、情報環境の変化・進歩により、徐々にその思考能力を失いつつあるのではないかと言うことです。一つ例をあげましょう。

例えば私たちは煩雑にテレビをみます、BGMのように垂れ流しでニュースをみています。そこでは多くの事柄の一つ一つについて、多方面から複数の報道がなされ、さらに専門家・コメンテーターと称する人々の、同じく多くのコメントが情報として流されています。

どうでしょう、いつのまにか、一通りの識者・コメンテーター・専門化の意見情報を聞いたあなたは、もうすっかり自分は問題の概要から結論まで理解し、事の本質をつかんだと・・・・そう思っていませんか。でもそれは、はたして本当の理解といえるでしょうか。それはそう錯覚しているだけなのではないでしょうか。なぜならそこでは自己の思考が何一つ働いていないからです。何一つ考えていないのに、どう理解しているといえるのでしょう。

 すこし表現が過激だったかもしれません。意図するところは考えることの重要性です。これからの、さらに新化したネットワーク社会を想像するとき、今以上にメディアによる情報操作が氾濫します。それは官民という単純な対立だけではないのです。あらゆる情報が複合的に絡み合い。意図しないかたちで変形します。例えば今この時点でも、無遠慮で、無自覚で、無思考な我侭個人メールが、多くの友情を破壊しています。それは意図するものでないにしても、リテラシーの欠如であることに変わりはありません。思考の伴わない情報集め、選別、その加工、そして表現、それらはまったく逆の、つまり意図しない決断をも惹起します。

情報を収集することは重要です。しかし目的はその情報をどう分析するかと言うことでしょう。さらに言えば、情報の出所や質を吟味することも、より重要であるといえます。何度も繰り返します。情報は収集することが目的ではなく、活用することが目的なのです。

さて、ここですこし“情報”そのものについて考えてみましょう。私達を豊かにしている工業化社会では、その豊かさの前提として、限りない消費を必要とする経済構造があります。限りない消費を、その充足した生活から、さらなる消費行動に人々を向かわせるため、当然のこととして、新たなる価値を消費財に付加する必要が発生します。このサイクルは、消費財をただの効用価値としてだけではなく、他の消費財との差異、つまり効用はたいして変わらないのにもかかわらず、異なる部分を拡大し、強調することによって新たなる価値(情報価値)を発生させ、そこに人々の購買意欲を集めるのです。その結果人々は、価値判断を消費財にではなく、その差異に見出すようになってしまうのです。

簡易に、サラッと論述しましたが、このことはとても大事なことなのです。私達が考える情報の基礎がここにあるといっても過言ではありません。有り余る消費財に対して、その差異を強調し、そのうえでその差異を、洪水のごとく情報として流された私達は、意思をもって思考しないかぎり、その差異を、つまり差異そのものを新たな新しい必要商品として購入してしまうのです。このように考えると、情報化とは、第三の波とは、工業化社会の延命の為に創出されたのではないかと考えることも、それほど不自然ではないかもしれません。では私達は、そのサイクルに、その流れに永遠に漂わなければならないのでしょうか。

私はこう考えます、その処方箋の一つは、思考することへの意識の確立です。少し具体的に申しあげましょう、私達は日常多くの人と接します。それらは商談であり、友人との対話であり、家族のコミュニュケーションでもあります。ちょっと意識してみてください。そして想像をしてください。それらの会話がすべて文書によって、サテライトオフィスの自分のデスクにネットワークで配信されたとしたらどうでしょう。仕事や友人との会話、そして娘の恋愛相談でさえもディスプレーでチェックする様を。

それらの情報はすべてデジタル化され送られてきます、たしかに便利なものですね、自分の都合で対処できます。けれどもデジタル化された情報では、その情報の裏にあるもの、情報と情報の行間にあるものは理解できません。日常私達が会話をしているとき、会話から受け取る情報の中身は、その情報を発信する個人の資質を含むトータルなものとして判断されます。それらは相手の言葉のアクセントであり、風貌であり、年齢や性別そしてその場そのときの顔色でもあるのです。

デジタル情報にも同じことが言えるのではないでしょうか。情報の背景にあるもの、つまり社会に存在する過去からの経験・歴史・コミュニティが持つ同質性、あるいは組織、家庭、学校などで積み上げられた自己の学習経験こそが、情報判断の篩いとなり得るのではないでしょうか。

情報の行間にある何かを、情報の裏側にある手がかりを、発見することのできるスキルはそこで身につくのです。思考することの意識の確立とは、その意味で生きる為のベースであるかもしれません。デジタル情報のそのままを、ただひたすらに量のみ追いかける手段こそが、情報を無意味にします。そこでは情報が無いに等しいのです。整理ができない情報の海で漂うあなたは、ついこのあいだまでの情報不足環境と、いったい何が違うのでしょう。なんら変わりはないのです。

 私達は毎日、生活のなかで、常に選択をしながら生きているはずです。何かをする、何かをしない、その一瞬一瞬を選択しながら生きています。私達が自覚していようといまいと、ただ無意識に情報を受けるということも一つの選択なのです。あきらかに個人の選択です。その選択の結果として、どのような不利益を受けようが、それは個人の責任でしょう。けっしてお上や官のせいにしてはいけません。

今回も内容がすこしマイナス方向に偏りすぎてしまいました。さて、ネットワーク社会における情報流通の分野では、よりよい方向に向かっている側面もうかがえるのです。それは情報の共有による、知の創造や伝承です。そのサイクルによって、さらなる情報通信テクノロジーの発達が促されています。

現在、日本で進みつつある、ネットワーク社会における知の創造と伝承の担い手としては、さまざまな学術団体を含むコミュニティや、地域ネットワークが注目されています。それぞれにおける知の創造と伝承のプロセスは、前述の、基礎ベースをもとにしたヒューマンネットワークが、研究者ネットワークを含む他のコミュニティ相互との、複合的な知識共有により成り立っているものと考えられます。

少し楽しい話をいたしましょう。数年先には、情報システムそのものが意識を持つかもしれません。選択を拒否するという観点からです。負けてはいられませんね。さらにネットワーク社会でのコミュニティは、その構成を人間に限定しなくなるでしょう。人間と共有された情報システムがその担い手になりそうです。家庭におけるユビキタス環境などは、まさに人間と情報システムが共生する、最小のコミュニティといえるかもしれません。

最後にもう一度強調いたします。ネットワーク社会では、思考することに意義があります。前提として、繰り返しますが、個人がそれぞれの学習により積み重ねられた社会的資源を基に、情報を思考し、判断し、加工することが必要なのです。思考停止こそが、人間と情報システムとの分水嶺のポイントになるでしょう。思考し、意見し、大いに表現をいたしましょう。思考や、そのうえでの表現は、決して楽なこととは言えません。しかしその苦痛を敢えて受けようではありませんか。ただただ享受者とし情報の海に漂い、その快楽に身をまかせ、思考停止人間とならないためにも。