WTC・セブンマイル・ブリッジそして
ミネソタ・ナイスの琴線

−アメリカのシンボルTWC・夢の架け橋
7Mile bridge・Minnesota Nice の接遇−


国際情報専攻4期生 長谷川昌昭

1 WTC
  WTCは、皆様ご承知のWorld Trade Centerです。
  アメリカのニューヨーク(以下NYという)のロウアー・マンハッタンにあった、ハドソン・リバーを見下すように建っていた110階建ての 442mの摩天楼群で、日本人建築家ヤマザキ・ミノル氏の設計によって 1973年に建てられていたものです。そのビルには、約1,200の金融機関等の企業と 50,000のスタッフが働いていたし、一日の来訪者は約200,000人を数えていた。
 過去形での表現したのは、昨年のSeptember Elevenの米国同時多発テロで、アルカイダらのテロリストによって崩落させられたからです。
 WTCは、442Mの110階建ての高層ビルツインタワーをはじめ、四つの低層ビル、二つのプラザビル、NYビスタホテルで構成されていました。
 短時間の概要把握には、屋上からの展望に限ります。訪ねた当時の手元にあった切符のデータを見ますと、08/03/2001,10:10 ADULT 13.50 tax Included T0P OF THE WORLD TRADE CENTER OBSERVATORIRS と記録されたのがアルバムにありました。それは奇しくもSeptember ElevenでTWCが崩落した38日前の同じ時間帯でした。

平成13年8月3日(2001) New York  World Trade Centerなど

ワールドトレードセンター屋上展望階から
自由の女神を望む

(110 階420m 入場料$13.50
1973年ヤマザキ・ミノル デザイン)
イースト・リバーの川面から離水の水上飛行機

WTC屋上展望階でハネムーナーの記念撮影を
引受けた日本人観光客

(家内でした)

ワールドトレイードセンター屋上展望階入場券
(時刻にご注目)

 屋上からの眺めも恐怖感も抜群で、そこはアンテナや鉄塔が建っているうえに、写真でご理解いただけると思いますが、丁度横断歩道橋のような形状の通路にホンノ高さ1,2mの手摺りが、ほんの申訳程度にグルリと四隅を取り囲んでついているだけで、とても我が国の有料屋上展望台とは発想が異なり、矢張り自己責任の国だと実感しました。
 その屋上展望台からは、南は自由の女神の佇むリバテイ島が遥か眼下に小指大に見え、イースト・リバーを挟んだブルックリン方向にはブルックリン橋ほかいくつかの橋、ミッドタウン方向はエンパイアなどのNYの摩天楼群が手に取るように眺望できました。
 エンパイア・スティートビルには、前回の98'年には、昼間帯に昇ったので、このときは夜景を別の視点から楽しんだ。展望デッキからのNYのマンハッタンの夜景は、まるで宝石箱をヒックリ返したような百万ドルの将にMillion-dollar view of NY at night.でした。その高さは、381m もあり、今でこそWTCやシカゴのシアーズ・タワーの442mに追い越されましたが、1931年以来長い間世界一の高さを誇ってきたビルだけにヒビ割れをエレベーターを待つ間に探しましたが、無かった。往時は大不況の中で二年足らずで完成したことを考え合わせると、その後の建築技術の飛躍的驚異的発展とアメリカの政治・経済・文化そして建築技術のシンボルへの挑戦に屈しない米国を誇示するには、WTCの跡地利用への議論は、沸騰しているようですが、WTCは早期に素晴らしいものが再興されると確信します。
 その証左とも言えるようにWTC七号館の再建計画は21日の夕刊では、七号館は崩壊前の47階建てを上回る 52階建てでガラス張り、完成は2005年末と報じられています。このWTC七号館こそは、緊急コマンド・センターが設置されていた場所なので、復旧第一号と考えるのは、ややうがった考え方かとも思いますが。
 エンパイ・アスティート・ビルの建築完成当時は、大不況下で、入居者は募集難で一時はエンパイア・スティート・ビルではなく、Empty Building(空っぽビル)とも皮肉られて呼ばれたそうです。
 それとNYでは今回のSeptember Elevenで航空機が摩天楼に衝突したのが最初ではなかったのです。アメリカの陸軍の航空部隊の双発爆撃機[B29]が、1945年に濃霧の中、エンパイア・スティート・ビルの79階に衝突する事故が起こっており、102階建ての同ビルは微動だにせず、流石に工事に約6万トンの鉄材と当時4,000万ドルが費やされただけあって、78階と 80階の人々は気づかなかったというエピソードもあったほどだそうです。
 September Elevenは、危機管理の必要性を日本のみならず米国はじめ全世界に21世紀の入り口において、その必要性の喫緊性を強烈に与える事件となったことはご存知の通りです。この米国同時多発テロ事件は、攻撃側の予測通りに運ばなかった部分や予想を遥かに上回る被害と衝撃をも全世界に与えた。
 米国政府とNYは、東京サリン事件の教訓を危機管理体制として組込み済みであったところから、あの極限状態で被害の最小限抑止を実現−危機管理体制の確立と危機意識の共有−したのです。米国政府とNYは、既に五年前に130億ドルの巨費を投じてこの種の事態に備えて、緊急コマンド・センターをあの近くに設置していたし、二機目が衝突した三分後には、同市の最高責任者の市長も現場に到着という。「レベル4」最高度の緊急動員令も発令済みであったという実態を我が日本も正しく知り、必要なものは喫緊性を考慮しての対処が国民の幸福に結実することを学ぶべきであります。 将に「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」ビスマルクであります。
 ちなみにSeptember Elevenのその被害の悲惨さと被害概算は、直接の保険金支払4,7兆円にも達しており、その死者数は3,025名、他に行方不明70名に達しており、WTCのみで2,801名、ペンタゴンなど 184名 UA#93 機の犠牲者40名の他にもスイス・サベナ・ベルギ−航空の経営破綻や世界各国の国際線における旅行抑止によるテロ損失が$40億と推計されている。
 その他にも、日本国内の旅行社だけでも14社が倒産した他に約4,500億円減収があったと報ぜられています。
 この110階建ての 420MのWTCには、私どもはSeptember Elevenの38日前(2001,8,3)に最上階に昇って、そこから眼下に自由の女神やビッグアップルな摩天楼の眺望を楽しみましたので、あの事件の衝撃と犠牲者への哀悼の念は一入です。
 摩天楼の街NYに魅せられたのは、91'の湾岸戦争直後の公用渡航の時でした。湾岸戦争は世界の戦史上で始めての空軍主力の戦いで、それに勝利した直後でしたが、驕りのない街の佇まいを最初に魅せられました。その後98'の夏休み・01'の夏休み・02'の夏休みと四回延べ日数で一ヶ月弱滞在しました。ビッグアップルな世界の可能性を求める人たちの息吹のようなものが、五番街やブロード・ウェイを歩く人々の目的意識を持った足並みの速さに緊張感が感じられました。
 最近は東京の隅田川のクルージングもいいですが、NYのマンハッタン島の摩天楼群を外側から眺めるクルージングは(一時間半14ドル)街の中に居る時は、コンクリートの塊の文字通りアスファルトジャングルとしか感じられないマンハッタンのビル群のスカイラインの全貌が肌で感じられる景観が満喫できます。
 船でハドソン・リバーを昇り、マンハッタン島の北端のヘンリーハドソン橋をくぐり、ヤンキースタジアムを滅多に見られない川側から眺め、マンハッタンの北側は都会の直ぐ傍なのに岸壁が川縁にそそり立っているのを発見したり、イースト・リバーを下ると右岸には一際高いエンパイア・ステート・ビルを海面の川辺の高さから、また、そこからは水上飛行機の離陸ならぬ、離水などに驚嘆し、マンハッタン・ブルックリン両橋を抜けると自由の女神が佇むリバティ島が見えてくる。費用と時間と景観は十分な価値があり、アメリカのおのぼりさんとのつかの間の触れ合いが、異文化に接する絶好のチャンスで、Have you nice day!  You too! が飛び交っている楽しい一時間半14ドルでした。
 この船旅で、家内はフイルム三本ものシャッターチヤンスがあったと喜んでいた。何だか、自由の女神は、98'に朝一番乗りで念願の王冠までたどり着いた私たちを覚えてくれているように、慈愛に満ちた表情で百年前からの変わらぬ姿で微笑み歓迎しくれました。
 この自由の女神の王冠部の窓から観光客が手を振っているのをご記憶の方も多いと思いますが、この王冠展望台へ到達するには、チョットしたコツがあります。
 まず、朝一番の8:00出帆のリバティ島へのフェリーに乗船する際には、みんなは、我先に船の二階のデッキや船首のブリッジへ急ぎますが、それを横目に乗船口横に陣取ること。
 そこにはリバティ島へ向かうパークレンジャーが乗っている。彼らが自由の女神博物館の入場者チェックを毎日やる方々だから、自由の女神博物館へ最短距離と最短時間を知っているわけです。やがて上陸したら複数人数である場合は、半数は切符売場、半数は博物館入り口の列へ、切符を入手したら合流すること。
 そしてなるべく軽装で足元をしっかりとして、その後に相当キッイ335段の階段梯子を昇って、最上階の王冠展望室の定員30人ほどの狭い窓に到着です。そこからはロウアーマンハッタンやニュージャージイが眺められました。6列の行列が整理線の末端まで並んでいたら、それこそ狭い階段を昇るのですから、三時間待ちの覚悟となります。老婆心ながら申し添えます。

2 楽園への架け橋セブンマイル・ブリッジ
  皆さんドライをするなら、絶対にここと私の秘書(家内の意味)曰く
 『ドライブをするなら、絶対にここがお勧めです。TVのコマーシヤルや海外旅行のパンフレットでお馴染みのアメリカのフロリダ州のフロリダ半島からの海の上を走る一本の道が「オバーシイズ・ハイウエイ(海を越える道)」と呼ばれている道で、アメリカの国道1号線R#1の終点近くにあります。
 何とセブンマイル( 正確には6,79mile〔10,86Km〕)の真直ぐな橋です。この橋はフロリダ半島からキー・ウエストを繋ぎ大西洋とメキシコ湾とを二分する約五十の小さな島々を結ぶ長短四十二の橋の一つです。『世界一美しいハイウエイ』と言われているだけあって、その眺望は抜群でした。
 視界は上半分がコバルトの澄み切った空、下半分の右半分はメキシコ湾、左半分は大西洋、そして両側の海の色はフロリダ・ブルーの美しいカラーながらも微妙に左右の海水の色合いは違っていて『綺麗』そのものでした。
 私達のドライブは幸運にも晴天にも恵まれて、広大な海原と大空の中に橋がつきで出て、突き抜けて、遥か彼方にのびている橋を行き交う車も少なく慣れない右側通行の左ハンドルも苦にならない生涯忘れえぬ十数分間のドライブを満喫しました。
 帰路はキー・ウエスト国際空港から空路で来た道を空から眺めながらフロリダへ戻りましたが、夕暮れに映えて、輝くセブンマイル・ブリッジが、空からは往路と逆に左はメキシコ湾、右は大西洋と二分する景色はフロリダブルーの美しいカラーの彩色の色合いは低空を飛ぶ近距離国内線の機窓からの醍醐味を堪能しました。
 マイアミとキーイ・ウエストの間の距離は、約250Kmで、新幹線なら東京から浜松間の距離とほぼ同じで、料金・所要時間は大人一人で\8,070の一時間半です。
 昨年は、ニューヨークのJFKから入国後、NYに四泊、ワシントンDCに四泊後、八月八日にフロリダ入しりしました。マイアミ国際空港で、朝九時にレンタカーを借りて、セブンマイル・ブリッジを渡り午後一時頃にキーイウエスト島に到着し、島を巡って観光・昼食後に島の空港で夕方五時に無給油返却の乗捨料金を含み、走行距離無制限として、更に念のために保険は最高額と6ヶ月以内の新車指定の贅沢をしてもハアーツーのレンタカーは、フォドアセダンが、二人で乗って\16,890でした。

◎平成13年8月8日(2001) Florida Seven Mile Bridge Key West など

ピジョン・キー島海岸からフロリダ・ブルーの
大西洋とメキシコ湾を
分けて架かる
Seven Mile Bridgeと旧砂糖運搬鉄道鉄橋跡
Florida Seven Mile Bridge Key West 位置概要
真っ直ぐなSeven Mile Bridgeをフロンドガラス越しに フロリダ・ブルーの大西洋とコバルト・ブルーの空

 センターラインの遥か彼方の11Km先の橋の終点の島が小さく見える景観は、TVや映画のシーンでご存知の方もいらっしゃるでしょう。ドライブは走るというよりも、滑るという感覚でした。
 丁度東京駅から大森駅までの距離を一直線に十数分で駆け抜ける爽快感がセブンマイル・ブリッジド・ドライブの実感でした。』とのことです。
 このセブンマイル・ブリッジ・ドライブには二つのハプニングがあり、とても得難い体験をしたのも結婚四十周年記念旅行の善き想い出となりました。
 その一つは、セブンマイル・ブリッジを三回渡ってしまったことです。
 もう一つは、キイー・ウエスト空港が停電事故で電気関係設備が一切機能せず、総て手作業の現金以外は一切通用せず、メモ紙に手書きの航空券で、搭乗してマイアミに戻ったことです。
 セブンマイル・ブリッジを含めて42の総ての橋は、No Parking No Stopping No U turnです。途中はとても親切な標識のお陰で、空港から キイー・ウエストへのドライブでは、フロリダ国際空港から約150キロ辺で方角を一度尋ねただけで、一度も道には迷いませんでしたが、途中の景色と渋滞が無いのと快適な周囲の雰囲気に惑わされてしまい、結果的には目的のセブンマイル・ブリッジを通過してから、「この辺かな」と途中のスーウベニィ・ショップで尋ねたら、いま走って来た道の先の橋を指して『Over there !』と言われ、そこの軒先でU turnをし、セブンマイル・ブリッジジへ戻り渡りました。橋を渡り終えたピジョンキー島で、休憩後に再々度セブンマイル・ブリッジを渡りました。したがって三回通過の楽しいハプニングでした。
 キイー・ウエスト島にはかの有名なヘミングウエィが1931年にやって来たとき買い取って、莫大な金をかけて庭に樹を植えたり、島内唯一真水のプールを造成したものが、現在は博物館として、観光客の人気を集めていた。そこにはかの文豪が愛した猫の子孫が約60匹飼われて、観光客がやってきても平気で寝ている。ちなみにこの猫には、他ではない大きな二つの話題があります。
 まず、猫の前足の指が6本であること。(写真をご覧下さい)それとこの猫は有償で世界各国へ譲られていくのですが、そのウエイテイング・リストがなんと四年先までの名前が登録済みであることです。
 キイー・ウエスト島はアメリカの最南端です。その南端で記念撮影をする人があとを絶たない場所にSouthernmost Point USAの標識が設置されており、折角ここまで来たのでと撮影体制に入ったら、親切にもベストポジションを教えてもらいThanks so much.と礼を言うとHave you nice day.ときた、すかさずYou too.とアメリカの最南端で応じた。しかし実際、地理学的に正確にはもう少し南の米軍基地内で一般は立入禁止地点だそうでした。

◎平成13年8月8日(2001) Florida Seven Mile Bridge Key West など
ヘミングウェー・レジデンスの六本指の猫 Southemmost Pointアメリカの最南端地点
猫の足跡

空港停電で手書の航空搭乗券
AAはアメリカン航空会社の意味

$379,50はキーウェスト〜フロリダ間大人二人分

 アメリカの生活は電気とコンピュ−タの世界です。当然停電と端末故障はパニックです。夕方五時ごろに、空港内ロビーは、まだ明るいせいか電気が点灯していませんでした。しかし変なので尋ねてみると暑くて消費電力の限界を超して停電とのことでした。その時は、「停電か」程度の認識でしたが、レンタカーのチェックィン(ホテルや空港の出入りと逆の用語例)と空港のチェックインで重大性を知らされました。私は今まで総ての海外旅行は自分で企画航空券からホテルそしてレンタカーの類まで自己責任の旅です。こうなると待望のNegotiationsとなるわけです。
 レンタカーのチェックィン・カウターは真っ暗で、指定駐車場に駐車した旨伝えて、返却手続書類を請求すると肩をすくめてDoesn't work .とコンピュ−タを指差してからNo trouble. Thank you Sir.と終了したが、40日後に\16,890の請求が届くまでは、矢張り気にはなりました。
 ところで空港内は点灯されておらず、エアコンも作動しておらず、やや蒸し暑く不安を感じました。総てが手作業で確認の真っ最中で、私どもの航空予約は有楽町のAA航空日本支社で予約番号を受け取り、現地で搭乗前にクレジットカードで支払うチケットレスなので、前日マイアミに到着した時点で搭乗確認の意思表示をホテルから電話で済ませていましたが、肝心の端末が作動しないのです。
 他のアメリカ人の乗客の方へも説明は、『切符を所持してない者は、現金か携帯電話で止宿先ホテルがギャランテイした者のみが、搭乗出来る』とのことで、この便が最終便で、携帯品や荷物は検査も手作業でOpen your bag.と延々と細々と始まった。幸いに私どもは身軽だったので、検査は早々に無事通過したが、現金の持ち合わせでハタと困った。その時、家内は娘が非常時用にと$300くれたのを鞄の底から取り出したりして、兎に角所持金をかき集めて、ようやく$400に達した。何とその辺のメモ紙にサインした領収書での搭乗となりましたが、他の乗客はかなり諦めて「明日だ」と引き返して行った。南国的というか、珍しい体験でその領収書兼搭乗券は、何度かの海外渡航中でも白眉の記念品です。(別添のメモ参照)
 便名と予約番号に昨日確認済みであることを下手な英語でまくしたてているのを脇では家内が何事かと経過を不安そうに眺めていましたが、自己作成の継続した旅行日程には、座席名まで記録してあるのを係員が見て、パスポートと確認しOKとなった。若いスペイン系のアメリカ人は、No No と連発されて、諦めて空港から出て行く姿もあり、搭乗してみると機内は大変に空いていて、乗機は、定刻より30分遅れての離陸で、焼け付くような日差しとヒスパニック系のスペイン風の舌の回る英会話の飛び交う喧騒な空港を後にした。
 途中は、近距離機なので比較的低空飛行であるところから、大西洋やメキシコ湾のフロリダ・ブルーの海に浮かぶ島々・フロリダ独特のマングローウブの湿地帯・多くの著名なゴルフ場・それに浜辺の樹林の中に佇むプールを備えた別荘等の自然の華麗さと人間の富の集積のような景色が機窓から眺められて、交渉成功の達成感と共に愉快な空の旅と陸のドライブの一日が過ぎ、ホテルの窓からはマイアミの海岸線や世界の豪華船が停泊しているベイフロント・パーク・マイアミ港が一服の絵になるインター・コンチネンタル・マイアミ・ホテルの10階の自室には出発の12時間後の午後9時無事帰着した。

3 ミネソタ・ナイス
  ミネソタとは、1858年に32番目の州として合衆国に加盟したアメリカのミネソタ州のことで、この州名はインディアンの言葉「空色の水」を意味し、俗に言われる「一万の湖の土地」が州の特徴を表わし、車のライセンス・プートにも「一万の湖」と付記されているくらいです。実際には15,291の湖があり、アラスカ州を除けばどの州よりも内陸水域が広く、湿地帯も広大に分布しています。
 ナイスはご承知の魅力ある・見事な・快適ななどの意味です。
 「ミネソタ・ナイス」とは、自分達が愛して止まないミネソタの地を訪れる人々を自分が出来る範囲で精一杯もてなす州民の心意気を表わす言葉(11/1にミネソタ州政府観光局日本事務所瀧川一憲日本代表の説明)ということを最近になって知りましたが、私は、以前に同州の知事からミネソタに本社のあるNW航空のCEOや航空旅客関係者そして道に迷って尋ねた路傍の人々からも、心の琴線に触れる接遇を異国の地で教わりました。

◎平成13年8月12日(2001) Minnesota Niceの琴線に触れて

ミシシッピー河(2350mile)唯一の
セント・アンソニイ滝上流の

Amtrak(米国鉄道輸送公社)鉄橋を渡る
三重連デーィゼル機関車牽引の貨物列車

ミネソタ州とウイスコンシン州境の
景勝地スティルウオターの外輪船
景勝地スティルウオターのDack Cafe’で
遅い昼食 背景は州境の橋
ジェス・ベイチュラー現ミネソタ州知事と
(8/11/99’)との経緯

 ジェシー・ベンチューラ米ミネソタ州知事。
 ご存知の方も多いと思います。米海軍特殊部隊将校として世界の局地紛争時の現地派遣部隊指揮官としての活躍、プロレスラーに転じての来日、ハリウッドのアクションスターへ転換後に、政界への華麗な転身で知事への当選を果たした現職の知事です。氏との出逢いは99'年に東京赤坂プリンス・ホテルでの同州への企業誘致観光キヤンペーン会場では、ボディガードよりも二廻りも大きい体躯でありながら、親しみ深い眼と語りかける話し方に周囲への気配りに圧倒され、そのカリスマ性の魅力に惹かれました。
 フロリダからミネソタに寄りましたが、丁度その数日前のハリケーン被害現地視察の公務が急遽入り、表敬訪問は実現せず残念な思いを帰国時間が迫る中にホテルフロントで、8/18に同氏へ渡す往時の記念写真などと下手な英文手紙を走り書きで出したところ、早速同氏のサイン入りの写真とミネソタ州政府公文書による自署の御懇書が8/27に日本の東京の外れの東村山の拙宅に到着し、ミネソタ・ナイスに触れ驚嘆し、旅の楽しさを増やしてくれました。
 果たして同様な立場の方が、一介のそれも一度だけ記念撮影に応じた者へ、州知事という公務多忙な方が自筆のサインや自署の手紙を出すでしょうか、去る11月の中間選挙には出馬しませんでしたので、この次の知事は共和党のポレンティー氏の当選が報ぜられており、任期も僅かと思いますが、ご活躍を心より祈念する次第で、たった一度の出逢いにも拘わらず、かつ、下手な英文を理解し返事までしてくれた同氏には、是非 再会を果たし、お人柄に接したい気持ちは現在も同じです。
 NW航空はCEOからお出迎係まで「ミネソタ・ナイス」
 NW航空は日本が戦後「翼」を復活しての第一便にJALに対して、トレイニングから機材と人材等を全面的にバックアップしたことでも歴史的に知られています。
 NW航空は本社がミネソタにあるところから、何度か「ミネソタ・ナイス」の接遇を享受した経験があります。
 フロリダからミアポリス/セントポール空港に到着時には、NW航空出迎係のD Julyさんのお出迎えを受け、その後、レンタカーまで案内してくれました。
 私どもは、その四日後にアメリカで一番大きいショッピングモールのMall of Americaで帰国便の時間を気にしながら、家内は娘のリクエストの化粧品探しに夢中でしたが、なかなか発見出来ずに半ば諦めかけていた時に、偶然というか幸運にも出迎係のD Julyさんと再会し、覚えていてくれたのです。Hi ! May I help you Madam ? と挨拶されたので、地獄で仏の気持ちで、早速、お目当ての化粧品を尋ねてみると手際良く、各売り場の責任者と折衝して目指すものを探し当てて、買い求めることが出来ました。
 米国人はビジネスライクだと私は聞かされていましたが、いやいやどうして、自社以外の場所で、しかも自分の時間に、自社の顧客に対して誠心誠意・採算度外視の対応には、とても嬉しかったし、しかも、しっこくなく、必要な案内を済ませるとバイバイと別れていった。将に「ミネソタ・ナイス」でした。
 異国の地で受けた親切は忘れられないと、私どもは御社の贔屓客になると誓いました。
 この状況と帰国便のフライトアテンダントRobert氏の接遇態度が同じことを二度と聞かない先取性の対応にすっかり長旅の疲れも癒されて感謝する旨を私は、同社へ伝えところ、CEOのRichard Anderson氏の指示で、Administrator Executive CommunicationsのC B. Boulton 氏からのNW航空会社の公式文書の御懇書には丁寧にCEOのRichard Anderson氏のからの趣旨が伝えられ、我が家にとっての家宝的書簡となりました。
 その他にも、前々職時代に航空機内のFirst Classの実態を知りたくて、First Classを生涯一度だけ利用した際に、ホノルル空港から一番安くワイキキへ行く手段に、タクシーでもない、ハイヤーでもない、乗合バンを選んだ私どもをNW航空出迎係の退役米海兵隊大佐のG Meyers氏は、このことをシッカリト憶えていて、翌々年にEconomy Classで再訪したら、G Meyers氏は、自分の仕事以外なのに乗合バンまで私どもの手荷物をわざわざ運んでくれたのには、ビックリし、帰国後にお礼と感激の意を同社に表したところ、当時のNW航空CEOのJ H.Dasburd氏より自筆で、「わが社の社員の行為で満足されて、このことを社員にも伝える」旨の返書が届いた。全世界の六大大陸の120カ国750都市に400機を45,000名の従業員で毎日安全に航空機を飛ばしている世界有数の航空会社トップの気配りには恐縮し、トップはスタッフの実態をあらゆる機会に、把握して士気の高揚と社業の興隆の術とするなどを見習い、学ぶ点が多々ありました。
 なお G Meyers氏はこれ以外でも大変に優秀な顧客係としてNW航空最優秀社員として、全世界45,000名の従業員の中から年間たった12名の最優秀社員に推挙されNW航空CEOのJ H.Dasburd氏より、表彰の栄誉を受賞したそうです。その後、私ども家族や娘夫妻の新婚旅行等で、ホノルル国際空港への発着では、必ず接遇してくれますし、Xmas cardなどの交信をしたり、日本の岩国で米海兵隊大佐として勤務していた当時の写真などの送付を受けるまでの友情の絆を保っています。

州民の心意気
 ミネアポリス/セントポール空港からはレンタカーでホテルへ向かいましたが、途中には、前回に訪問したミネアポリス/セントポールのビル群の町並みが前方にフロントガラス越しに見えてきたので、安心してハンドルを握っていました。
 ところが、ビル群の町並みが右側になり、後方になって、全く見えなくなってしまいました。道路標識のSとWを間違えて反対方向へ約19mileも走行したのが、分かったのはホテルへたどり着いてからでした。
 やっとのことでミネトンカという街の大きなICから、高速道路を降りて、道端の本屋さんで尋ねると、遥か彼方の山を指してあの向こうだとのことでした。わざわざ店の外まで出て、右回りの戻る道筋をこちらの地図の方向に合わせて教示してくれ、まだ夏だから,ゆっくり行っても日没にはならないと親切に我が事のようにPlease take care !と送り出してくれ、私どもの車が右回りの戻る道筋を確認しているのが、ハック・ミラーに映りました。なんと親切な「ミネソタ・ナイス」なのだろうか。ホテルに着く前に,念のため、もう一度高速道路を下りたところのホテルでも尋ねたら、地図にマジツクで記して、受付の方が矢張り外まで出て教えてくれました。お陰で日没前に無事到着しましたが、走行距離は70milesほどになっていました。ちなみに空港からホテルの距離は地図の表示は、10mileでした。

この旅で、次の五点がとても印象に残りました。
@ 大勢の方々の親切と心配りに支えられました。
A アメリカには多種多様なテーマレストランが存在していいました。
B 空港・駅・ホテル・百貨店・案内所・博物館・食堂等で多数の年配者が誇りを堅持して、私どもの要望に常に即応してくれました
C 多くの機会に「どうもありがとう」「どういたしまして」「かしこまりました」「どうぞお先に」「いかがですか」などを数多く耳にしましたが、残念ながら最近の日本ではあまり聞こえません。昨年夏に、我が家に21日間ホームステイしたアメリカのインデペンデンス市の16歳の女子高校生Sスカァティル.も同意見でした。
D 親切と友情は鋼鉄より硬い鎖だ。と信じます。

―機会はどの場所にもある−オウィデイウス

異文化と可能性を好奇心での追求の旅にまた出たい。ありがとうございました。