韓国歴史の旅





国際情報専攻2期生・修了 情野瑞穂

 釜山金海国際空港に降り立った私たちを迎えてくれたのは、日本とさして変らぬ風景。ハングルがなければ、日本の或る小さな町の名を出されても納得しそうだ。歴史研究会メンバーを主体とした今旅行参加者9名を乗せたワゴン車が、郊外から街の中心部へと入っていく。韓国では本日9月20日から3日間、“秋夕”という日本の盆にあたる祝日に入るため、街のほとんどのシャッターが下ろされ、人や車の通りは少ない。9割以上の人々が墓参りのためにそれぞれの田舎へ帰るのだという。30分ほどで、濃彩の装飾が細かに施され、韓国風の屋根が乗っかったコモドホテルが見えてきた。私たちの本日の宿だ。豊臣秀吉の出征に抗すべく海戦で活躍した亀甲船を象っているというが、今や、一番の上客は日本人らしい。釜山の街は小高い丘が連続した情緒ある地形の上にあり、ホテルからは素晴らしい夜景が広がっていた。
 釜山では、モダンで直線的な建物の中に展示物を整然と並べている釜山市立博物館と、UNが管理する世界で唯一つの墓地を見学。UN墓地は現在国連記念公園と呼ばれ、約45,000坪の敷地は韓国ではなく国連の所有地として管理されている。朝鮮戦争で亡くなった11,000名にも上る兵士がここに眠っていたそうだが、1954年以降それぞれの祖国に帰って行き、現在は21ヶ国、2,300墓が安置されている。トルコ兵の墓が最も数多く残っているが、両国の相互信頼は今も強いそうだ。
 釜山に接する工業都市、蔚山市の郊外へと移動する。朝鮮半島の南岸一帯には秀吉の命により30以上もの城が築かれた。現在はそのいずれもが土台の石垣を残すのみであるが、日本では関が原以降の築城ラッシュで既存の城を破壊した上に新城を建築したためにその時代の遺構に乏しく、日本の築城課程を知る上でも貴

西生浦倭城

重な資料となっている。その中でも最も保存状態の良い西生浦倭城を見学する。文禄2年の加藤清正の築で、石垣の角石を縦長に積み上げたところには微妙な反りが確認でき、虎口の配置の様子が梯郭式のようにも見え(城郭の要所にあたる出入り口が梯子状に配置されている)、熊本城を彷彿とさせるともいえなくもない。ところで熊本には「ぼした祭り」というのがあって、ちょうど私たちの訪韓の1週間前頃に、毎年行われている。清正が出兵で苦戦した際に八幡様のご加護により無事帰国できたことを感謝し、兵を引き連れてお礼参りしたのが始まりで、当時の模様が祭りに受け継がれているそうだ。しかしこの“ぼした”は“(朝鮮を)滅ぼした”であって、韓国の方たちがお聞きになったら如何なる顔をされることだろう。
 夕刻に古の新羅の都、慶州に到着。世界遺産仏国寺を見学。門をくぐって現世から仏世界へと入る構図が示されている。新羅を代表する古刹だが、1593年の壬辰倭乱(文禄の役)でほとんどの木造建築物が焼失。その後再建を繰り返して今の姿は約四半世紀前に完成した。新羅は仏教を国教とし手厚く扱ったため仏教遺産が数多く残されており、ここ慶州はしばしば“屋根のない博物館”と称される。内国の人たちにとっても、ハネムーンや国内旅行先として人気が

仏国寺

ある。ところで、写真のポーズにはうるさい韓国人には、仏国寺では写真を撮るお決まりの場所があって、私たちもそのスタイルを倣ってみた。
 この日の宿は韓国で一般的な旅館。とはいえその外観は、日本人にとってはまるでブティックホテルのようにネオン装飾がはげしい。部屋に入ると、蛍光色系のピンクや黄緑の派手な布団が1組、枕が2個並べられている。韓国では色の好みが日本とは大きく異なり、また家族や友人同士ならば布団をシェアする。伝統的な建築様式の平屋の旅館はほとんど姿を消し、今はこうしたタイプのものが多くなっている。釜山が汗ばむ陽気だったのにここではもう紅葉が始まりかけていて、オンドル部屋の温もりが心地よく伝わってきた。
 
22日の朝は小雨模様だった。それもいいだろう、古都にはしっとりした雰囲気がよく似合う。まずは国立慶州博物館を訪れる。4つの建物には常設、それに特別展示がなされ、その中は更に細かいブースに分かれている。野外展示物を巡る小径もきれいに整備されている。新羅文化の粋を収集した、歴史ファンにはお涙物の一級品が勢揃いしていた。
 次に古墳群へ向かう。この辺りは、膽星台と呼ばれる現存する東アジア最古の天文台や、新羅の王宮跡、新羅王の“金”氏の始祖伝説のある林など、見所が連続している。ソウル(漢陽)やその王宮が風水に照らされて建設されたことは遍く知られるが、この時代においても、風水や天文占いが重要な位置を占めていた。膽星台は農耕のための暦として以外にも使い出があったわけだ。半月の形をした城址には、現在はわずかな石垣と世界最古の冷凍庫(石氷庫と言う)だけが遺されて おり、王宮のあったと思しき場所は正しく“夢の跡”、一面に雑草が生い茂っていた。慶州にはざっと360もの古墳があるという。どことなく似ているような気がする日本の奈良とは姉妹都市を結んでおり、国内の修学旅行先になっている点も同じだ。大陵苑は内23基を巡れるよう整備された公園で、最も奥にある天馬塚は内部見学が可能。金や翡翠をふんだんに使用した宝物が多数出土している。

倭館「護国の橋」

 今日は秋夕の最終日。墓参りのため里帰りの習慣が根付く韓国では、全人口の約4分の1がソウルに集中しているため、その方面に向かう交通ラッシュは日本の比ではない。そういえば、成田を出発するときに一緒になった、幼子を負ぶった韓国人の母親は、お盆だから帰郷するのだと話してくれた。慶州から次の目的地である倭館へは、正にソウルへと向かう高速道路を中途で下りたところに位置する。大渋滞を予想していたがなかなかすんなりいっている。と思いきや、何か嫌な予感がして運転手に確認すると倭館のインターを過ぎてしまっていた。5日間移動を共にするこの運転手、平素はソウルの模範タクシー(韓国には「一般」と外国語を操る「模範」との、運賃計算の異なるタクシーが存在する)を運転していて、ソウル以外、今回の私たちの訪問地のすべてが初めての土地だという。韓国側での事前打ち合わせも十分ではなかったようだ。一旦高速を下りUターンをして倭館の町に入り、更に行く人々に道を訊き訊き、やっと洛東江に架かる「護国の橋」に着いた。だいぶオーバーな道を辿ったが、目的はこの橋、ただ1箇所だった。
 三国時代から朝鮮戦争まで、この川を挟んで数多くの悲劇が繰り広げられてきた。現在は鉄道、車道、人道と、3本が架橋されているが、うち人道が最も古く、ソウルと釜山を結ぶ要所として日本がその統治時代に建設したものだ。朝鮮戦争の際、“北”を食い止める手段としてUN軍が橋の一部を落とした史実が生々しく残されている。倭館という地名は、室町・江戸時代に日本の貿易使節団が滞在した館があったとの由来からだが、残念ながら現存していない。人口約3万のこの町を司馬遼太郎は『韓のくに紀行』で「この小さな村の歴史のおそろしさはどうであろう」と表わしている。要衝であるが故の惨劇を幾度となく経験してきた町と川は、今は何事もなく自然にそこに在った。
 韓国の中でも発展目まぐるしく、研究・学術の拠点となっている大田市へ移動し、その郊外にある儒城温泉に泊まる。翌日は百済の都だった扶余の町へ。慶州とは一転し、目に見える遺産が少ない。そのため“想像力で感じる古都”とも言われる。公州から538年に遷都してから、660年に新羅・唐連合軍により滅ぼされるまで栄華を極めたこの地を、百済王族は簡単に捨てた。彼らは方々に散って、永らく荒廃の地となったために、遺産が少ないと説明されている。しかしながら定林寺の址には、韓国の石塔の祖といわれる5重塔が7世紀からそのままの姿を保っており、扶蘇山城では、古の優雅な生活ぶりを伺い知ることのできる建造物が広大な敷地に点々と配置されている。また、先史時代の竪穴式住居址なども遺されている。陵山里古墳群はまだ発掘の最中で、訪れた時も松林の中をブルドーザーが作業をしていた。小さな円墳の連なりは、斯様にして人知れず眠ってきたのだということが容易に見て取れる。
 百済と日本の関係の深さは、主として仏教文化において周知の通りだ。扶蘇と奈良県明日香村は、陵山里古墳群で発見された壁画を契機に1971年に姉妹都市提携をしたそうだが、その翌年には高松塚古墳でも壁画が見つかり日本中が沸いた。そしてそれ以後、両考古学界交流は一層深化することになる。扶蘇山城観光のハイライト落花岩と皐蘭寺は、敵軍が入城してきた際、その身を数十メートル下に流れる白馬江に投じて貞節と忠節を守った乙女たちの悲話の地。その寺にはいつに描かれたものか、一艘の舟がこの津に到着する場面が壁画となっていた。舟上人は日本から仏教を学びにやってきた遣いだと、近くにいた韓国人ガイドが流暢な日本語で説明をしていた。

コリアハウス

 町の食堂でごく庶民的なしかし至極旨い昼食をとり、一路ソウルへ。大渋滞にはまり19時からの舞台鑑賞が危ぶまれたが時間前に到着できた。劇場の「コリアハウス」は外国人に韓国伝統家屋と生活様式を紹介するための施設で、開幕までの間、敷地内の建物を見て回った。ここは李氏朝鮮初期の6忠臣の1人である朴彭年の私邸だったが、日帝時代には総督府政務総監の官邸として使用され、伊藤博文もここに居した。コリアハウスはソウルタワーのある南山の麓にあるが、博文をハルビン駅で暗殺した韓国民族運動の英雄、安重根の記念館もここから程近い場所に建てられているのは、何かの意図があってのことか。日本統治下、南山には神社(名を朝鮮神宮と言った)、東本願寺、憲兵隊司令部などが置かれていたが、それ以前の元の姿を取り戻そうという運動があって、4年前に回復している。南山麓から2、3キロ以内には京城府庁、京城駅、朝鮮銀行、三越などといった日帝時代の遺構があり、現在それらはそれぞれ、ソウル市庁、ソウル駅、韓国銀行、新世界百貨店になっている。
 舞台は大変素晴らしかった。劇、音楽、舞踊といくつものショート・プログラムから構成されていて、宮廷での遊戯から農楽まで幅広いセレクションだった。ちょうど時季が合ってのことか、韓国南西部の海岸地方で受け継がれている「カンガンスルレ」という歌と踊りも見られた。これは豊作と豊漁を祝うもので、月の最も美しい旧暦の正月と盆に表現される。
 とうとう最終日を迎える。ソウル中心地の端に位置する西大門独立記念公園へ向かい、園内にある日本統治時代の刑務所の跡を訪れてみた。抗日運動家が投じられたその建物は煉瓦造りになっていて、その染みの入った色合いは年月を感じさせる。内部は刑務所歴史館として公開されており、韓国受難の歴史を今に伝えている。それとはまるで対象的に、塀から一歩外に出ると、緑に囲まれた閑静な市民の憩いの場となっている。パリの凱旋門を模したという独立門も近くにある。
 ソウル観光の目玉である景福宮は、李氏朝鮮時代の象徴でもある。正門である光化門の裏手には、近年まで日本総督府が朝鮮の象徴を視界から消去するかのように立ちはだかっていた。終戦後国立中央博物館として使用されていたが取り壊されて、取り代わりその場所にはかつてあった勤政門が再建されている。博物館は現在はその位置を少しずらして公開されている。

江華島

 最後の訪問地は江華島だ。日本人にとっては江華島事件があまりにも有名だが、先史時代の石墓や、朝鮮創国神話の残る聖地などもあり、高麗時代に元の襲来を避けて一時遷都した場所としても多くの史跡を持つ。島は本土とほんの数百メートルしか離れていない。そこからソウル(漢城)へは漢江を上って50キロほどしかなく、都を防御する要地だった。浦賀へのペリー来航以降西洋に注視されるようになった朝鮮は、入り口にあたるこの島をフランスやアメリカに一時的に占領されはしたが、その都度奪還に成功をしている。その後1875年、日本の軍艦「雲揚号」が朝鮮からの砲撃を誘うべくこの水道を通り、どんぱちをやった後、不平等条約を締結した。朝鮮開国の契機となったものだ。朝鮮半島は外からの侵略に絶えず脅かされてきた。江華島はその証を伝えている。
 この旅は4泊5日という短いものではあったが、三国時代から高麗、李氏朝鮮、日本統治下、そして現代の各時代をすべて垣間見てくることができた。また日本との関わりという点で、釜山での博物館の展示物は興味深いものがあったし、倭城や倭館の地を実際に訪れたことは特筆したいと思う。あの時の震えるような感慨は一生忘れないだろう。下調べを細かくしていたため情報ばかりが頭の中を巡っていた。実際に目にした時は、それらに声をかけたい気持ちになった。ああ、ここにいましたか、と。ハワイやサイパン、香港などといったところから、今の海外旅行の主流は隣国へと移ってきている。韓国人気は今後も続くだろう。「初めてなのに懐かしい」。聞いたことのあるフレーズを私たちの誰かが口にした。似ているところはたくさんある。しかし違うところも多く発見した。地形を目にして納得する歴史もある。実際に行くこと、見ること、聞くことの大切さと楽しさを改めて知った旅であった。