ライプニッツと「科学政策」について(承前)
―著作『学問的精神』をめぐって―


人間科学専攻1期生・修了 大槻秀夫

著者紹介:

大正14年生まれの元高校教員(昭和61年に定年退職)。福島市在住。数学を(時には現場の事情で物理や電気を)担当していた現役教員時代以来、「近代科学」を産み出したのは何なんだろう、という疑問を懐いてきた。通信制大学院が出来るのを知って、本研究科に入学。上の疑問を自分なりに解き明かしたいと願い、修士論文のテーマに「アイザック・ニュートンと科学革命」を選んだ。大学院で学び続けたい気持ち止み難く、この4月から科目等履修生として勉学を継続している。

1.

本誌前号で、私はライプニッツの著作『形而上学序説』の断片を取り上げ彼の物理学的思想についての推測を行い、彼には現代物理学的思想についてはその萌芽さえ認められないという旨のことを述べた。
 それは彼の科学的能力のせいではなく、時代がまだ熟していなかっただけのことであり、彼のような偉大な能力の所有者であっても周りがそのための準備を整えていなければその能力を発揮することが出来ない。このことを言いたかっただけである。但し、それらの人たちが時代の先行きを見通しそれなりの準備を整えたのではなく、その人たちもその時代の成り行きに従いその時代の要求に押されて学問研究に励んだ結果、偶然にも次の時代を開くべき新たな問題を提起するに至ったと言うべきであろう。しかも当の問題提起者はそのような問題提起をはっきりとは自覚せず、他の慧眼の士、例えばプランクの如き天才の出現を図らずも促したのであると私は言いたいのである。
 そのようなわけでライプニッツは、プランクの時代に生まれなかったために現代物理学の形成に参加することは出来なかった。このことは当然のことである。けれども、彼は彼の生きた時代の物理学の発展充実については存分にその天才を発揮したと言えよう。そのような訳で、古典物理学から現代物理学への移り変わりを考察する前に、一先ずライプニッツのもう一つの著作『学問的精神について』を取り上げて、論じてみようと思う

その際、前に紹介した『科学の歴史』の中の2つの章、「ガリレオと中世の力学」、およびこれに続く「中世後期及び近代初期の科学における仮説」を参考にし理解のための助けとしたい。

2.

 この『学問的精神について』は『形而上学序説』につながる続編としての意味を持つ。ここでは、自然学探究の目的と方法、対象などについて多彩な観点から述べられている。主題「自然学についての書への諸構想」の第二部「入門の構想」が原題であるが、訳者下村寅太郎は「学問的精神について」としたほうが文意が出るように思われるので、これを標題としたと断っている。
 さて、先ず前段では、自然学探究の目的と方法について述べている。彼ライプニッツは単なる思想家ではなく彼の思想の実行者である。思想を思想に留めず、その思想をふだんに実現しようとした。このことが「どんな学問も知識欲のためにでなく行為を目的として求められるべきものである」という言葉に現れている。そして「我々は幸福を手に入れ、永続的な快活の状況を得るために働く」と具体的にその目的を示しているのである。更にまた「精神本来の力は知性である。理性的に行為すれば我々は幸福になり正しく考えれば外界からの影響を受けなくなって自由になるであろう」と述べているのである。そして外界の影響を避けるためには物体からの知識が必須となる。その理由について、第一に事物の目的と原因を認識し、第二には我々の身体を維持し保護するためとし、第一のものは理論的自然学に、第二のものは経験的自然学に期待すると述べている。
 理論的自然学は事物の目的と原因を取り扱う学である。真の知識というものは自然の驚くべき作品を発見し、自然の作用の仕方を認識した場合外的事物に対する力を増すけれども、その知識は別の効用を有している。それは精神の完全性ということである。神にたいする愛を基礎付け、それだけ強く神を愛している事になる。ここからもっと深いまた最も永続的な快、幸福と言うものが成立してくるに違いない。このようなことは自然学の重要な目的のために考察せねばならない。この点をライプニッツは強調する。ここに、神への帰依の思想が垣間見える。
 次に、第二の経験的自然学について。ライプニッツによれば、それは人間の生活にとって有用なことである。従ってそれは国家において奨励されねばならない。快い生活を送るために必要なものごとはその大部分が我々が経験の中から発見したものである。ここから色々な種類の人間社会が成立してきた。
 さらに、国家行政の果たすべき義務にライプニッツは言及している。より高度な技術の遂行という課題のおかげでたとえば材料の調達、準備、分配を通して助力がおこなわれることになり、今日では発明家や何か新しいものを導入する人々に対して、賢明無比な諸侯から賞が出されている、これは当を得たことである。それが都市全体や国全体を栄えさせることにもなると評価している。
 そしてまた、「自然史」の働きを、つまり学問にとって無益のように見えがちな観察を、公に知らせることはそれらを「結合法」的に(言い換えれば、様々な要素の様々な組み合わせ方を考えながら)扱う天分に恵まれた者については事物相互の、従来は知られていなかった諸関連の新しい発見が芽生えてくるだろうとしている。そして才能、判断力、学殖において優れている人を選んでこの企ての先端に置くだけでなく、親切心に関しても優れた人を選ばなければならない。このような人たちがお互いに賞讃に値するような他人の努力を奨励するだろうから人類の為に最高の貢献をすることができよう。仮に学問上は及ばないことがあっても誠実さの上で劣ってはならない。このように望む、とライプニッツは明言している。これに続いて彼は更に具体的な方策について述べているのであるが、それについては次の機会に、続けて言及するつもりである。

余談として今年度のノーベル賞受賞者について従来の受賞者とは一味違った朗報であったと私は感じている。詳しくは述べないが、単なるサラリーマン技術者と目されていた田中氏やマスコミにあまり注目される事の少なかった小柴博士の価値を見出し、今後の科学者の育成に大きな刺激を与えたと言うことは、今後注目して待つべき歓迎すべき出来事であったと私は感じている。更に一言述べるならば、ノーベル賞受賞に便乗して(あえて申し上げるが)文化勲章や名誉博士、果ては名誉市民を追贈する現象には苦言を呈したい。何故ならばそのような追加によっては決して田中氏や小柴博士の価値を増すとは考えられないからである。田中氏らにとってはノーベル賞の受賞によって既に最高の栄誉を受けたのであり、国や出身都市や学校の賞がそれ以上の価値のある賞とは考えられないからである。(勿論それは時と場合によるが、例えばノーベル賞がまだ与えられない以前の時)。それよりもノーベル賞を貰っていない人の中にそのような価値のある人が埋もれていないかを考えるべきである。