ピッピ・ナガクツシタの経済理論




文化情報専攻4期生 岩淵 恵

 歴史は人々が真剣に生きた跡であるから、このような態度はいけないのだろうけど、私は歴史ウオッチングを趣味としている。
 だから歴史研究会に入ったのだが、回りは国際情報の人が多く、かつ国際情報には普通の区分でいえば経済学の人が多い。だから実際顔を出せば話がまるで合わないことになるのだが、私は文化と経済は案外近いと思っている。
 そう思い込んだ始まりも終わりも、子どもの本だった。『長くつ下のピッピ』という児童文学を読まれた方もいらっしゃると思う。私も子供のころ読んで、しばらくの間ピッピを理想の女性にしていた。何しろピッピは世界一力持ちで泥棒もおまわりさんもやっつけるとんでもない女の子なのだから。そのピッピが本の中で言っていた。「大人はひょっとこ税なんてくだらないことにばかり頭を使っているけれど、かんじんなことはぜんぜんわかっていない」と。ピッピが言うことだから私はその通りだと思い、受験のときには経済学部をさけた。大学は教養学部だからその気になればなんでもできたのだが、経済学のサミュエルソンだったかの電話帳みたいなテキストを見て、「精神的ひきつけ」を起こしてしまった。それが経済学との完全な決別である。
 何にでも首をつっこむたちなので、数年前、ふと紹介されたフィリピンの児童施設の人に絵本をおくることになった。彼女がやはり児童文学『あしながおじさん』の続編の主人公、サリー・マクブライドみたいに思われたからである。本集めに格闘している時、絵本とお金とヘモグロビンは似ている、などとへんなことを思ってしまった。というのは三つとも子どもの心や社会や体内を回りまわっているうちに、情操(精神的栄養)や経済力や栄養素を各部所に配るという働きを持っているからである。経済素人である私から見れば、「経済の停滞」などというのは、コレステロールが癒着した血管が硬直化するのとそうかわらないように思われる。そうなると不良債権処理などという大手術よりも、取引を明細にするというような普段の経済生活に気をつけたほうがいいのかもしれない。
 ところで文化というのも門外不出とばかり一所に停滞させてしまうとやがて硬直化を招いてしまう。経済は社会の潤滑油とよくいわれるけれども、いうなれば文化は柔軟仕上げ剤のようなものだ。はたして私が文化的であるかどうかはわからないが、歴研という交差点で経済人とあい、ついでに私のひどい経済音痴を治してもらえればと思う。ちなみに私が住んでいる米沢で歴研の集会をすることになったそうだ。以下はそのつもりで書いた「お国自慢」である。

米沢は大変面白いところです。大河ドラマには必ずといっていいほど「上杉」か「米沢」がでてきます。でも、歴史を誇るくせに古い建物はないアンバランスなところがあります。古いものがありすぎるからその価値がわからず逆に大事にしないのかもしれません。緑(自然)についてもしかり。むしろ古いものと自然と記録を残し、それを観光産業などに利用するような発想があってもいいのにと思います。たとえば図書館にある「前田慶次ファイル」「雲井龍男ファイル」のようなファイルを増やし、大宅壮一文庫みたいに米沢図書館に歴史作家、映画監督、プロデューサーなどが集うようになって、歴史ドラマや映画のロケは必ずここで行われるようにすれば、全国からファンがきて観光都市になるし、景観の保護に行政はもっと積極的になるし、全国放映で米沢はますます有名になるし、市民はスターに会えるし、けっこうなアイディアではないの・・・というようなことを、米沢で語り合いましょう!
 と思っていたら、米沢集会はお流れだそうだ。これからまじめに勉強せよということなのかもしれない。でも困ったことに、文化情報で扱う「能」はますます歴史がパンパン詰まっているんですねえ・・・。とにかく、面白い。「芸術は爆発だ!」の岡本太郎氏のように、「研究は知的遊びだ!」などと言えるかもしれません。