『日本人画家滞欧アルバム1922』
@渡欧する日本人画家






文化情報専攻3期生
戸村知子

1920年代「巴里」。それは芸術家にとって魅力溢れる都市。
 ピサロ、モネ、セザンヌ、ルノワール、ゴーガンなどの作品がギャラリーに並び、マチスやヴラマンク、ユトリロ、ピカソ、シャガール等がアトリエで絵筆を握る。イサドラ・ダンカンのモダン・ダンス、ファッション界でのココ・シャネルの登場、モンパルンナスのカフェの賑わい。多くの芸術家達のジャンルを越えた交流が、新たな作品を生み出していた時代。それは日本人が油絵修業のためヨーロッパ、特にフランスへ渡るようになって、まだ半世紀にも満たない頃のこと。

1922年。大正11年のこの年、日本では『週刊朝日』[i]『サンデー毎日』が発行され、週刊誌時代の到来を告げています。そして、美術批評家のエルマン・デルスニス氏による「フランス現代美術展」がフランス大使館の後援で開催されたのも同年5月。出展作品数が400点を越える大規模なものであった様子が、『週刊朝日』第1巻10号にも掲載されています。この展覧会は、前年に開催されて大きな反響を呼んだ倉敷文化協会主催の「第1回現代仏蘭西名画家作品展覧会」[ii]とならび、まとまった数の西洋美術の作品が国内で展示される画期的なものであったといわれています[iii]

それまでは『白樺』や『中央美術』などの雑誌や複製写真でしか見ることができなかった西洋美術の作品。そのオリジナルを国内で間近に観賞できるようになったのも1920年代のことだったのです。そして、その後も西洋美術を紹介するこれらの展覧会が継続的に開催されたことによって、日本国内ではますますヨーロッパへの憧憬が高まったにちがいありません。また画家や画家志望者にとってオリジナル作品から受ける刺激は大きかったことでしょう。

第一次大戦で一時減少していた巴里留学も大戦が終結すると再び盛んになり、1920年代には多くの日本人画家がヨーロッパへ渡っています。その原動力となった一つに、国内における西洋美術のオリジナル作品との接触をあげることができるのではないでしょうか。そして、この時代の新聞や雑誌に掲載されたヨーロッパからの通信・寄稿文は、留学を志す者の貴重な情報として、高い関心が寄せられたことも容易に想像がつきます。前号の電子マガジンでも取り上げた1922年の大阪時事新報紙連載記事「芸術巡礼紀行―国画創作協会同人―」も、このような時代に読まれたものでした。

では、実際に渡欧した画家達はヨーロッパで何を見て、何を感じてきたのでしょうか。また、帰国後の活動に渡欧の影響をみることができるのでしょうか。1921年に出発した「芸術巡礼」の一行、国画創作協会の画家と黒田重太郎の足跡をたどりながら、当時の画家達の視線の先にあったものを探ってみたいと思います。第1回目の今回は、神戸港を出発して巴里に到着するまでの足跡を追ってみることにします。

1921年10月4日(火)に神戸港を出航した賀茂丸は(写真参照・日本郵船歴史資料館所蔵)6日(木)に門司港、8日(土)には揚子江へさしかかり上海へ到着。

小野竹喬(当時:橋)、土田麦僊、野長瀬晩夏、そして黒田重太郎の一行は、上海を見物、龍華寺の7層の御恩搭を訪れ、四馬路街を歩き、その後萬歳館に1泊。翌日は蘇州まで足を伸ばし、唐の詩人、張継が詠んだ「楓橋夜泊」で知られる寒山寺を見学。その日の夕刻に上海を出港。13日(木)に香港へ着。一行は巴里から帰国途中の知人に会い、日本への手紙を託しています。ビクトリア・ピークへケーブルカーで登り、自動車で町をまわり一泊、翌日出港。次の停泊地は新嘉坡(シンガポール)。

19日(水)の朝9時に新嘉坡へ入港予定が雨天や暗礁のある狭い水路を通過のため午後3時に。その日は碩田館ホテルへ宿泊。写生地を求め自動車を走らせる。翌日夕方5時の出港予定時刻1時間前まで写生をして過ごす。21日(金)に馬拉加(マラッカ)に寄航。2時間ほどの自動車観光をすませる。この日、上陸するための蒸気船を待つ30分の間に土田麦僊は23枚のスケッチを終えていたという。

22日(土)は彼南(ペナン)に到着。寺院などを見学。夜9時の出港予定が遅れ、結局23日(日)の午前4時になる。27日(木)の夕刻、古倫母(コロンボ)に着。翌日午後2時に出港。

月がかわり、11月9日(水)に蘇土(ファイド[スエズ])に到着。ここで一度上陸し、カイロを見学。夜に駱駝で砂漠を観光、ピラミッドを見てまわる。翌日は汽車で坡西土(ポートサイド)に向かい、そこから再び乗船。地中海をすすみ、途中、ストロンボリ火山を眺め、コルシカ島山の向こうに雪を戴くアルプス連峰を見て、荒波にも遭遇。11月16日(水)馬耳塞(マルセイユ)に到着。約40日間の船旅はここで終わる。

 船を降りた一行は、マルセイユを観光。ノートルダム・ド・ラ・ガルド教会や美術館を見てまわり、少し予定を変更してアヴィニヨンに宿泊。翌17日(木)にアヴィニヨン観光をすませ、リヨンに宿泊、観光。18日(金)の午後3時半にリヨンを出発して夜10時過ぎに巴里へ到着。先に巴里入りしていた同郷の画家、田中善之助に停車場で出迎えられ、一行はホテル・ビッソンに向う。

これから後、画家それぞれの滞欧中のドラマが展開していくことになります。   (つづく)

【マメ知識】@ 初めてフランスで絵画を学んだ日本人は誰だったのでしょうか。
それは、画家ではなく佐賀出身の外交官、百武兼行(1842−1884)でした。
百武は、最後の佐賀藩主・鍋島直大(なおひろ1846−1921)の従者として1871年の岩倉具視を大使とする使節団に加わり訪欧、アメリカからイギリスに渡り1874年に一時帰国しますが、その年に再度、鍋島直大の英国留学に随行します。百武自身もオックスフォードで経済学を学び、公務のかたわらイギリス人画家から油絵の指導を受け、ロイヤル・アカデミーの展覧会へ出品し入選しています。百武の才能をみてとった鍋島候は百武の研究に積極的な支援を惜しまなかったといいます。鍋島候の命により一人、巴里へ留まることになった百武は1877年にフランスへ渡ると、歴史画や肖像画を得意とする画家に1年間師事し、その重厚な写実技法を学び飛躍的に技術を高めたそうです。その後、駐伊大使となった鍋島候に随行、イタリア滞在を経て1882年に帰国、1884年に42歳の生涯を閉じています。イタリア滞在中にも優れた作品を残したという百武兼行。その短い一生のためか、日本の洋画史へ与えた影響については定かではなく、ヨーロッパで画法を習得した初期の日本人として、その名を残しています。[iv] ちなみに、日本人初のヨーロッパへ留学した画家は、土佐藩士国沢新九郎(1847−1877)で、藩からの命を受け1869年から74年に英国ロンドンで西洋画法を学んでおり、帰国後には洋画の私塾(浅井忠[v]も入門していた)、彰技堂画塾を開きました。


[i] 大正11年2月25日創刊。創刊当初は<旬刊朝日>として、毎月5日・15日・25日の発行。
4月2日発売号から週刊に変更となり、日曜日ごとに発行されるようになる。

[ii] 倉敷紡績の大原孫三郎が洋画家児島虎次郎に委ねた名画購入による大原家蒐集作品展覧会。児島虎次郎の没後、彼の業績を称えるため大原孫三郎は美術館を建設。児島虎次郎により蒐集された西洋絵画の作品と古代エジプトの芸術品などや、児島虎次郎の作品が展示される大原美術館が誕生した。留学先のヨーロッパから「日本の芸術界のために最も有益」といって名画購入を大原に願い出た児島虎次郎の志が色褪せることなく、この美術館には息づいている。

[iii] 匠秀夫『日本の近代美術と西洋』沖積社、1991、P.31

[iv] 神奈川県立近代美術館『近代日本美術家列伝』美術出版社、1999

[v]  安政3年〜明治40年(1856〜1907) 佐倉藩士の子として江戸に生まれ、国沢新九郎の門下生を経て工部美術学校に入学、イタリア人フォンタネージの指導をうける。後、黒田清輝と並ぶ存在となる。パリ万国博の監査を兼ねてフランス留学を文部省から命ぜられ、明治33年から35年まで渡仏。滞欧中に中沢岩太博士と「肝胆相照の交わりを結んだ(というのは黒田重太郎の言葉だが)」浅井は、出会った中沢博士から京都高等工芸学校(京都工芸繊維大学の前身)の新設にともない教授就任を懇請され、帰国後すぐ、当時の美術家として最高と考えられていた東京美術学校教授を辞しての京都入りとなった。後、自宅で画塾を開き「聖護院洋画研究所」から「関西美術院」へ発展。これらは京都市立美術専門学校(現在の京都市立芸術大学)の西洋画科新設にも繋がっている。黒田重太郎は浅井忠晩年の内弟子。梅原龍三郎、安井曽太郎も聖護院洋画研究所で学び、津田青楓、里見勝蔵、須田国太郎、向井潤吉、宮本三郎等、関西美術院で学んでいる。