未来のパンセ






国際情報専攻2期生・修了
橋本信彦

  情報その2

 知識は、当然のこと、情報によってのみ得られるとは限りません。いえ、むしろ情報を受けるだけでは、つまりそれほどの目的もなく受け入れる情報には、それ自身知識となって蓄積される種であったとしても、開花するのは難しいと言えるでしょう。草柳(評論家・草柳大蔵)は、その遺稿で「人は間違って造られた動物ではなく、間違って教育された動物である」と、ホモサピエンスなどと、たいそうな呼び名で呼ばれる私たち動物を評しました。氏の箴言に思わず唸ってしまうのは私だけではないでしょう。

得られた情報を、いかに加工整理をしてそれぞれの知とするかは、各々の学習程度で差がつきます。独善を恐れずに断言します。ITによって変わるのは社会ではありません。我々個人の意識変化による個別化された環境変化です。つまりIT革命による社会の変革とは、そしてその享受とは、つとめて各々自身の学習努力がその結果となるのです。このことは社会という殻の中で、のほほんと受身の生活を続けていくかぎりにおいて、我々のその享受が、最低限のインフラ利用にとどまるということをも示唆します。

時代の風に流されず、ここでちょっと考えてみましょう。重要なのは、IT革命とは自己改革という認識です。IT革命と呼ばれる、その個別化に対応したデジタル技術こそが、2世紀にわたった産業革命の技術によって、現在の我々をすっぽりと取り囲んだマス化を解消してくれると考えるのは早計だということです。たしかに蒸気機関は大工場を出現させ、それら工場のある都市へ住民を移動させ、効率のよい生産を実現しました。しかしながら20世紀末には、産業革命後の効率化された近代社会なるものに起因する、数多くの、環境問題を含む弊害が、先進国だけでなく、グローバルな地球規模の問題を引き起こしたわけです。

そんな弊害が声高に叫ばれるなか、あらたな革命が出現したのです。IT革命です。世紀末の前述のような社会環境のなかで、新しいIT革命に向けて、我々が大きな期待持つことに誰が異論をはさめるでしょう。しかし、たしかにIT革命は、その理念において、産業革命とは対極に位置するものといえなくもありません。けれどもそこには大きな落とし穴があるのです。ではそれはどんな落とし穴なのでしょうか。

IT技術による情報網、いわゆるネットの活用が、組織から、社会から、あるいは国家から、我々が開放されると考えている人々がいます。そして我々の生活単位が、遊牧民のごとく、点在する単位になるのではと考える情報学者もいます。産業革命による工業化で失ったゲマインシャフトの復活を願っているのでしょうか。しかしながら、企業社会において期待される組織の分散、例えばサテライトオフィスやホームオフィスの、わが国企業におけるそれらの導入の進展度を考えるとき、デジタル技術の進歩のみで解決される問題以外に、大きな困難があることを窺い知ることができるでしょう。技術の進歩は単独で歩みを進めることはできません。技術を使い切る能力と、なによりも能動的な動機が必要となるからです。押し付けの、受身な就業環境に効果をもとめることは経験が否定します。高度な技術や分業化・専門化による効率を計算できるのは、能力を持った人員の確保、つまり、組織の中でお互いが傍にいて助け合う環境から、すべてを個人で、しかも責任をもって業務に専心できる人員の確保が前提となるでしょう。その費用は、教育は、マニアルは・・・・

また、近代社会による核家族化現象をもって、IT社会における個別化への現象へと、期待をもって考える人々がいます。近代日本社会は、第二次世界大戦を境に、大きな家族形態の変動を経験しました。それは家族制度における家父長的な支配から、両性からなる夫婦とその子供たちによる、いわゆる核家族です。たしかに彼らはイエ(家父長的な集団)からの自由を部分的に享受できます。そしてIT革命によって可能になりつつある情報の自由な流通の現実が、そのことに希望的に重なるのでしょう。問題は、核家族化が単なる形態の変動に過ぎず、個別化された個人における疎外感や孤独感とは重ならないことです。

変動があるとはいえ、家族というまとまりの中で、しかも半世紀前までは、イエというまとまりの中にどっぷりと浸かってきた我々日本人は、それほど容易にその殻を抜け出せるとは思えません。個別化されることの意味さえ正しく理解できているかも疑問です。ここでも大きな意識改革のための教育が必要とされるでしょう。

大切なことを申し上げます。皆さんにぜひ知っていただたいのです。見回してください。各々自身の環境を、そして社会を、目を大きくあけて確認してください。国家や、地域、組織、さらに家族の環境でさえも、われわれが、意識をもってその経路依存症から脱却することに、どれほどの努力と忍耐が必要かを、そしてその多くの努力が、結局は実を結ばないで終わることを。

議論がだいぶ遠回りしました。少しまとめましょう。情報によって得られる知識は、その情報を個人がいかに加工整理できるかによる。そしてIT革命による社会とは、社会が人間によって作り出されたものである限り、人々の変化と同じように変化する社会でしかないということ。人と人のつながり、コミュニティ、民主主義、これらからの逸脱の変化は考えられず。そして予想できることは、さらに社会が複雑になるのではないかということ。

なぜならネットによる情報の取得は、情報の統合と共に、その利用において多様性を含み、さらにネットによる情報のすべてにプライバシーと地域社会、そしてエンターテインメントと学術情報といった、対極の二面性を兼ね備えているから。

ITによる革命は、あまり歓迎しない環境から自己を解き放ちつつ、必要な部分だけつながる部分を残すといった、マジックのような革命ではないと考えます。そのような都合のよい二刀流が使えるはずがありません。もちろん個々の問題としては叶うこともあるでしょう。しかし、ますます複雑になる社会環境のなかでは、与えられた選択肢からの選択ではなく、与えられた環境を如何に利用し役立てるかを考えるべきでしょう。IT革命によるテクノロジーは、それ自体がユートピアを創るわけではないのです。テクノロジーをユートピア的に喧伝する行為はやめなければなりません。

否定的なことばかり今回は申し上げました。最後に希望を述べましょう。世界はこの数世紀のあいだにも、何度となく革命的な変化をとげています。そして多くの国で程度の差こそあれ、人々は私が生まれたころよりも高い水準の暮らしをしています。それらの最大の功績は流通です。物、人、そして情報。悲しいかな、現在でも数少ない地域・閉鎖国家において、それら自由な流通が恣意的に遮断されています。漏れ伝わる情報による地域住民の悲惨さは、許容の限度を遥かに超えます。流通の重要さを思い知ります。

さて、我々が情報を知識として自身に、そして社会に役立てる為に必要な能力とはどのようなものでしょう。ひとことで表現すれば、それはソーシャルスキルです。教養や判断力、大局を判断する力、思慮深さ、忍耐力など。それらは家庭、学校、地域社会、所属する組織から、リアルな環境のもと、学びそして理解していくものでしょう。まことに残念ですが、これらは、クリック操作ひとつで、簡単にウエッブサイトからダウンロードすることはできません。

20世紀末において、物・人・情報のすべてが、その流通の自由が、広範な範囲ではじまりつつあります。いまこそ我々はホモサピエンスの名に恥じぬ行動を、学習を、そして努力をしなければなりません。無意味にウエッブサイトで浮遊する2時間は、スキルを自己のものとするために必要な2時間でもあるのです。