古典力学的世界像から量子力学的世界像へ(1)
―ライプニッツと『形而上学序説』をめぐって―


人間科学専攻1期生・修了 大槻秀夫

著者紹介:
大正14年生まれの元高校教員(昭和61年に定年退職)。福島市在住。数学を(時には現場の事情で物理や電気を)担当していた現役教員時代以来、「近代科学」を産み出したのは何なんだろう、という疑問を懐いてきた。通信制大学院が出来るのを知って、本研究科に入学。上の疑問を自分なりに解き明かしたいと願い、修士論文のテーマに「アイザック・ニュートンと科学革命」を選んだ。大学院で学び続けたい気持ち止み難く、この4月から科目等履修生として勉学を継続している。

量子論はプランク(Max Planck,1858-1947)の作用量子仮説によって始まったと言われる。

ニュートンの『プリンキピア』完成以後、即ち古典物理学の完成以後から作用量子仮説が発表されるまでの間は、ニュートンの偉大なる業績に圧倒されて、ニュートンがやり残した些細な事柄を見出してそれを補足することが物理学者のなすべき分野であると思われていた。要するにニュートンの研究によって「物理学」はほぼ「完成」されたのであって、彼の業績に匹敵する物理学の分野は殆ど残されていないと考えられていたのである。僅かにニュートンが手がけなかったとされる熱現象および電気現象に活路を見出し、それらの現象に研究の情熱を注ぎいれることに生きがいを感じる一連の物理学者達が現れたのであるが、これとてもニュートンの完成した「力学体系」のきらびやかさに幻惑されて、それを模範として自分達の研究成果を成立させようと力を注ぎ、ニュートンの「古典」物理学の批判などには思い至らなかったのである。    

 そこで量子力学(および相対性理論)の成立について考察を進める前に、取り敢えず、ニュートンからプランクに至る間の物理学研究の概要を、個々の学者たちに焦点を合わせながら考察して行きたい。その第一歩としてニュートンのライバルと目されるライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)の『形而上学序説』(Discours de Metaphysiques, 1686)を取り上げてみよう。

 「自然のうちには全く種類の異なった完全性がいくらもある。」「神はそれらの完全性を悉く所有している。」「いずれの完全性も最も高い程度において神に属している。」ライプニッツは第1節で、このようなことに「注意するのがよいであろう」と言っている。

このことは量子論において物質の本性が粒子であるとも波動であるとも考えられるいわゆる二重性の考え方を彷彿させるし、またそれらの現象が何れも、完全に矛盾なく(其の現象自体の中では)説明され得るということに符合するとも受け取られる。それでは、彼ライプニッツは量子力学的考え方を無意識的ではあっても身につけていたと言えるのであろうか。このことはそう単純には結論づけることは無理であると思われる。然しながら、私見ではあるが、「神」という言葉は、「自然」即ち森羅万象に置き換えてもよいのではないかと思われる。ライプニッツ自身は彼自身の宗教的立場から、そして当時のキリスト教の支配する状況から、神という言葉を持ち出していると考えられるのであるが、われわれ一般人の意識からすれば、神は一つの人格のようなものを持ち、人間に比べられる存在と受け取られるのが通常である。そしてその神が全知全能であると信仰することによって救いと畏れとを感じるのであるが、彼ライプニッツにとっては、心の奥底にはそのような架空の存在を感じることは出来ないのではなかったかと思われる。従って神とは現実の存在ではないのである。然しこれを例えば自然という現実の存在でしかも全面的に理解し把握することの出来ないものに擬することによって自己の信仰を満足させることができるとすれば、それは妥当な事であると考えてよいのではないだろうか。

 さて、そのように考えた時、ライプニッツの頭の中では、この宇宙の現象は一定の初期条件と必然的なニュートンの方程式によって唯一の道を辿るという(因果律)ことを神の完全性に託して信じていたことは間違いないことと思われる。従って量子力学における不確定性理論の考え方は彼の頭の中では全く思いが及ばなかったと信じて差し支えないであろう。

第9節において彼は、「実体は雑然としてではあっても過去、現在、未来を通じて宇宙に起こる一切の事を表出する」と述べており、彼の自然学に対する批判については何ら言及していない。勿論これはライプニッツの能力の問題ではない。彼の時代にはそのような考えの出てくる実験結果が未だ知られていなかったからである。

新しい理論を導き出す実験結果というものは勿論予想して作りだすものではない。当然、偶然に現れるものである。ただし偶然とは言っても単なる偶然ではない、それまでの理論に則って何らかの新しい事実を見出そうとして行われる努力によって思いがけない、又は意に反する実験結果が見出され、しかも半信半疑のうちに再検討の努力をなし、それでも解決する事が出来ないことが判明するわけである。したがってその結果が従来の理論を根底から覆すなどとは先ず考えられないであろうし、また従来の理論に沿うような結果が出ることを期待し、努力を重ねることが最善の努力の方向と見なされていただろうことは推測するに余りあることと思われる。それでも、その実験結果に疑義を差し挟むことが不可能であり、万策尽きた時に、全く思いがけない方向に解決の光明が見出されるのがその経過であると考えられるのである。勿論それには高度の才能が要求されるのは当然である。そしてそれは実験を実施した者とは限らない。その他の多くの者の中からその栄光を担う者が現れるわけである。

従って、ライプニッツの時代にはその準備段階が整っていなかったのが実状であり、彼の能力の問題ではないというのである。そして、その準備が整っていさえしたら、そこから新しい画期的考え方を出す者はライプニッツだったかもしれないと言うことが充分に考えられ、彼に匹敵する研究者が充分な準備を整えた後に現れたと言えるであろう。このことはわき道ではあるが、我が日本の場合に当てはめてみると、徳川時代を抜け出して明治維新以後わが国に西欧の文化が入って来てから、(勿論歴史の浅いわが国の場合には西欧の状況に比肩する訳には行かないけれども)物理学界に錚々たる人物が輩出したことにも関連があると考えられるのである。

さて、彼ライプニッツは第10節において、「スコラ学者が、ただ形相や性質を口にするだけで、例えば時計にはその形相からでてくる『時』を示す性質があるというだけで満足し、その、『時』を示す性質というものが一体何から成り立っているかを考えようとしていない」との疑問を呈している。(これを更に突き詰めた時には、相対性理論や量子論に繋がる何かを見出す可能性があったのではないかと考えられる。)ライプニッツは更に続ける。「我々は形而上学においてどうしても知っておく必要のある一つのことを放棄すべきではない」と。とは言うものの、彼が「幾何学者も道徳哲学者も自由意志と神の摂理とを和解させようとする際に見られる大きな困難に苦労して取り組む必要はない……」と語るとき、問題の本質から逃避しているように感じられることも否定できない。このことについては後に詳しく述べる予定であるが、ここではこの事実だけに止めておきたい。

 更に第6項において、「秩序に外れるような神の行いは一つもなく、規則的でないような出来事は考え出すことも不可能である」と述べ、「この世界には絶対的に不規則な事など何一つ起こらない」と言っているのである。もしライプニッツが、「測定による波動関数の収縮」を導き出した実験結果を知ったならばどのような反応を示しただろうかということは興味のあることである。即ち干渉実験において検出直前粒子が点Qで検出された場合と、そうでない場合はその結果は全く違ってくる事を、神の意志として、彼はなんと説明するだろうか。

 また第7節においては、「奇蹟もまた自然的な作用と同様秩序に叶っていると言うことが出来る」、「もっと有力な理由があれば神はこの習慣を守らなくとも済む」。そして次の第8節において、奇蹟について、ライプニッツは、「秩序に叶っている」と言っている。ということは、人間にとってはまだ説明することが出来ないのであるが、その因果関係は確実に成立している、ということである(但し、これを解明する事はほぼ永遠に不可能であろう)。現代の物理学が全面的に認められている状況において、古典力学の正当性が否定されてはいるが、近似的またはマクロ的に考えた場合にはその正当性がみとめられるといわれている。ということは、神の完全性は否定されているということであるが、そうすれば、何故に神は次善の策を講ずる理由があったのかという疑問をライプニッツは考えなかったであろうか。確かに、古典力学が完全性を保ち、量子力学における現象の理解が不充分であると言うのであれば、話は多少納得できるような気がするのであるが、現実の物理学においては全く逆の様相を見せているのである。要するに彼は古典物理学を信奉し、それを否定することは念頭になかったと言えよう。