― グータラ猫とグータラ主人 ―





国際情報専攻2期生・修了 村上恒夫

我が家の猫は当年15歳の老猫である。嫁さんの嫁入り道具の一部として我が家に住み着いた。嫁さんの飼う猫は昔から私が名付け親だ。18年前嫁さんが飼っていた猫は「漱石」と名付けた。漱石は美形猫で、ある日、目を離した隙に家を出て、そのまま帰ることがなかった。しばらくして、嫁さんが友人から貰い受けた猫が現在の飼い猫で、「へーか」と名付けた。

我が家に来てしばらくすると、昭和天皇の崩御された。世の中は昭和天皇崩御のニュースが走る中、「へーか」は家を出た。同居している母親と近所の方々が家出した猫を探し回ってくれた。近所のおばさま方は口々に「へーか」と猫の名を呼びながら近所を探し回ってくれた。TVで昭和天皇崩御を報じるなか、口々に「へーか」と呼びながら彷徨する人々。さぞや奇異な目で見られたに違いない。

 その後2回の引越しを経験して現在安住の地を得た「へーか」だが、年老いたわが母と家の前を散歩する以外、外に出ることは無くなった。時たま窓辺に横たわり、外の人の動きを見て欠伸をするくらいだ。「へーか」を外に出し、単独で遊ばせたことは無い。猫と言えば、近所の猫と月夜に会合を開くと信じる、動物愛護を自慢する知人から動物虐待と言われたこともある。どうやら猫というものは外で遊んで(猫の仕事)家には飯と寝に帰るのが猫らしいのだそうだ。つまり、その動物愛護家が言うことをまとめると、なんだか、朝起きて仕事し、家には寝に帰るだけの父親(?)のような存在なのだそうだ。

 さて、人間の場合を考えると、愛護家の彼が言うような人間になれと言ったら大変だろう。いや、猫のようにグータラするのではなく、猫のようにハードワークをこなすなら家庭にしわ寄せが来るだろう。今まで猫のようにフヌケタ生活を夢見ていたが、どうやら猫の暮らしも厳しいようだ。

 最近、小中学校の勉強内容が易しくなっているそうだ。円周率など「3.14」でなく「3」で良いそうだ。「集合」なるものが登場した、私の小学校時代とは逆の現象がおきているのだろうか。これもゆとり教育の一環なのだろうか。

日本は人間という資源を豊富に有した資源大国である。この資源を有効活用しないことには意味が無い。「ゆとり」とは余裕を持つことだ。余裕が持てる社会とはどのような社会なのだろうか。100%を望むところを80%にするのが余裕ではあるまい。120%を100%にするのが余裕なのだ。100%をこなす者と80%をこなす者が将来どのようになるか、容易に推察できよう。

アメリカ流の競争原理がもてはやされる昨今、行き着く先は富を持つ者と持たぬ者の両極を生むことになる。これは国民皆中流意識を持った時代への決別である。

先日外資系のコンピュータシステムに勤務する幼馴染と杯を交わした。メートルが上がるにしたがって、奴が「これからの日本はアメリカみたいに貧富の差が絶大に現れる。既成概念を捨て、アメリカ流の競争原理を体得し、将来勝ち組みとして残れ!」と説教し始めた。頭では理解できるものの、自分の人生観に取り入れることはできない。

自分自身、余裕は持ちたいが、実際は余裕など持てるほどの富は無い。「へーか」を見て仕事人間はどうしても連想できない。どう見てもただのグータラ猫なのだ。友人に「お前の夢はショボイ!もっと大きな夢を持て!」と説教されても、大言壮語は語れない。地に足を着けて一歩一歩、歩みを進める以外方法は無いのだが、日々積み残す宿題に背中のリュックが重さを増すばかりだ。

やはり「へーか」が羨ましい。