墓     参
―哲学者スピノザとその墓碑銘によせて―




人間科学専攻2期生・修了 浅野 章

 八月に入って間もなく、旧友の一周忌と義母にあたる方の四十九日の法要が同時に行われ参列した。宗旨が異なるため新たな経験もした。墓に納骨する際、参列者の一人一人が墓前に詣でて足下の土を一つまみずつ入れた。埋葬の名残と説明され興味深く思った。

 会食の話題のうちには今日関心の的になっている埋葬のあり方などもあり、賑やかに話し合われた。問題は生きている間であり死んだ後のことにまで気を配る必要はない、という人から、山の上に散骨してもらいたいが夫が承知してくれないなど、一般に論じられているものであった。

 八月は大抵盂蘭盆会に当たっており、春秋の彼岸とともに墓参の季節である。故郷への回帰現象・民族の大移動とまでいわれている点からみると、その規模において、また行事において、さらに真夏日のつづく八月は特別の意味を持っているように思われる。盛夏の候として人々に何がしかの休養を求めるとともに、早くも忍び寄る秋の気配を立秋としてそれとなく告げている。

 人の一生は言うまでもなく生と死によって限られている。思想あるいは哲学を生み出した思想家や哲学者について知ることが思想あるいは哲学の理解につながるということも、また思想・哲学の研究がおのずから思想家・哲学者その人への関心を深めていくことも自然な成り行きであろう。

 「人と思想」と言う。確かに、その人の思想はその人あってこそ生み出されたのである。しかし、一旦臍の緒を切った後は思想もまた一個の独立した存在を獲得し独自の歩をはじめる。人と思想を直結しようとする試みはあまりに短絡に過ぎ安易な態度として非難されることになる。両親を徹底的に知り尽くすことがたとえ可能であるとしても、そのことによって子供のすべてが理解されるのではない。とはいえ、親と子の間には切っても切れない係わりがある。

 もとより、人と思想は親子関係ではない。しかし、そこに類似性が見出されることも事実である。対象とする研究そのものにおいて、またそこから受ける恩恵において、研究者が並々ならぬ関心を生みの親である思想家あるいは哲学者に寄せるのもまた、その例に漏れるものではない。こういって過言でないであろう。生年あるいは没年を起点として記念の行事や事業が営まれるのも、今日に至るもなお活性を失わぬ思想を生み出した故人に対する謝恩の現れである。

 思想・哲学の出版物には思想家や哲学者の生誕の地とともに、終焉の地と言うより墓もしく墓標の写真が掲載されている例が少なからずある。詳しい説明があるわけではないが、それはそれで一つの纏まりを与えているという印象を与える。その人の一生を端的に示しているからであろう。

 散骨などは念頭になく自らの遺体の処理から埋葬の場所まで遺言している例もある。

 フィヒテの傍らに眠るヘーゲルは後者であり、今なお生前さながらに愛用の衣装を纏い杖を携えてロンドン大学のユニバーシティカレッジに鎮座ましますベンサムは前者の好例であろう。

 旅行案内書には寺院や霊園の紹介の欄に有名人の墓について記しているのを見かける。観光の目玉の一つとして取り扱われているのである。墓を訪れることが直ちに墓参を意味するものではない。研究者にしても事情は同じであろう。というより研究者にとってはあくまでも研究が主であろう。しかし墓を訪れることは、つまるところ墓参に連なっている。西田幾多郎は亡くなる十日余り前に九鬼周造の墓碑を書いている。洛東鹿ヶ谷法然院境内にある碑に関係者は関心を持つとしても不思議はない。側面に記されたゲーテの詩の一節の末「……やがて汝も休はん」。汝は私でもある。西田の絶筆であり一種厳粛の感に打たれる。

 海外における学会あるいは留学の際に、専攻する思想家の墓参をふとした機会に果たす研究者もいる。墓所について所在地はもとより記号番号に至るまで記憶しているというのであるから恐れ入る。いかにも研究者にふさわしい墓参である。とはいっても、係員を同行しても容易に見出せるとは限らない場合もあるらしい。

 ウィトゲンシュタインに関する一書を刊行するため関連する土地を巡り締めくくりとして終焉の地であるケンブリッジを訪れ、墓守の案内を断り自分ひとりで墓を探し当て土の中に横たわる簡素な石棺を前にして敬虔な祈りを捧げ、目的とする墓参を果たした喜びを周囲の情景とともに感慨深く記している研究者もいる。

 Tractatus Logico-philosophicus(『論理哲学論考』、Logisch-philosophische Abhandlung)の原題は、スピノザのTractatus Theologico-politicus(『神学政治論』)にならったものといわれる。 

 さて、そのスピノザ、Benedictus Spinozaについてであるが、清貧をもって聞こえているとはいえ、友人などの援助もあり必ずしも貧しかったとは考えられない。スピノザ自身としては蓄えとして葬式の費用があれば十分としていたようである。存命中のみが問題である、とは考えていなかったことがわかる。しかしスピノザの場合は死後においてもなお深刻な世評を蒙らないわけにはいかなかった。主な原因は宗教を論じた『神学政治論』にあった。

 「スピノザここに眠る。この墓に唾吐きかけよ!」ある牧師によって作詩された墓碑銘である。墓参の動機は様々であるにしても、もちろんこのような動機によるものは墓参ではない。

 Benedictusではなく、Maledictusである(祝福されているのではなく呪われている)と酷評されたスピノザではあるが、1932年には生誕三百年の、また1977年には死後三百年の記念行事が国際的に営まれている。毀誉褒貶の甚だしさを示すものである。

 研究の傍らというより研究そのもののために、スピノザの生涯を過ごした土地を訪れること幾たび、深い嘆きをこめてその墓の空ろであることを記す清水禮子に研究者の墓参の典型を見ることができよう。「人と思想」との間に深い関わりのあることを知り、切っても切れぬもののあることを喚起せしめる。墓参という体験を通して墓との対話に触発されてくるものの尊重である。

 スピノザの両親の墓をアムステルダム近郊の一小村アウデルケルケに尋ね、廃墟と化した墓群に分け入り、丈高く茂る草を払い泥をぬぐってわずかに原形を留めているいくつかの墓のうち、二十メートルほど隔てて設けられている父と母の墓石を見出し、文字を指でなぞって読み取る。その間に去来し湧き上がる感慨こそ体験者ならではのものであろう。

 破門後の数ヶ月、それはスピノザの伝記中、闇に閉ざされた部分であるといわれる。その闇に一条の光を射しいれようとするのがこの一村への墓参による体験である。

 この研究者にとって、墓参は単に研究のための手段ではなかった。

 文字通り「唾棄せよ!」と言われたスピノザの墓に、デン・ハーグを訪れるたびごとに花束を捧げ墓石を撫ぜていたが、三百回目の祥月命日(1977221)、期待の墓前祭はなく、それどころか墓の実態を知らされ、愕然として慨嘆するとともに残された生涯をスピノザの遺骨の行方を探すことに費やそうと決意する。

 研究者の墓参りとはいかなるものか、もはや語るを要しまい。

 ここになお一人の典型的な日本人を見出す。

 生前は自らを隠者と称し、死後においては、今日、少数の賛同者さえ見出すことの困難なあり方を遺言したベンサム、ここにも典型的な一人の人間の生き方と死に方がある。

                             (2002820