「――加賀・能登、石川県――」








人間科学専攻3期生
作宮洋子

 石川県は金沢市を県都とする面積約4、185Ku、人口約118万人、市町村数41、南北約200キロの細長い県である。日本海に突出した能登半島と霊峰白山を源として流れる手取川が築いた石川平野からなる加賀地方からなる。両者の地理的特性から、古くから加賀と能登の文化圏を異にしていたと言われているが、やはり、石川のお国自慢をするうえにおいて、能登と加賀を同一にして石川県として説明するには難しいように思われる。

 時代を遡ると、古代の石川県は北陸道の“コシ”(越)の国の中にあった。
 越の国は『古事記』上巻では、“須佐之男命”(スサノオノミコト)が“高天原”(たかまがはら)から追放されて出雲の国に降っていったときにコシ「高志」から毎年やってくる“八俣の大蛇”(やまたのおろち)を退治して、その大蛇の尾を割いて発見した「草薙の太刀」を天照大御神に献上したこと、また、「夜久毛多都 伊豆毛夜弊賀岐 都麻碁微爾 夜弊賀岐都久留流 曾能夜弊賀岐袁」と和歌を詠ってことが書かれている。
 この八俣の大蛇は巨大な怪物であり、そのような怪物の住む越の国は険しい加賀の白山や白山麓、そして未だ足を踏み入れたことのない未開の地としての能登を指しているのだ。また、越の国は大和の王権にとっては未だ統治に服していない地であったと考えられる。大蛇は越の国を象徴しているのであろう。そして、八俣の大蛇を退治と越国の支配統治の意味も含めて、それだからこそ一層、須佐之男命は英雄として讃えられる。

しかし、統治が困難な未開の地としての越の国ではあったろうが、能登半島を囲む海は、その海を隔てた異国の文化の伝来や対岸交流の可能性を想像させるに容易である。海流は異国の民や文物を運び、王権の地から遠く距たった地理的条件は、漂着した渡来人やその帰化を促し、外来の文物を受け入れやすくさせることはなかったろうか。
 この事実を伝えるものとして、日本書紀『欽明紀』31年の記載にある「高句麗使人の越海之着」の記載が初見であるが、『続日本紀』の渤海使に関する記載からも、能登、加賀、佐渡、越前などに渤海使の来国の着岸や日本からの派遣の送吏の帰国地点であった可能性が高い(注―1)。この渤海国史の着岸は能登の福浦港であると言われている。

縄文時代の土器圏の特色は、能登半島海岸地帯にみられる貝殻文土器、南加賀にみられる葉脈状文土器、そして、能登半島基部から北加賀に見られる両方の土器の混在であり、加賀と能登の土器文化の違いを示している。
 古代古墳の形態の違いとしては、県内の古墳は大きく三つの地域に分けられ、それは、一つは加賀の四世紀代の能美古墳群は弥生文化の流れをくむ傍系型古墳であり、二つ目は、能登の四世紀後半の成立と推定される小田中、雨ノ宮古墳群でみられる定式型古墳、三つめは、両方が混在する加賀と能登の中間的地域である(注―2)とされている。能登に見られる定型式古墳は同時代に畿内に多く存在し、加賀を越えて能登に畿内と類似する古墳が多いことは、加賀より能登に既に畿内との交流やつながりが深かったことを示すと考えられている。また、高句麗系墓制の影響を受けているとされている能登の須曽エゾ穴古墳の横穴式石室は、高句麗、新羅系の渡来人との交流を示す(注―1)ものであるとされている。

石川の伝統工芸の一つに輪島塗がある。輪島塗は他に追随を許さない“堅牢無比”の製品として有名であるが、発祥年代については中世から既にその名が知られていたといわれているものの定かではない。
 正倉院御物に、一双の「漆胡樽」なる漆器の宝物がある。この御物は紀元前のはるか昔に、大陸で作られ、らくだの背に振り分けて担がせ、シルクロードを行き交う王の喉を潤すためのワインや酒などの飲み物を入れる貴重な容器として大和の王に貢ぎ物として献上されたものであるという。以前に、この巨大な漆器の宝物に対面したとき、私は何千年もの時を経てもおそらくは作成当時とほとんど変わらぬ姿を止め、漆独特の輝きをいまだに放っているという確かな“堅牢”さに感動した。この宝物は、いつ、誰が、作った作品か、また、どのようにして伝えられたのか、郷土の輪島塗との関係はあるのかなど、果てしなく空想は広がる。

 加賀藩にみられる武士文化の隆盛は、五代藩主前田綱紀公の時代に顕著であった。綱紀の図書収集により、加賀は“天下の書府”なりとの表現が用いられたこと、藩祖利家の時代からの武具類を中心にした細工所を、綱紀は拡大整備(1684〜90)したことで、一段と充実をみた。細工所の職人を“おさいくもの”(御細工者)と称し、蒔絵、漆、紙、金具、絵、針、具足、象眼、刀鍛冶、茜染、鉄砲金具、鞍、大工、升、御能作物などの分野に分け、御細工者の技芸の水準に応じて一定の禄高が与え技術を錬磨させるに専念させた。また、綱紀は御細工者たちに、能楽の脇方・拍子方・狂言方・地謡などシテ方以外の各部門を余技として修練させ、加賀宝生能として発展させる基盤を築いたとされている。
 御細工所でのそれぞれの製品は、加賀蒔絵、加賀印籠、加賀染などと加賀の名を冠して呼ばれ、現在の加賀の伝統工芸品として伝承されるに至っている。

 郷土の伝統工芸品や伝統芸能は石川の歴史の遺物である。

参考文献
・ 注―1 『古代地域史の研究』浅香年木著 法政大学出版会 1986年 第二版
・ 注―2 『石川県の歴史』  下出積與著  山川出版社 昭和45年
・ 『石川県の歴史』 若林喜三郎監修  北国出版社 昭和56年 第三版
・ 『加賀・能登歴史の窓』加能史料編纂委員会 青史出版 平成11年

付記

加賀百万石博、金沢百万石まつりの御紹介

 現在、加賀百万石博が金沢城址公園で開催されています。

 詳しくは、石川県庁内大河ドラマ石川県推進協議会ホームページでどうぞ・・・

   http://www.hot-ishikawa.jp/page/hyakumangokuhaku/

 

 来る6月8日(土)金沢百万石まつりが開催されます。 

 詳しくは、金沢市観光課ホームページでどうぞ・・・

   http://100mangoku.net/