「未来のパンセ その2






国際情報専攻2期生・修了
橋本信彦

   情報

時間そのものの定義や、情報の定義をあらわすことはたいへん難しく、簡単に要約して紹介することは困難です。多くの先人がその定義をいろいろな表現で著してきました。しかしいまここでは、それらを簡単に紹介をすることは避けたいと思います。なぜなら時はその歩みの中で、人と常に向き合っているのにもかかわらず、人間はいつも自分の都合だけで付き合ってきました、われわれはいつも自分本位で時と付き合ってきたのです。つまり時の流れは、その個人の接し方において、いかようにも変化します。その接し方一つ一つに、その数だけ、時に意味を持たせることが可能だといっても過言ではありません。理由はそこにあります。
 時という、過去から綿綿と続く悠久の流れも、その一断面を切り取り、そして窺うとき、そこでは当然のこと、人々の営みの断面しか見ることができません。歴史の重みを感じることはできないのです。つまり、われわれが文化や知識として継承してきた歴史において、連続性を検証することは、歴史そのものが、結果的に形作られたものとしての文化や知識の集合であるかぎり、不可能であるばかりでなく、無意味であるともいえます。不連続な多種の意識の集合体が、その歴史を、ただ過去と言う文字で括ったに過ぎないことを理解すべきであります。
 幾度となく人類は、その過ちを歴史に刻み込んできました。繰り返してお行なわれる人類の過ちが現実の世界なのだといえます。歴史をいかように積み重ねようとも、人類の誤りを解消することができない原因が、そこにもみられます。ただし、時の流れの中には、そこに人類が存在し、その存続を目的とする営みを続けるために必要な、ある一定の技術が介在していたことは事実です。いえむしろ、時の流れの中で、その技術との一体化が、人類を他の動物から優位にこの地球上に存続させたことの要因としてみることができます。
 技術としての情報は、歴史の重みを、歴史の経験を積み重ねることではなく、少し大胆になることをお許しいただければ、それら情報は、時の流れの中にあって、その一瞬一瞬においてこそ、初めてその本領を発揮できたといえるのではないでしょうか。そこでしかその本来の意味を持たないといってもいいかもしれません。この意味で初めて、記号としての情報がその意味を持ちます。つまり連続性は、記号をその基礎とするときに初めて見出せるのです。
 記号論は、前世紀の初頭、フェルディナン・ドゥ・ソシュールとチャールズ・サンダース・パースが構想した学問領域です。そこでは、記号は意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)の両要素からなるとしています。またロラン・バルトによれば、記号学では意味作用を発揮するもの総てを記号とみなすともいいます。
 
シニフィアンとシニフィエの関係は、前述の記号の連続性を理由付けます。記号を固定的に捉えた場合の意味作用は単独でも、そこに新たに出現する記号は、つまりシニフィアン→シニフィエの流れの中で、新たなシニフィアンが創出されるのです。その第2のシニフィアンがシニフィエと重なり第3のシニフィアンが創られる。記号論の無限性がここに見られると同時に、知恵としての情報の膨らみもそこに起因するといってよいと考えます。重要なことは、積み重ねられた記号はただ一つの意味を持つ記号でしかないということです。情報は、並べて積み重ねて、その量を自慢しても始まりませんね。では私達は、過去情報という言葉が社会的にテーマになり始めてから、どのように情報と接してきたのでしょうか。

 日本における情報革命は、1950年代に電子計算機が出現してから現在まで、多く分けるといくつかの区切りを確認できます。第1の区切りは1970年代から80年代にかけての時期です。わが国はその高度成長期の終焉を迎え、多くの問題が社会に表出され始めました。環境問題や石油危機などがその筆頭にあげられます。社会は節約型社会としての構想を掲げ、地域レベルでコスト分散を計ること、あるいは大型の電算機導入にからみ、逆に大企業では首都圏への本社機能の集中が行なわれました。
 次は1980年代にはいってからです。わが国でも情報化が大きなテーマとなり、ここで初めて地域やコミュニティーを情報化の対象として考えるようになりました。国は地域格差是正のため地域情報化戦略を採用し、各省庁もこぞって施策を独自にうちだしたのです。

郵政省

テレトピア構想
 ハイビジョンシティ構想
 テレコムタウン構想

通産省

ニューメディア・コミュニティ構想
 情報未来都市構想

農水省

グリーントピア構想
 農村多元情報システム

残念ながらこれらの施策は、すべて中途半端にその終わりを迎えました。原因として以下のようなことが考えらます。

  1. 地域やコミュニティ側からの発想ではなく、すべて官主導の発想で地域の要請が充分に伝わっていないこと
  2. システムが大型コンピューター使用の集中管理のため地域のレベルでは使いこなせない
  3. 情報インフラの不整備による利用の偏り

大いなる反省が必要ですね。我々がいま、情報革命、あるいはIT革命、さらには新たなるネットワーク革命へと、声高にそこへの対処の必要を訴え、そして歩みを進める中にあっても基本は一つです。時の流れの中で、どのように技術を当てはめるか、つまり情報という一つの因子を如何に利用することができるかが重要なポイントといえるでしょう。
 私達が必要そしているのは情報の山ではありません。ある目的を達成する為の情報です、そのために必要な、ほんのいくつかの情報なのです。たくさんの情報が山になっていても無駄です。最も必要とする情報を確実に取得することなのです。情報革命というのは、私達の目的達成をしてくれることに他ならないのだと考えます。システムの開発者も、あるいは地域やコミュニティの利用者も、ハード機器の製造会社も、方向を間違えずに前進してほしいものです。