「北京便り」





国際情報
専攻4期生
諏訪一幸



 初めまして。本年4月より国際情報専攻コースで勉強させて頂いている諏訪と申します。仕事の関

メーデーでにぎわう天安門広場。中央左の肖像画は孫文

係で当分中国北京からの参加となります(私は外務省職員です。過去1年間以上にわたり、国民の皆様にご迷惑をおかけしていることに対しお詫び申し上げます)。
 この度、近藤大博先生からのお勧めもあり、「北京便り」を執筆させて頂くことになりました。「気楽な気持ちでやってよ」とのお言葉があったので、ついついその気になってしまいましたが、さて、どんなポリシーでやったら良いのやら。考え始めると筆が進まなくなるので(「執筆」も、「筆が進まない」も、IT時代においては余り適当な表現ではないのかも知れませんが、やはりこれ以外にはないのでしょう)、ここはエイヤーの気合いで始めたいと思います。なお、申し上げるまでもありませんが、これからの記述の中で、事実関係以外のコメントや印象に関する部分はすべて私の個人的見解であることをお断りしておきます(因みに、私は現在日本大使館政治部に所属しており、内政を中心とする中国の政治情勢をフォローすることが期待されています)。

「小泉総理の靖国参拝と日中関係」

 4月21日午前10時前、小泉総理が靖国神社を参拝しました。「今日行こうと思ったのは朝」との総理発言にある通り、大部分の国民にとって(勿論、私も含まれます)、今回の参拝は電撃的なものでした。

 日中間でこうした類の政治的問題が起こった時には、わが職場である大使館の幹部が中国外交部(日本の外務省に相当)に呼び出されるのが常です。実際、当日は日曜日であるにもかかわらず、午後5時前、当館幹部らが外交部入りしました。
 外交部で待ちかまえていたのは李肇星・副部長(日本の事務次官に相当)。彼は前駐米大使。中国外交部で最も米中関係に精通した人物です。当日は日中関係担当の副部長が出張中だったため、彼が代理をつとめたようです。「午後5時」、李副部長は直ちに、「厳正なる申し入れを行う」で始まる実質的な抗議声明を読み始めました。新聞報道等を通じて多くの方がご存じかと思いますが、それは概ね次のような内容でした。
1.アジア隣国人民の強い反対を顧みず、小泉総理が中国人民の感情を傷つける誤った行動を採ったことに対し、中国側は強い不満を表明し、これに断固反対する。
2.靖国神社は東条英機を始めとする14名のA級戦犯を祭っており、また、右翼が軍国主義を鼓吹する場所である。中国側は平和と正義、そして中日関係を守るという大局的見地から、如何なる形式、如何なる時期であるかに拘わらず、日本の指導者が靖国神社を参拝することに断固反対してきている。
3.小泉総理は昨年靖国神社を参拝し、中日関係に重大な影響をもたらした。その後、昨年10月、小泉総理が中国を訪問し、侵略を認め、戦争を反省し、謝罪する内容の談話を発表したことで、中日関係は正しい道を再び歩み始めた。然るに、盧溝橋での反省がまだ記憶に残っている中で行われた今回の誤った行いは、道徳的にも、また道義的にも受け入れられるものでない。今回の事件によって、中国人民はこれまでの小泉総理の態度表明は価値が下がってしまったと思っている。
4.日本の指導者は、日本が軍国主義の誤った道を再び歩むことには日本人民も反対していることを認識すべきである。また、中国及びアジア各国人民は日本の軍国主義が起こした惨事を忘れることはできない点を認識すべきである。歴史が冒涜され、軽視され、裏切られることは許されない。
5.両国関係の発展過程から我々が得た根本的経験とは、「歴史を鑑として、未来に向かう」ということである。中国が小泉総理の参拝に強い反応を示したのも、中日関係の発展と両国人民の利益に着目したものである。日本側が本件を重視し、悪い影響を取り除き、同様なことが再度起こらないようきちんとした措置を採るよう要求する。

 以上が申し入れの要旨ですが、若干の背景説明が必要かと思います。
 まず、3.にある「これまでの小泉総理の態度表明」ですが、申し入れの中でも言及されている通り、昨年10月の小泉総理訪中(及びその際の発言)を中国側は高く評価しています。また、参拝の約10日前に中国海南島で行われた日中首脳(小泉・朱鎔基)会談も、極めて打ち解けた雰囲気の中で行われました。日中国交正常化30周年記念活動も間もなく本格化しようとしています。「このような良いムードを無視して靖国を参拝するとは何事か」という一種の不信感があるからでしょうか、こういう表現が出てきたわけです。
 次に、4.にある「中国及びアジア各国人民」という表現です。靖国神社参拝に政府として反対表明しているのは中国と韓国だけなのですが(これは今回に限らず、一般的に言えること)、中国はしばしばこういう表現を使用します。「反対しているのは中国だけではないんだ。だから日本はより慎重に」ということで、いわばこういう形で、日本から一種の譲歩を引きだそうとしているわけです。
 最後に、5.にある「同様なことが再度起こらないよう、きちんとした措置を採る」についてですが、非常に漠然とした表現となっています。これは、今後の日本の対応を見極めつつ、より具体的な対応を求めていくということに他なりません。但し、最近では、インターネットを通じた国内の「匿名の圧力」に対しても十分な考慮をしなければならないという厳しい状況に、中国外交部が置かれていることも指摘せねばなりません。「カウンターパンチ」は強すぎても、また逆に弱すぎても、中国の外交当局にとっては不都合なのです。選択肢をいたずらに狭めることになりますし、また、国内的には受けの良い「強いパンチ」も、対日関係維持の観点から見ると、「落としどころ」を探すのに苦労することになりますから。

 ここで、一言申し上げておかなければならないことがあります。こうした中国(或いは韓国)の抗議に対する日本の外交当局の基本的スタンス如何という問題です。
 日本国内には「靖国参拝は純粋に日本の国内問題。中国の批判など気にする必要はない」という声から、「戦争賛美にあたるという批判はもっともなこと。参拝などすべきでない」という声まで、百人百様の観を呈しています。「日本外交には主体性がない」との批判が根強く存在することも皆さんもご承知でしょう。ましてや、冷戦崩壊以降、主体性と呼ぶかどうかは別として、日本としての独自性を発揮できる余地は確実に増しているわけです。然し、一方で、「参拝はやめてくれ」という声が隣国から出ている。しかも、参拝によって関係が悪化するのは、程度の問題はあるものの、確実な状況にあります。特に中国に限って言えば、抗日戦争に勝ったことが中国共産党に正統性を与える一つの根拠になっているのですから、日本に対して弱腰を見せるわけにはいかない等々。
 このように考慮すべき要素は色々ありますが、右顧左眄して決断をためらっていることはできません。
 結局のところ、「良好な関係維持」と「独自性・主体性の発揮」という異なった要求を両極として、国際社会に混乱を招くことなく、如何にして「国益」を確保するかが、あらゆる国の外交当局にとって最大の問題意識として存在するのだと思います。今回の参拝の場合、日本の外交当局としては、総理が「所感」の中で述べた「不戦の誓いを堅持する」、「終戦記念日やその前後の参拝にこだわり、再び内外に不安や警戒を抱かせることは意に反する」という部分を以て、関係国の理解を得るよう努力するということになるのだと思います。

  参拝後の日中関係です(現下の日中関係をめぐる政治問題としては、靖国以外にも不審船事件、在瀋陽総領事館事件などがあります。これらの件をめぐる政府・外務省の対応については既に多くのご意見、ご批判が寄せられています。私としても若干述べたいことはありますが、現時点においてこれらの問題について言及するのは、若干機微な点があり、また、本題の主旨にも合わないので、これを避けたいと思います)。
 参拝の翌22日に中国の最高指導者である江沢民・国家主席が外遊から帰ってきました。直ちに対抗策が検討されたのでしょう。中国国防部は23日、約1週間後に予定されていた中谷防衛庁長官の訪中受け入れと5月に予定されていた中国海軍艦船の日本訪問を延期する旨、日本側に通報してきました。曾慶紅・党中央組織部長(中国共産党の次期指導グループを構成する有力な一人と目されています)の訪日が「地方交流」、「民間交流」、或いは「党間交流」という位置づけで、予定通り25日から行われたのに安堵したのも束の間。やはり、中国は怒っていました。ゴールデンウイーク期間中に中国を訪れた公明党代表団と会見した江沢民主席は、靖国参拝は「許せない」、「政治家は信義を守るべきだ」と強く非難したのです。

 今年9月29日、日中関係は国交正常化30周年を迎えます。その前後には地方交流、民間交流を中心とした様々な記念行事が行われる予定ですが、我々としては、21世紀に足を踏み入れた日中関係を華々しく祝いたいところです。
 改革開放から20有余年、経済発展で確実に自信を強めつつある中国の人々から、「日本はどうした。経済も政治も、もっと頑張ってくれ」と言われることが最近よくあります。「日中間の力関係の変化」を敏感に嗅ぎ取っているのでしょうか。正直なところ、ちょっと複雑な心境です。でも、エールはやはりありがたいもの。「我々日本人自身そう思って、頑張っているんです。力を合わせてやりましょう」と応じたいと思います。

 つらつら記してきましたが、結論は一言。「雨降って地固まる」という局面をつくりだすべく、自分なりに努力していくしかない。そう考える、今日この頃です。

                     (2002年5月14日)