「「私見アジア事情」 ― アジア的エリート達
シンガポール共和国Republic of Singapore編 」








国際情報
専攻4期生
神垣幸志


インド ムンバイ市の繁華街にて 
(本部に業務連絡中)


シンガポールのお話の前に、先ずは約7年半暮らしたオランダでの日常生活を少し紹介させて頂きます。 オランダとオランダ人は実に奥が深く、いつか真面目に勉強してみたいと考えているのですが、その前に、一庶民としての、私の私生活の一部をご紹介させて下さい。北ヨーロッパの長く暗い冬にすっかり嫌気が差していた私が、逆にヨーロッパの冬大好き人間になってしまった切っ掛けは、実は“サウナ風呂”の発見でした。

オランダの“サウナ”を日本のものと同等視してはいけません、似て非なるものと考えてください。サウナによっては、森林の中の広い敷地の芝生の上に、沐浴設備や、各種ジャグジー、温水プール、乾式あるいは湿式サウナを配置したものから、家族向けまで好みに応じて選べるようになっています。レストラン、バー等は必ず併設されていますし、なかには映写室を持っているサウナもありますから、冬の週末の一日をゆっくりと、おまけに低料金で色々なお風呂に入って過ごせるというのは最高の快楽でした。但し、難点(美点?)は男女混浴が主流だという点ですが。 

話は変わりますが、日本での混浴はいまだに各地の条例で禁止されている筈です。明治維新の際、庶民の混浴を悪習(?)と見た明治政府が、それを欧米人に指摘されるのを恐れるがあまり禁止したのが混浴禁止の始まりだと何かの本に書いてありました。それなのに、ヨーロッパの一部とはいえ、どうどうと男女が老いも若きも裸で敷地内を闊歩している光景を見た時には、正直ショックを受けました。もっとも、オランダ人の保守的な人々、あるいは、カトリック系の方々は、男女が裸で向き合うこのような施設を悪徳視しており明瞭に嫌悪感をしめす事がありますので気をつけねばなりませんが。 

又、運動不足を解消する為に始めた夜の散歩では、安全性を考慮した3Kメートルの散歩コースに、アパートが近かった事もあり、 アムステルダムの飾り窓地区を組み込んでいました。その界隈を散歩していますと、妖艶な女性が下着姿で微笑みかけてくれるのですが、ふっと横を見ると小学生らしき団体が社会見学の一環なのかどうか知りませんが同じように見学しているのによく出くわしました。街には、マリワナの臭いが漂っており、ある種の店では、個人使用に限りますが、合法的に大麻の苗を販売してくれます。こんな事を書くと、オランダはデカダンス的お国柄と思われるかもしれませんが、決してそうではありません。オランダ人は世界で最初に市民革命を起こした人々ですから、所謂、個人主義が徹底しており、公機関が個人の思想信条へ干渉することを極端に嫌うのです。自己の価値観を重視しますから、同性間結婚などを認めたりもするわけです。

前置きが長くなってしまいましたが、ご紹介したオランダとは、まるで異なる価値観を持つ社会が 11ヶ月前より暮らしているシンガポール、あるいは 東南アジアなのです。シンガポールにおける政府の御節介ぶりは刑法面によくでています。前述した、アムステルダムのマリワナ喫茶で、シンガポール人がマリワナあるいは大麻を購入し使用した場合、刑事罰の対象になるかならないかご存知でしょうか? 回答は「刑事罰対象行為である」です。 ですから、シンガポール人は大変です。日本人と違い、国外でも品行方正(あたりまえ?)であらねばなりません。 別の例をあげましょう。シンガポールは暑い国ですから、つい自宅で裸になり寛いでいたところ、なんとご近所の会社の2階からは丸見えであった。ありそうな話ですが、この場合、なんと刑法のVagrancyが適用されてしまいます。 正直申し上げまして、何故政府がここまで市民生活に介入し統制をとっているのか当初良く分かりませんでした。表面的なシンガポールは、欧米に遜色のないインフラを備えた経済先進国なのですから。 

さて皆さん、話はここで大きく変わります。 向こう5年間に事業を営むのに最適なアジアの国はどこかご存知ですか? 勿論、そう、シンガポールです。尤も、これは 英経済誌『エコノミスト』系の Economist Intelligence Unit の調査結果ですが。 同じ調査機関による報告では、調査対象の世界60ヶ国・地域中でもシンガポールは9位と健闘しています。 其の他の指標でも、例えば、2001年5月6日付け毎日新聞朝刊に記載してあった、直接投資に対する「不透明指数」を見てみると、シンガポールは 29と、米国の36や 日本の60を上回っています。 昨今の日本社会の混乱振りを鑑みると、日本よりクリーンであることは直感的に肯けるものの、米国より クリーンで腐敗は少なく、極めて明朗会計型の政府と社会であるとの指標には 正直、多少驚いてしまいました。 何といっても、基本的には シンガポールは華僑中心の社会です。(のハズです。) 大陸中国の実態をご存知の方でしたら、中国人とクリーンというイメージがどうも結びつかなかった私の気持ちはご理解頂けるのではないでしょうか。 では腐敗を防ぐのに有効な情報インフラの状況はどうでしょうか? 特に最近話題のIT系インフラの整備状況をITUの統計資料によって見てみますと、 2000年度のパソコン台数の普及率は、100人当たり48.31台で、日本の31.52台を抜きさり、米国の58.52台に迫る勢いを示しています。電話回線と携帯電話設備のデジタル化率はそれぞれ100%ですし、インターネットの100人当りの利用者数は 29.87と、日本の29.30を上回っています。  まあ つまり、シンガポールは、数値的にも社会インフラ整備の面からも既に先進国となっており、分野によっては、日本を既に追い抜いていることになります。 私の言葉でのイメージは、“クリーン”! 色で表せば “深緑”といったお国柄でしょうか?

では何故“クリーン”で“深緑”なのかお話しましょう。 英語の Cleanには、「清潔な」の他に、「潔白な」「高潔な」等の意味がありますが、私のこの国の指導者層に対する印象が正しく 潔白かつ高潔であり、更には街が清潔であり、その清潔さを現しているのが、街中に植林されて、よく整備された“緑深き”木々であるからです。この印象はけっして私一人のものではないでしょう。でも考えてみると「潔白な」とか「高潔な」といったイメージは、リー・クアン・ユー や ゴー・ケンスイ あるいは ゴー・チョクトンといった与党人民行動党(PAP)の首脳部のイメージに直結していることが直に分かります。特に、リー・クアン・ユー の回顧録などを読むことによってこの印象は固定されたのだと思われます。 この辺りのアジア政府のあり方は、長谷川教授の著作である「アジアの経済発展と政府の役割」に詳しいのですが、その著作中7章で教授はシンガポール政府のエリート主義について触れられています。 PAPのエリート主義の功罪(どちらかというと“功“の方が大きいようですが)については多くの研究者が研究していますので、ここで私がそれについて学問的探求をするつもりなどは毛頭ありませんが、実生活や仕事にも、PAPのエリート主義が大きな影響を及ぼしているのです。ここでは、シンガポールにおける庶民にとってのエリート主義とはどのようなものかを実例を挙げてお話しをさせて頂きたいと思います。

エリート主義といいますと、皆様、即 西欧貴族の「noblesse oblige」なんぞを思い浮かべられるのではないかと思いますが、私の知りうる限りにおいては、シンガポール人に所謂 社会的な階層といったものは存在しません。(もっとも、民族間の区別は十二分に存在していますが。) シンガポールのエリート主義は、個人の精神活動の結果でてくるものというよりも、集団内のある暗黙の同意によって形成される集団の意思によって強制されるもののようです。

インド ムンバイ市の顧客先事務所にて
 (打ち合わせ中)

これを具体的な形にすると、現在シンガポールの学校教育で行われている、極端な選別主義となるのでしょう。この選別主義は オランダなどでも採用されていますが、オランダの場合は個人の能力を効率的に生かすには早い時期からの個人の資質にあった教育が良いといった個人を中心に据えた思想と、無駄を省くといった伝統的合理精神より採用されているのに対して、シンガポールでは 社会にとって誰が有益かといった発想をベースに、早期学校教育の時点で社会的エリート選抜が行われています。 国語はマレー語で、公用語として英語、中国語(Mandarin)、タミール語が話されますが、学校教育の場では、英語(UK語)が主に使われており、上位の学校に進学する為には、必然的に相当な英語力を要求されます。街でシンガポール人と会話をすると、英語をあまり得意としない人から、中国語訛のきついSinglish(?)を流暢に話す人、英国風の立派なEnglishを話す人等様々なタイプに出会う事が出来ます。一般的には 英語のうまい人は、若年層に多く、かつ高等教育を受けていることが多いようです。実態としてのシンガポール社会は、英語をベースに動いていますから、英語をうまく話せない人々は官公庁や大企業に勤務することは困難になってきます。 母国語としては、それぞれの民族の言葉が使われます。しかし、華僑社会においては、後ほど述べる出身地別の中国語方言ではなく、Mandarinが学校教育の場で使われる為、特に若年層では中国語方言でしゃべる人はあまりいません。大部分の華人系学生は、成績を大きく左右するのが英語である為、英語習得に力を入れる傾向があり、Mandarinは仲間内での会話に使用できればよい程度に考える人が多いようです。その結果、華僑社会の中でも、中高年と若年層の間では、得意とする言葉(方言)が異なる為に意思疎通が困難になっている模様です。  このことは、今日のシンガポール社会を築き上げた原動力である、華人社会の真の伝統的価値観を伝承しにくくしています。 シンガポール的学校エリート教育の陥穽です。

次に、社会のエリート実態をよく映し出す、軍隊はどのようにして下級幹部を選抜するのか見てみましょう。地政学的にシンガポールは防衛に適した場所ではありません。英国植民地から独立した際も、マレーの中に浮かぶ、小さな中国として敵視されるのを恐れるがあまり、当初はマレーシアに属していたほどです。そういった危機感をベースに、シンガポール政府は、「トータル・ディフェンス(全面防衛)」政策を推進しています。これは、国防は軍事力のみでは全うできないとの判断により、国民を心理・社会・経済・民事・軍事の各分野に亘って組織化するものです。(外務省資料より抜粋) 具体的に制度を見てみますと、徴兵適齢期の男子は、まず3ヶ月間の基礎軍事教練を受け、終了後、初めて配属を言い渡されるのですが、同時に幹部候補生も指名されるのです。幹部候補生は、引き続き10ヶ月間の幹部候補生教練を受け、試験を経て下級将校に任官します。指名を受けた幹部候補生には、拒否する権利はありません。その幹部候補選抜条件及びプロセスは公開されていませんが、教育レベルや性格、態度、血縁者の素行調査といったことだけではなく、人種、民族、宗教も考慮されている模様です。これらは、どこの国でも行っていることでしょうが、シンガポールの特徴は、希望者から選抜するのではなく、政府が適格者を選抜し指名する点にあります。因みに、警察官も消防士も適格者指名制度により選抜されます。以上の点だけを見れば、どこかの独裁国家かと思えてしまうのですが、政体は立憲共和制ですから、ちゃんと選良は選挙によって選ばれます。 結局、この国の軍隊エリート選抜システムは、能力ある人物は当然社会に対して率先して奉仕すべきだといった哲学あるいは理念といったものにより形作られているような気がします。

この理念はよく家父長的と表現されます。 権威のある血族の長が、目をかけた若人に将来を託すといったイメージです。結局この発想は、今日のシンガポール形成に絶大なる影響力を発揮した、前述のPAP幹部諸氏の哲学といっても良いものでしょう。こういった家父長的Stoic的な哲学は全華僑に共通したものなのでしょうか? いえ、私には華僑すべてが集団の利益を先に考えるとはとても思えません。実際、同僚の華人何人かに個人の利益と国家の利益の優先度について尋ねた際には、随分お酒も入ってはいましたが、基本的には極めて利己主義的な思想を開陳してくれました。

では、彼ら3人、リー・クアン・ユー、 ゴー・ケンスイ 、ゴー・チョクトンは他の華僑と異なった人々なのでしょうか? 実は、彼らは皆、“客家”出身なのです。 海外在住者を含む シンガポール総人口約402万人の構成は、中国系(76.8%)、マレー系(13.9%)、インド系(7.7%)となるのですが、その中国系も仔細に見てみると、更に、福建系、潮州系、広東系、海南系 そして客家に分かれると言われています。客家は、華僑の5%を占めるにすぎませんので、総人口に対しては3.8%を占める少数派ということになります。

私見ですが、彼ら客家の伝統的価値観こそが、シンガポール的エリートを考える上では重要になると思うのです。 客家はもともと、中原に住む漢民族でしたが戦乱や飢餓を逃れて、広東省 福建省などの山間部を中心に移り住んだ後も、夜盗等に対抗する為、一族で円楼(環形土楼)に住み、集団生活を送ってきた団結力の強い民族です。シンガポールの客家は、広東州の梅県や党渓からの移住者が多いいようですが、リー・クアン・ユーの一族は、党渓が出身地のようです。客家たちは言っています、「我々客家は、節約、刻苦耐労、孝順、一族の利益を第一に考える、といった貴重な伝統的価値観の御蔭で生き抜いてこれたし、これからも生き抜く。」 (根津清、「客家」 ダイヤモンド社 ページ116)この価値観って、どこか明治維新を担った、かつての江戸期武士階級の倫理観に共通したものがあると皆さん思いませんか。

一族を“公“に置き換えれば、”公”と”私”の関係を見事に説明しており、これこそが西欧的市民社会の確立していないアジアでは、エリートになる為の基礎条件ではないかと私は思います。

日本の場合は、江戸期エリート階層である武士階級が培ってきた“滅私奉公”的、倫理観が、他の階層に完全に伝播波及する前に明治維新が起きてしまった為に、美しい“公“の倫理観を持つ日本人の形成ができなかった、だから 現在の政治家や公務員の不祥事が続くのだといった論調の対談集が発表されていたと記憶しています。私は、明治以降の江戸期的エリートの消滅過程とその後の倫理的混乱を考える時、客家的価値観と倫理観を失った後の、シンガポール人社会が本当に“滅私奉公”型の真のアジアエリートを今後も供給できるのか疑問に思っています。 

シンガポールは極めてアジア的エリート達が人為的に作り上げた、アジアでもヨーロッパでもない世界です。その場合、過去のアジアと人為的に切り離されてしまった現在のシンガポール人社会では、早く個人を社会の中心に据えた西欧的市民社会を育てねば、グローバライゼーションのなか、国としての纏りを失いかねないはずです。しかし、家父長的PAPの基本政策に変化の兆しは見受けられません。 この家父長的社会を維持するためには、社会のエリート層に“滅私奉公”的価値観が必要なはずです。でも、新たに社会のエリートに選ばれた人々が、果たしてどのような価値観を持っているのかは疑問が残ります。経済発展に成功した社会を支えてきた伝統的価値観が、成功の見返りとして変質していく過程には興味深いものがあります。 ということで、シンガポールにいる間に エリート系の知り合いを何とかして見つけて観察してみたいと考えています。ということで、私のエリート感が正しいとすると、10年後にはシンガポールの「不透明指数」は日本に近づいているかもしれませんが、さてどうなるのでしょう? 

最後に、この国に暮らして同僚やマレー人テニスコーチらとの語らいから、少しずつ シンガポールの人々の心を見ているのですが、宗教観の違い等もあって、なかなか理解し切れません。因みに、シンガポールでは、仏教、道教、キリスト教、回教、ヒンズー教の5宗教が主流となっています。 そんな折、宗教の本場、インドに初めて出張に行けることになりました。連日の会議ですので、人々の暮らしをどこまで感じることができるか分かりませんが、是非 宗教の本場で宗教について何かを感じてみたいと思っています。何か感じることができたら、次回には アジア的宗教に関して駄文を発表させて頂きたいと考えています。では、皆様 又の機会に。