文化情報専攻で学ぼう





文化情報専攻3期生
菊地善太

  前回、電子マガジンの第7号で、「日本大学の通信制大学院で学ぼう」と題して、この大学院で学ぶことを推奨しました。では、具体的にはどんなことを学んでいるのか。どんな科目履修リポートを書いているのか、今回は参考までに、文化情報専攻で学ぶ私が、必修科目後期リポートとして提出した小論の一つを紹介いたします。

 もちろん、科目履修といえども、学生一人一人、テーマに対する視点もアプローチも異なりますので、私の小論はあくまでほんの一例に過ぎませんが、日本大学大学院の文化情報専攻で学ぶことについて、少しでもイメージしていただければと思います。

 自分の世界観や宇宙観を広げていくということは、そう簡単なことではありません。私は、この一年、近年になく沢山の本を読みましたが、本を読むことだけでなく、師や学生仲間と一緒に討論したことが、私の世界観や宇宙観を広げる大きな力になりました。

 今は、就職に役立つ資格修得が大流行。大学院もキャリアアップが図れる学科、科目がもてはやされていますが、「豊かな善なる心を持つこと」もまた、人間には大切なことではないでしょうか? それを、理想論としてではなく、実践学として学んでいくのが、私は日本大学大学院、文化情報専攻の一つの特徴だと思っています。そんなことにお金と時間をかけていることを、今の私は誇りに思っています。

 心の健康は、必ずしもお財布の厚みには比例しません。一緒に善人を目指しませんか? 

多くの皆さまが文化情報専攻を受験してくださることを祈っています。

 下記は、私の必修科目の後期リポートです。

「私の宇宙の拡大」

 大学で物理学を専攻し、卒業後はメーカーの技術者として働いている私が、文科系の通信制大学院[i]への入学を決意したのはおよそ一年前のことである。当時の私は、この十年余りの日本が、社会を見ても、周りの人間を見ても、およそ見渡すものすべてが活力を失いつつあるような印象を抱いていた。この社会は、経済も政治も教育もみんな自信を失っている。経済不況、政治腐敗、教育不信、あまりにもネガティブな言葉が氾濫していた。時事報道からは、この世から倫理や正義や慈悲が喪失してしまったかのような、信じられない狂気の出来事が、毎日のように耳に飛び込んできた。小遣い銭欲しさに殺人を犯す者もいた。働く人々も、多くの者は大きな夢を持たず、リストラに怯え、生き生きとではなく、ただ目先の生活を守るために働いていた。もう、何かが欠けているといったレベルではなくて、世の中自体が間違っていると思った。ハムレットは道理の外れた世の中を指して「この世の関節がはずれてしまったのだ」[ii]と言ったが、世の中が自暴自棄になってしまったと思った。

でも、そう思った時、そんなことを考える自分自体が間違っていることに気づいた。そう思うこと自体が、私がその負の思考に取り込まれている証左なのだ。もっと前向きな、もっと違う社会観、世界観をもつことができれば、もっと明るい未来を展望できるに違いない。そう気がついて、私はやっと自分の道を踏み出すことができた。道を間違えたら、素直に反省して、それから正しい方向に向かえばいいのである。では、一体自分には何ができるのか。

素直になった目には、自分の周りの、心優しい人たちの姿が見えた。学校で仲間と和やかに語らったり、歌ったり、踊ったりする人たちの姿が見えた。ある時はまた、気高い精神で生きた幕末や維新時代の人々の姿が見えた。そう、まず見えたのは、日本社会と日本人だった。私は古き善き伝統をもつ日本と日本人が好きなのだ。そうであれば、日本人が日本人であることを喜べるような日本を創造するために、私は何かをしたい。そんな研究をしてみたいと思った。そして、さらに考えるうちに、日本人だけでなく、世界の人たちと、古き善き伝統をもつ日本文化を共に味わい、そしてまた外国の人たちと、外国文化を、やはり共に味わいたいと思うようになった。その気持ちを原点として、この一年、私は上田先生[iii]に師事し、研究室のゼミや学会、或いは院のスクーリングを通して非常に多くのことを学ばせていただいた。その中でも、とりわけ自分の宇宙観が、師のおかげで以前よりも広がったと感じている。

そこで、この小論では、この世界において、神話の時代の昔から今現在にいたるまで、精神的な世界観、或いは宇宙観がどういう変遷を遂げてきたか、そして今後どういう未来に向かっていくのかを論じてみたい。

ヨーロッパにおける世界観・宇宙観の変遷については、まず、M.N.ニコルソン[iv]『円環の破壊――17世紀英詩と<新科学>』[v]の序章での分析を借りたい。ニコルソンはヨーロッパを、古典時代、ルネサンス後の時代、そして現代と分けた。そして、コリングウッド[vi]の言葉を引用しながら、古典時代については、「多くの哲学者たちが教えてきたこと、そして大多数の人々が信じてきたことは、世界は生きている、ということだった。世界は人間と同様に生きて繁栄し、また人間と同様に衰えて、死ぬことすらありうるものであった」と論じた。ルネサンス後については、「古い物活論(アニミズム)的な誤信は、世界を機械(メカニズム)とする見方によりとって代わられた。… この世界はもはや生きものではなく、ただ自然の法則に機械的に反応するだけのものとなった」と論じた。そして現代については、「歴史が進むと、人間は機械の概念から発展の概念へと移行していった」と論じ、コリングウッドの言葉から「現代の宇宙論も祖先たちのそれと同様に、類比(アナロジー)にもとづいている。… ギリシャの自然科学が、大宇宙としての自然と小宇宙としての人間の間の類比にもとづいていたように、… そしてルネサンスの自然科学が、神の作品である自然と人間の作品である機械の間の類比にもとづいていたように、… 現代の自然観は、… 自然科学者によって研究される自然のプロセスと、歴史学者によって研究される人間的できごとの変転との間の、類比にもとづいているのである」と引用した。そして「歴史学者や自然科学者から意図的に借りてきた比喩によって、宇宙と地球と人間の本質を説明しようと試みている」と述べている。

ニコルソンやコリングウッドのこういった見方によれば、一年前の私はまだ機械の時代をさまよっていたのかもしれない。数学や物理が世の中の物質的な現象を解決していくのを見るにつけ、私は目に見える世界、目に見える宇宙をもって、世界のすべて、宇宙のすべてと考えていた。私は、自分が崇める存在として神を見做していないので、私には、宇宙は、天文学が語る範囲の、或いは観測が及ぶ範囲の、ただの物質の塊であり、物理的な空間であった。しかしながら、この一年で、相変わらず創世者としての神の存在を認め神を崇めるような意識は持てないまでも、自然のような物理的な存在が私たちの精神世界に与える影響については、以前より深く関心を持ち、意識してその影響を考えていくことができるようになった。私の宇宙は、ようやく物理的な時空を超えて、精神世界と結びついて広がっていこうとし始めたのである。

人間の喜びや悲しみ、笑いや涙といったものは、頭で考えて想像するだけでは不十分であって、実際に嬉しい体験をし、悲しい体験をして、理屈抜きに笑い、涙を流して初めて、ずっと深くはっきりと、その喜びや悲しみを心に刻み付けることができる。上田先生の言葉を借りれば、考えと言葉と行為を伴う体験こそが、真の感動を呼ぶのである。思いを言葉にして反芻し、そして行動することこそが、大きな感動をもたらす鍵となる。だから、私たちが平和な世の中で幸せになりたいと思ったら、漠然と平和を思うだけでは駄目で、平和へのメッセージを唱え、社会に働きかけていくことが重要になる。当たり前のことであるが、水泳が本を読んだだけでは上手く泳げないのと同様に、実践を通して理解すべきこと、体験すべきことはいっぱいある。世界観や宇宙観に精神世界を取り込む場合にしても、本や映画のみを頼りにして頭の想像だけで世界を広げていくのでは物足りない。世界や宇宙を思わせるようなスケールの大きなものに触れたり、想像もつかない体験をしたりすることが必要である。この一年で、そのことを一番感じさせられたのが「能」であった。

「能」は、それについて何も知らずに初めてテレビで見た人には、動きの少ない人形劇のような、古めかしい、一つのわかりづらい芸能としか感じられないかもしれないが、実際に能舞台の上演を観劇したり、ゼミで謡曲の謡や舞のお稽古をつけてもらったりすると、これほど奥ゆかしく深く心の琴線にふれてくる芸能も珍しいのではないかと思えるようになった。静かな動きの内に、澄み切った心も、激しい心も、ともに表象されてしまう。事物も精神も何もかもを包含できるような、大きさや深さを、この伝統芸能は伝承してきた。     

この一年は、「能」の鑑賞やお稽古から、“百聞は一見に如かず”という嬉しい驚きをプレゼントしてもらったが、それ以上に、「能」が包み込んでいた“夢幻”なるもの、“花”なるもの、あるいは「禅」なるものを、おぼろげながらでも感じさせてもらったのがとても嬉しく、何より感謝している。この世とあの世を行き交う“夢幻”、心の工夫を悟る“花”、言説を超えた悟りの「禅」に、西洋哲学に負けない興味を覚える。『花伝書』[vii]や、「禅」の教えが説くことがらは、ヨーロッパの世界観・宇宙観に負けず劣らず、私たちに大きな世界を感じさせてくれる。

例えば、『花伝書』の「第五 奥義に云ふ」には、芸能の目的として、「私儀に言ふ。そもそも、芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年の法なるべし。きはめきはめては、諸道ことごとく寿福延長ならんとなり」[viii]と書かれているが、今の私たちから見ても何と素晴らしい大きな目的であろうか。

私はまた、「能」に「禅」的な悟りの思想を感じる。達磨大師が中国に伝えた「不立文字、教外別伝」(ふりゅうもんじ、きょうげべつでん)[ix]、「直指人心、見性成仏」(じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)[x]の教えは、私には、言葉では表わせない世界・宇宙まで含めて、精神集中によって自分の心の内に取り込めと言われているように聞こえるが、そういう、目に見える範疇を超えた深く広い世界が、「能」の舞台に象徴的に塗り込められているように感じるのである。

「能」は古典芸能であるけれども、「禅」は昔からの教えであるけれども、どちらもこの世の事象を超えた、もっと深く広い精神にまたがる世界、精神にまたがる宇宙を創造していくことのように思える。そしてそれは、手段は異なっても、ヨーロッパにおける精神世界・精神宇宙の解釈の試みと、結果的に求めるものが一致するように思える。日本は、明治維新以降は、欧米文化の受容と吸収に並々ならぬ精力を注ぎ込んできたが、そろそろ東洋で育まれた思想や価値観を、もっと見なおす時期に来ているのではないだろうか。

大学院のスクーリングにおいても、精神世界を考えることの重要性は、繰り返し繰り返し考えさせられた。一方では『人間の運命』[xi]や『神との対話』[xii]を通して、一方では『能・オセロー』[xiii]や『禅と英文学』[xiv]、それから能楽実技などを通して、西洋思想と東洋思想のそれぞれの視点から、万象を包み込むような、善良で気高く豊かな精神を持つように心がけることが、私たちの一人一人に、そして社会全体に、喜びと平和の恵みをもたらしてくれる強力な道しるべとなることを、私は学んだ。一緒に学んだ仲間は、常に広い視野を持つように心がけ、善良であること、平和であることを、共に喜べる仲間となった。これこそが、私たちが学んだことの成果の証である。

これからの世の中をもっと善い世の中にしていくために、もっともっと平和で喜びに満ちた世の中にしていくために、私は一体何ができるのか。

「思い」は心に溢れている。心から善い世の中を願い、平和で喜びに満ちた世の中を願う仲間を、もっともっと増やしたいと思う。戦争が起きても「仕方がない」と言ってやり過ごしてしまう人たちに、「戦争をなくそう」と言い合える仲間を持つことの喜びを教えてあげたいと思う。元気のない人々に、もっともっと元気を与えてあげたいと思う。

では、具体的な「言葉」はどうか。この小論も、その「言葉」としてのささやかな試みであるけれども、今後は、もっと広く社会の人たちに読んでいただける論文を、私の「言葉」として届けたい。今年はぜひそんな一年にしたいと思う。

そして最後に「行動」が来る。私は、もっと世界の人に日本文化の善さを知ってもらいたいと思う。大学のような高等教育機関は、もっと比較文化や融合文化の講座を増やしていくべきではないだろうか。国内だけではない、日本人はもっと外国に行って、日本文化とその国の文化の調和と融合を研究してくることが望ましい。私にしても、いつかは機会をつくって海外留学したいと思う。そういう行動を、もっと多くの人と実行していきたい。

未来は、『人間の運命』でも語られているように、結局私たち一人一人の行動にかかっている。だから、自分の「思い」を確認し、「言葉」にまとめ、「行動」に示せるよう、大学院という場を借りて、これからも精進を続けたい。昨日よりも今日、今日よりも明日、明日よりも明後日と、少しづつでも善い創造を加えて、私の内なる善い宇宙を広げて行きたい。そうすることで、私の周囲にも善い影響が与えられると信じる。これが、今私が描くことができる、最高のヴィジョンである。


[i] 日本大学大学院 総合社会情報研究科 文化情報専攻

[ii] 『ハムレット』1幕5場、福田恆存訳。原文はThe time is out of joint.

[iii] 上田邦義(1934-)、英文学者、日本大学大学院教授、静岡大学名誉教授。

[iv] Marjorie Hope Nicolson, 1894-1981、アメリカの英文学者、教育者。

[v] M.H.ニコルソン著、小黒和子訳『円環の破壊――17世紀英詩と<新科学>』みすず書房、1999年。原著は、Marjorie Hope Nicolson, The Breaking of The Circle ? Studies in the Effect of the “New Science” on Seventeenth-Century Poetry, Revised edition, Columbia University Press, 1960 (First edition, Northwestern University Press, 1950)

[vi] R.G.Colingwood, The Idea of Nature (New York and Oxford, 1960), pp.3-9

[vii] 世阿弥『花伝書(風姿花伝)』。世阿弥(1363-1443)、能作者、能役者。

[viii] 世阿弥編、川瀬一馬校注、現代語訳『花伝書(風姿花伝)』講談社、1972年による訳は下記の通り。「これは秘訣であるが、一体、芸能とは何かと言えば、諸人の心を和らげて、あらゆる階層の人々に同じく感動を催させることである。そして、それが、生命を豊かにすると言う人生幸福増進の基になり、寿命を延ばす方法となるのである。究めつくせば、人間社会すべての営みは、ことごとく寿福延長(生命を豊かにすること)を目的としているものだ。」

[ix]
蔡志忠・作画、和田武司・訳、野末陳平・監修『マンガ 禅の思想』講談社、1998年、p.24によると、「悟りの道は文字や言説では伝えられず、文字に書かれていないものを特別に伝授するのが禅である。」とある。 

[x]
同上『マンガ 禅の思想』、p.24で、「坐禅によって自分の本性が万物の心理と一体であることを見抜ければ、それが仏の悟りにほかならないという意味。」とある。

[xi] ルコント・デュ・ヌイ著、渡部昇一訳『人間の運命 POD版』三笠書房、1999年

[xii] ニール・ドナルド・ウォルシュ著、吉田利子訳『神との対話』第一巻〜第三巻、サンマーク出版、1997-99年

[xiii] 宗片邦義『日英二カ国語による「能・オセロー」創作の研究』勉誠社、1998年

[xiv] R.H.Blyth『禅と英文学』北星堂書店、1942年