「聾者とコミュニケーション」





人間科学専攻3期生
藤野信行

   はじめに                          

 一般にコミュニケーション能力と言った場合は、聴力や言語力など身体機能よりも話し方や話の内容が問われるのが普通である。しかし、聾唖者の場合は、身体機能とそれに伴うコミュニケーション方法が問われることが多い。たとえば、聾唖者同士のコミュニケーションと言えば「手話」であり、手話のできない聴者と聾唖者であれば「筆談」となる。因みに聾唖者とは、乳幼児期に聴力を失い、高度の難聴のために会話が困難な人たちのことである。しかし、彼らは言語不明瞭ではあっても会話は可能である。何よりも手話という独自のコミュニケーション手段をもっている。したがって、正しくは聾唖者ではなく「聾者」と言うべきである。また、聾唖者とは、社会通念的呼称であり、医学的には高度難聴者と呼ばれる。近年、障害者に対する呼称を差別語として改めてきた。たとえば、従来使われていた精神薄弱を知的障害に改めたのも一例である。それでは、聾唖も差別語に該当するか否かである。この点について神田和幸は、本人が聾唖と言えば聾唖であると述べている。この言葉の意味を考えてみる必要がある。本文では聴覚障害者ではなく、敢えて「聾者」という言葉を使用する。   

   聾教育とコミュニケーション

 聾学校では、ごく最近まで子どもたちに手話を使用することを禁じてきた。理由は明らかである。彼らは、絶対多数の聴者の中にあって少数に属する。手話は聾者の間で通用するコミュニケーション手段であり、特殊な言語である。したがって、彼らが一般社会で生きていくためには、共通言語である日本語を獲得することが絶対条件である。そのために聾学校では幼稚部から高等部まで徹底して「口話教育」を行うのである。主な内容は、発声・発語・読話訓練、補聴器装用訓練などである。

 言語獲得と言えば、私たちは生まれた時から日々母親や家族の声を聴き、家族の会話を模倣して自然に日本語を身につけてきた。しかし、彼らは二〜三歳になって、正式には「ことばの教室」など教育現場ではじめて日本語に接するのである。僅か二年〜三年というが、この間の子どもの発達は、大人の十年間に匹敵すると言われる。何しろ母親無くしては一日たりとも生きていけない乳児が一年足らずで歩き、片言の言葉を話すのである。この部分が欠落している聾児にことばの教育を行うのである。

 聾教育と言えば、「九歳の壁」あるいは、「十二歳の壁」というのがある。これは、文章能力や会話能力が九歳や十二歳レベルで停滞すると言う意味である。ただし、ここで誤解をして欲しくないことは、彼らの知的レベルが九歳や十二歳ということではない。あくまでコミュニケーション能力に限ったことである。しかし、この事実は、一般社会の中で生きていく彼らに致命的なダメージを与える。たとえば、会話や読み書きが不十分であれば一人前の社会人として認知されないのである。彼らが二次的障害者と言われる所以もそこにある。聴こえないこと「一次的障害」もさることながら、そのことによって生じるコミュニケーション障害こそが問題なのである。

   聾者とコミュニケーション能力

 冒頭で述べたとおり、一般にコミュニケーション能力と言った場合は、表現力や理解力もさることながら、話の内容が問われることが多い。ましてや、身体面の機能を問われることは無い。しかし、彼らの場合は、先ず、身体面の機能が問われるのである。たとえば、聴力損失の程度や麻痺の程度である。周囲の関心もそこに集中する。したがって、親の多くが、わが子を少しでも聴者に近づけたい。その一心で必死に「ことばの教室」に通わせるのである。コミュニケーション技術(スキル)さえ身につければ何とかなる。この気持ちは、家族だけではない。教育に携わる者にもある。何とか聴者と同じように話ができないか。できるようにしたい。そのための教育なのである。 

 一方、手話は彼ら聾者のコミュニケーション手段である。自分たちだけに共通する話し言葉である。したがって、日本語や聴者を意識することなく、独自の形態を作り上げて来たとも言える。話し言葉「身振り」のみで文字を持たないのも特徴である。発声・発語の習慣性も無い。文法的にみても日本語とはかなり異なる。たとえば、手話で会話をする場合、「助詞」は使用しない。このあたりに聾学校で手話を禁止した理由がある。しかし、何よりも現代社会にあって、書き言葉が無いと言うことは致命的である。書き言葉は話し言葉から発達している。したがって、話し言葉がわからないと書き言葉は習得できないと考えるのが普通である。勢い手話を禁止することになる。しかし、口話法にも限界がある。障害程度や学力など個人差が大きく、十分その成果が期待できないのである。その証が、先に述べた十二歳の壁である。最近では聾教育現場でも必ずしも手話は禁止していない。必要に応じて手話を取り入れる動きもある。

   手話コミュニケーション

 私たちは平生、言葉のみでコミュニケーションをしていると考えがちである。しかし、彼ら同様に実際には顔の表情や仕草など言葉以外の要素も交えて行っている。その理由は、言葉だけでは内容は伝わるが、感情が十分相手に伝わらないからである。コミュニケーションとは、相手があってはじめて成立するものである。聾教育「口話教育」の困難性もここにある。口話では相手の小さな口の「口形」を読み取る必要がある。自分が話す際にも絶えず相手を意識して発音しなければならない。緊張と不安の連続である。この時点で感情豊かにコミュニケーションを行うなど神業に近いことが理解できるはずである。本来あるべき感情移入が口話だけでは難しいのである。彼らが手話に頼る理由もそこにある。

 手話は元々彼らの言葉である。母国語とも言える。顔の表情や視線、のびのびとした仕草など感情豊かに表現する姿は微笑ましい。しかし、彼らの手話を私たちが理解するとなると難しい。彼らの手話を理解するためには、微かな顔の表情や視線の動きも見逃せないのである。たとえば、「分かる」という手話がある。胸を手のひらで軽く叩いて表現するのであるが、胸を叩く仕草だけでは本当の意味が理解できない。胸を叩いたが、不安そうな顔をしていたとする。この場合は、分かったではなく少し分かった。むしろ、よく分からないと読み取るのである。また、手話は時として誤解を生むことがある。たとえば、私が会話の途中で泣く仕草をしたとする。その際に照れ笑いをしたとする。おそらく彼らは「嘘泣き」と読み取るはずである。会話の中身が急に理解できなくなり困惑するかも知れない。私たちであれば、話し言葉、音声言語が優先されて、照れ笑いはその場で消去される。しかし、彼らの場合は照れ笑いが消去されないで「嘘泣き」と読み取られるのである。誤解は誰にでもある。聴覚に障害があるのだから仕方がないと言うかも知れない。しかし、それでは済まされないこともある。

 一般にコミュニケーションは話し手と聞き手のキャッチボールと言われるが、そのボールは何であろうか。聴者同士は音声言語、聾者同士であれば手話である。それでは、聴者と聾者は……。簡単に手話とは言えないのである。しかし、彼らも日本語社会の中で生きている。必ずしも手話だけに頼っている訳ではない。したがって、筆談・空書・片言の手話でも良い。思い切って話しかけて欲しいのである。私自身、今でも誤りを指摘されることがある。しかし、あなたのは手話ではないと一度も言われたことは無いのである。大切なことは、彼らにとって手話とは何か。何故、手話でなければならないのか。そして、何よりも聴覚障害者ではなく、自らを聾者と呼ぶ彼らのことを理解して欲しいのである。そして、彼らが手話を「母国語」と呼ぶ意味を改めて考えてみたいのである。

  

    (本論は、至文堂『現代のエスプリ』に掲載した拙稿を加筆修正したものである。

     同誌所収の拙論をあわせて参照頂ければ幸いである。――筆者)