「「本当の本の話」後日談A
〜80年前の渡欧記『欧州芸術巡礼紀行』〜」
美術雑誌「マロニエ」を見つけた資料庫の棚の一角、ダンボール箱から出てきた2冊の新聞切抜き集があります。大阪時事新報紙連載の「芸術巡礼紀行 国画創作協会同人」をまとめたものでした。記事の執筆は黒田重太郎。彼にとって2度目の渡欧となった1921年からの紀行文です。切抜き集の作成者は黒田重太郎と懇意にしていた福井治兵衛で、艸公という俳号をもち兵庫県西宮で味噌製造所「阿波屋」を営んでいました。黒田重太郎と福井治兵衛との交流については次の機会にふれようと思いますが、文化活動にも熱心であった福井治兵衛は黒田重太郎にとっても良き理解者であったことは言うまでもありません
大正10(1921)年10月4日(火)、神戸港を出港した日本郵船・加茂丸。今、その乗船者名簿を見ることができないので、幾人の画家が乗船していたかはわかりませんが、関西在住の画家4人が一同に渡欧することは当時としてちょっとしたニュースになったことは確かでしょう。国画創作協会の日本画家3人、土田麦僊(1887−1936)・小野竹橋[喬](1889−1979)・野永瀬晩花(1889−1964)。そして一人洋画家の黒田重太郎(1887−1970)は、メンバー中唯一の渡欧経験の持ち主でした。いずれも京都を中心に活躍していた画家です。
当時は今のように海外旅行が身近な時代ではありませんでした。大正9年の横浜―倫敦間の往路旅客運賃[i]は1等客室940円、2等客室650円、特別3等客室374円、普通3等客室234円でした。その頃の小学校教員の給料[ii]が40円から55円、東京大学の授業料が年間で50円、慶應・早稲田の授業料が同じく年間85円・75円だったことからも、当時の資金調達がどれほど大変だったかがわかります。前述の4人も資金調達のために作品を売ったり、知人を訪ねたりと苦心していたようです。中でも急遽同行することになった黒田重太郎は、土田麦僊からの提案もあり、大阪時事新報社と契約。約40日間の船旅の記述に加え、パリでの様子や、イタリア紀行、スペイン紀行の原稿は同行した他の画家からの挿絵と共に、大正11年1月1日から同年12月28日の間、大阪時事新報紙上に「芸術巡礼紀行 −国画創作協会同人−」として合計102回連載されることになったのです。それらの記事が、当時の画家だけに限らず一般の読者も楽しみにしていた連載であったことは、次の紙面広告からもうかがえます。そして連載終了後、それらの記事は挿絵とともに翌年の8月に『欧州芸術巡礼紀行』(十字館、1923)として出版されました。
「芸術巡礼紀行 国画創作協会同人執筆 」
本年の元旦号から本紙に連載して世間に大歓迎を受けた国画創作協会同人執筆の『芸術巡礼紀行』は前回に続て其第十三回か近々本紙に連載することになりました、国画創作協会の同人一行は既に巴里に到着し今や欧州各地を旅行して居りますが今度連載する第十三回以下の紀行は古倫母から始まるもので其観察と其筆致とは船の進むと共に益々冴えて参りました、(略)。
<大阪時事新報、大正11年3月29日>
『芸術巡礼紀行』の続稿はもう来てる時分だと思うが若し来て居るなら早く紙面に掲げてくれないか『早く伊太利紀行が見たい』と云ったような催促の投書が編集の机の上に山を為す、以って一般読者が如何に此『芸術巡礼紀行』に憧れて居るかを卜することが出来る。其お待兼の続稿が著(ママ)きました『伊太利遊記』の四篇二六回分、左の通り近日の紙上から連載致します。(略)
<大阪時事新報、大正11年4月28日>
80年前に日本からヨーロッパへ渡った画家たちは現地で何を見、何を感じ、何を得てきたのでしょうか。そして帰国後、彼らの何が変わったのでしょうか。『芸術巡礼紀行』を通してその頃の何が見えてくるのでしょうか。次回以降では1922年前後のヨーロッパに焦点を絞り「日本人画家滞欧アルバム1922」を綴ってみたいと思います。
文化情報専攻3期生 戸村知子
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