「『闘病の日々』を読み終えて」
洪坤山著(南天書局有限公司 2001年11月発行660元)
2月の中頃のことであった。
この時期にしては余寒などという寒さではなく、大寒が舞い戻ったような日の夕方であった。宅急便で小さな包みが届けられた。台湾からであった。送り主の名前は聞き覚えはなかったが、逸る心を抑えつつ小包みの封を切った。洪坤山著『闘病の日々』であった。私の思いは亜熱帯の台湾に飛んでいた。先ほどまでの寒さで閉じていた心も、南国の暖かいプレゼントで次第に開いてきた。
幾千里海を隔てて暮らすとも心は常に触れ合ひてをり
坤山
歌を解する器量など持ち合わせはないが、何故か表紙裏のこの一首は私の心を捉えて放さなかった。もう送り主を詮索する余裕などなく、この歌がいやがうえにも、300ページにわたる書の読書意欲を駆り立てた。
先ずは、著者の紹介から始めよう。野口 毅氏の「序に変えて」より一部引用する。野口氏は著者と風雲急を告げる終戦直前の頃、神奈川県大和市の高座海軍工廠において絆が結ばれていた。当時戦局利あらず、既に制空権は失われて、もはやわが国には安全な場所はなかった。首都防衛に近い厚木基地に隣接し、迎撃戦闘機を生産していた高座海軍工廠にとって、全員がいわば一蓮托生、常に命運をともにしていた。
この工場に勤務していた8千数百人の台湾少年工、その中に著者の洪坤山氏がいた。植民地下にあった台湾の少年工達は、戦局厳しい中とはいえ内地で「お国のために尽くす喜び」の純情な心に満ちていた。募集時の宣伝文句「半読半工」を信じ余暇には勉強もできるだろうと思っていた。しかし、そんな日が到来することはなく、こと志と違った困苦の毎日であった。
十代まで日本人として育った著者は、日本は「わが心の祖国」、台湾は「心の母国」と呼び、こよなく日本を愛している台湾人の一人である。野口氏は著者と工廠で同じ釜の飯を食べた間柄であった。
少し長すぎた前書きになったが、バックグランドの理解なくして十数回を越す日本各地を旅行する著者の心に迫れない。ましてや難病を抱え、その上透析をしながらの旅は健康体の我々の想像を超えた難渋の旅であったろう。それがまた読者の心を手繰り寄せる大きな要因になっているものと思う。
目次を概観してみたい。雑誌などに投稿したものを一糸に閉じただけに、それぞれの章が独立しているかのようで読みやすい。その上、心の祖国や、母国に思いをいたす暖かい心が、どの章にも感じられ、読者を魅了させずにおかない。
一、闘病の日々(一)
二、闘病の日々(二)
三、透析の旅日記(一)
四、透析の旅日記(二)
五、萬里氏を想う
六、総統選挙の前に
七、新政権への期待
八、慰安婦と軍中楽園より見る台湾意識
九、台湾万葉集続編〜自が工場
十、短歌(台北歌壇119輯から132輯まで)
十一、わが故郷〜北投
以上の構成からなっている。
闘病の日々と旅日記に、三分の一の紙幅が割かれている。関節の腫瘍や、肝臓癌のため病床に伏す闘病の毎日でありながらも、「心の祖国日本」を決して忘れることはなかった。高座の日台交流協会の仲間や、四季折々美しい日本の景色は、病気の苦しみが増せば増すほど瞼から離れなかった。
『台湾万葉集』の著者呉建堂先生から手ほどきを受けたという短歌が、旅日記の随所を飾っている。
病身のいつに逝くとも悔いなきと心の祖国わが訪ふ
大和市をまた訪ひて来ぬ杳き日の少年工の夢を追ひきて
去りがたき日本を後につくづくと移り変わりし歳月思う
明日の命も分からない著者は旅先で透析しながら、サポート約の愛妻と一緒に旅する姿が彷彿としてくる。
独学で文学の道を究めた著者は、実業界の世界でも才能を発揮。ハンドバック工場設立時には、自ら工員や家族たちと昼夜を分かたず働き、基盤を築いた。その後余人の及ばぬ苦労の末和傘工場も立ち上げ、ついに奥様の手によって中国本土関東省までも、和傘工場の建設にまでいたった。
雨止みて傘をさしたる牡丹花五月の陽差しに紅冴ゆる
新工場大陸に成ると告げ来る妻の電話の耳を劈く
日本の統治下で育ち、戦後は台湾の歴史の中で最も暗黒で恐怖に満ち、経済的にも悲惨な生活を虐げられた本省人。いつも外来から奴隷視されて育ってきた。そんな台湾の歴史に心を痛めてきた。それが五章から八章に認められている。
大中華教育思想の半世紀台湾の母語の廃れてきたり
この一首に著者の台湾に対する思いのすべてが凝縮されているように思い、私は思わず流れ落ちる涙を禁じ得なかった。
終章は著者の故郷北投に40ページ余割かれている。北投は台湾の温泉文化発祥の地であり、また北投石の産地として有名。この石に含まれる放射能のラジュゥムは、身体の保養に効果があると発表され、北投温泉の繁栄に寄与した。
ノーベル賞受賞の台湾の李遠哲博士の精華大学での修士論文は「北投石の放射能研究」であったという。そんな著者の故郷も、蒋介石独裁下の治世で破壊されてしまったと慨嘆されている。
著者の短歌や、文の行間に滲み出ている母国台湾の行く末を憂慮している心に、私は痛く感動した。これは台湾一国のみならず、わが日本の問題としても受け止めたいことである。自らの病気との闘いもさることながら、母国台湾のために渾身の力を振り絞って闘っている著者の心を表現したのが、この本の題名に思えてならない。
何かを忘れ、己の利益のみに汲々としている、わが日本への警鐘を乱打しているかのような書でもある。
台湾やアジアに関心のある方々、、また自らの生き方を求めて止まない方々に御一読を薦めたい。
国際情報専攻4期生 楢崎政志
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