「『地方都市の情報化と活性化』を書き終えて」
国際情報専攻 三浦 悟 |
きのうの「夢」
私は阪神淡路大震災の年の3月に仙台市に転勤しました。
当時、東北6県にある支店を訪ねるついでに、それぞれの都市の経済動向などを見聞きする機会を得ました。
バブルがはじけ、景気が後退する「失われた90年代」の真っ只中にある東北各地では、多くの誘致企業が撤退し東南アジアに進出する「産業の空洞化」を招き、街がどんどん衰退していました。
「この空洞化現象を何らかの形で埋めることができないだろうか?」
いつの間にかこんなことが頭の片隅に張り付くようになりました。
財団法人東北産業活性化センターの運営委員を引き受けていたこともあり、「例えば“空洞化を情報で埋める”、なんてことを研究しませんか。」という提案をしていた直後に郡山市へ転勤してしまいました。
当時の福島民友新聞に「空洞化している市街地をマルチメディアやインターネットを活用して、情報発信の場とし、離れて行った人々を呼び戻し、活気ある市街地にしたい。」と語っている私のインタビュー記事が載っています。(1999年3月13日)
郡山市に赴任したのを機会に「交通の要衝である郡山を情報流通のかなめにしよう」(同紙)と何かを模索し始めていたのは確かです。
仕事を通じて、あるいは仕事抜きでの仲間内の議論だけでは満足できず、もっと幅広くきちっと研究したいという思いが大学院へ進学する夢を実現させてくれました。
作家の星亮一さん、福島県議の望木昌彦さんとともに『熟年三銃士』と呼ばれるきっかけになった福島民報の『日大大学院に合格 熟年パワー見聞拡大』(2000年4月8日)で語った「メディアと都市のかかわりを研究したい」のスタートです。
きょうの「希望」
“街の空洞化をメディアで埋める”?!
この話は軽井沢に集まった近藤ゼミの先輩、同期生から奇想天外ととらえられたようです。
実にいろいろな意見が出ました。
曖昧な状態の私に、悩みを増加させる言葉が“これでもか”、“これでもか”と浴びせられました。
しかし多くの意見がさらに私を刺激し、いろいろなアイディアを軽井沢から持ち帰ることになりました。
とにかく皆が話してくれたことを整理してみよう。
もっと資料を集めて調べよう。
でも、本当に自分が考えているのは何か。何をどうしたいのか。
月一回のゼミは私に本気で意見を言ってもらえる場所でした。
苦痛でもあり、楽しみでもあるゼミを区切りにしながら、自分の考えを整理していきました。
それだけに仕事の都合などで参加できないときは残念でなりません。
書籍、雑誌、新聞記事そしてインターネットでの情報など資料は次々集まりました。
良かったのは、郡山市のいろいろな団体に関係していたお陰で、貴重な話を聴く機会や意見交換の場がたくさんあったことです。私自身が講師やテーマを選べる機会もあり、終了後の意見交換も含めて外部の先生方からアイディアをいただくこともできました。
自分の考えを整理する上で役立ったのは外に向かって発信することでした。
関係する団体で自分の考えを披瀝すること。
外部で話をする機会に研究中のアイディアを織り込むこと。
新聞などの座談会やインタビューの機会でも同様でした。
人前に立つことが苦手で、口下手にはつらいことでしたが、けっこう良い場でした。
新聞を読んでメールで意見や激励をくださる方もおりました。
アイディアは外の刺激で膨らみ、考えは外に向かって発信しながらゼミまでに整理し、ゼミでは仲間の厳しい意見をもらう。
この繰り返しの中で、私の論文の骨子は出来上がりました。
問題は文章にすることです。
あすの「現実」
論文の正本が届いたとの事務課のメールに安心して、机の周りの整理を始めました。
実にたくさんのコピーがありました。
一度しか読まなかったもの。いろいろな色で上書きされたもの。付箋紙がたくさん付いたもの。
解読不能なメモ。
ゼミに持って行った自分自身の資料にも、近藤先生やゼミ生の意見が書き込まれています。
あらためて悪戦苦闘のプロセスが見えてきました。
漠然としていた考えを何とか具体化しようとしている姿。
進んでは後退し、右に振れては左を向く、どうしようもない様子。
ついには投げ出してしまいそうなスランプ状態。
これらを乗り越えることができたのは、「三浦さん、がんばっている。」とさりげなく声をかけてくれた知人や友人、そして家族の協力だと思います。
そうしたことを思い出させるように、文章化した資料は日ごとに枚数が増えていきます。
資料を整理しながら、あらためて「できたんだ」という満足感があふれてきました。
「何が不可能」だろうか?
論文が出来上がり、満足感は得たものの、まだ達成感がありません。
「街の空洞化をメディアで埋める」という曖昧だったものが「地方都市の情報化と活性化〜空洞化する地方都市再生への提言〜」に育ちました。
これは郡山市の行政ネットワークを市民、企業共用のバックボーン・ネットワークにして情報を発信し、それを消費する人を街に集める、そして新たな情報を生産しようとするシナリオです。
3年前の福島民友新聞で「交通の要衝である郡山を今度は情報流通の要衝にしよう」と語っていたことの絵を描いたことになります。
問題はこれを実現できるかどうかです。
相当のエネルギーが必要です。
私は「きのうの夢は、きょうの希望となり、あすには現実となってしまうので、何が不可能か言うことはできない。」という言葉が好きです。
誰がどのようなときに話した言葉かは知りません。
この2年間、いろいろありましたが、私の夢はひとまず実現しました。
次はこれを現実の都市で実現させるための挑戦です。
それが実現したとき、本当の達成感が得られると確信しています。
まだまだハードルは高いのです。
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