Norman Conquest Again――「忘れられ」なかった歴史家E・H・ノーマン――

なにびとも,他人に命令する権利を自然から与えられたのではない。

                  ―― ディドロ『百科全書』――1)

想起されるものは,すでに過去にあったものであり,いわば後方にむかって反復される。これに反して,ほんとうの反復は,前方にむかって想起するのである。

                  ―― キルケゴール『反復』――2)  

                

 人間科学専攻 林 和治

 はじめに

2001年5月29日,カナダ大使館(東京都港区赤坂)において,日本生まれのカナダ人,歴史家にして外交官であったエジャートン・ハーバート・ノーマン(Edgerton Herbert Norman, 1909-1957)の業績をたたえる会が開催され,ノーマンの業績を廻ってパネルディスカッションが行われた。パネリストとして,都留重人・一橋大学名誉教授,鹿野政直・早稲田大学名誉教授等が出席した。またこれと時を同じくして5月中旬から6月下旬までの1ヶ月余りの間,カナダのトロントではE・H・ノーマン展が開催された。我が国においては,『忘れられた思想家――安藤昌益のこと――』の著者として知られてはいるものの,本国カナダにおいて,彼は長い間「忘れられた」存在になっていたという。事実,レナード・J・エドワーズ駐日カナダ大使(当時)は,「ノーマンがいかに重要な存在で,今もその功績が息づいていることを認識したのは,東京に着任してから」と話していたと報じられている3)

 ノーマンは,1957年,米国のいわゆる「マッカーシー旋風(赤狩り)」で,「ソ連共産党のスパイ」として追及され,指弾されているさなか,任地カイロで飛び降り自殺した。“Out of sight, out of mind.”の諺通り,彼の名は人々の忘却の淵に追いやられ,その後,彼は長く「忘れられた」存在であった。ところが,冷戦終結の90年再調査が行われ,スパイ容疑を否認した報告書が議会に提出された。また,98年には生涯を検証したドキュメンタリー映画が制作されたという。しかしながら,ノーマンの死の本当の原因は,実は未だに謎の中ということのようである。

ノーマンは,なぜ「忘れられた」のだろうか。その背景には,どのようなことが起こっていたのであろうか。ノーマンの生涯については,『ハーバート・ノーマン全集』第4巻に,ノーマンのalter egoを自他共に認める大窪愿二の一文が収録されている。このほか,ハーバート・ノーマンの兄ハワード・ノーマンによって記された,特に父親を中心とした一家についての著作もあり,また,中薗英助や工藤美代子による評伝もある。これらを手がかりとしつつ,また戦前,戦中,戦後の時代背景にも目を配りながら,ノーマンの生涯を辿ってみることとしよう4)

1)ディドロ,ダランベール編,桑原武夫訳編『百科全書』,岩波書店(岩波文庫),1971,p.213 

2)キルケゴール著,前田敬作訳『反復』,『キルケゴール著作集5』,白水社,1962,p.206

)「『悲劇の歴史家』再評価の動き」『朝日新聞』(2001.5.23)に予告記事。

カナダ大使館資料によると,パネル・ディスカッションは,同大使館のキャンペーン「見えてくる,カナダ2001」の行事の一つとして,「E・H・ノーマンの生涯と学術業績」と題し,5月29日,同大使館シアターにおいて開催された。

 パネリスト等は次のとおり。(各肩書き及び紹介文は,当日のプログラムの内容をそのまま転載)

 都留重人 一橋大学名誉教授,元一橋大学学長

 日本屈指のエコノミストの一人。朝日新聞社顧問を務め,友人のハーバート・ノーマンの著作『日本における近代国家の成立』の執筆に力を貸した。

 ローレンス・T・ウッズ 元カナダ日本学会会長

 "Japan's Emergence as a Modern State"刊行60周年記念版の編者。アジア大平洋関係およびアジア太平洋諸国の政治研究を専門としている。

 鹿野政直 早稲田大学名誉教授

 近代日本思想史の専門家。『思想』特集ハーバート・ノーマン――死後二十年――(1977年4月号)執筆者の一人。

 ジョージ・オーシロ 桜美林大学歴史学教授

 新渡戸稲造の専門家。明治・大正期の思想史,北米・東アジア間の文化関係の研究者。 

山岡道男 早稲田大学アジア太平洋研究センター教授

 E・H・ノーマンの著作の初期の出版に関わったパイオニアNGO,IPR(太平洋問題調査会)に関する専門家。アジア太平洋地域における国際関係の論文も多い。

 ジェイコブ・コバリオ カールトン大学日本・アジア太平洋史学教授,元カナダ日本学会会長

 現代日本の対外政策,政治及び安全保障問題の研究者。2002年後半にカナダで「再生に臨む:カナダとハーバート・ノーマンと1945年から1950年の日本の政治改革(仮約)」と題する会議の開催を企画中。

(モデレーター:高島肇久 国連広報センター所長)

E・H・ノーマン展は,国際交流基金トロント日本文化センターにおいて開催され,併せてNFB(National Film Board of Canada)制作になる映画が上映された。(”INSIGHT”, The Japan Foundation Toronto, Spring 2001, issue 17)

  "E. H. Norman, Scholar, Diplomat, & Friend: A Tribute to Japan's Canadian Son"

  (May 17 to June 23, 2001, at The Japan Foundation Toronto)

  Screening of the NFB film

“The Man Who Might Have Been: An Inquiry into the Life and Death of Herbert Norman” (1998, 98 min 04 s)  

4)主として次のものを参考にした。

@大窪愿二「覚書――ハーバート・ノーマンの生涯――」及び「ハーバート・ノーマン年譜」『ハーバート・ノーマン全集』第4巻,岩波書店,1978

 同全集の増補版(1989)第1巻の「増補版の刊行に当って」によると,この「覚書」は,増補に際して大幅に書き改めて新しい事実を加え独立した単行本とするという計画があったが,1986年3月に大窪を襲った突然の出来事(暴走車輛の激突がもとで同年5月死去)により実現ができなくなった。

 以下のノーマンに関する記述は,原則としてこの「覚書」と,その前に付された年譜を軸にしており,それ以外に基づく場合は必要に応じて注を付した。

Aハワード・ノーマン『長野のノルマン』,福音館,1965

 ハワード・ノーマンは,ハーバート・ノーマンの兄であり,宣教師となって父親の仕事を継承し,戦後は一時関西学院神学部教授を務めた後,生まれ育った信州の地において長年伝導に献身し,定年を迎えて故国カナダに戻った。

 

1 出生から第二次世界大戦の終了まで

 (1) 父ダニエルとその一家 

ハーバート・ノーマンは,父ダニエル,母キャサリンの第3子として,1909年9月1日,長野県軽井沢において出生した。姉グレースが6歳,兄ハワードは4歳,その後に弟妹は生まれていない。両親ともイギリスからの移住民の子であり,ハーバート・ノーマンは純粋なイギリス系カナダ人である。

父ダニエル・ノルマン(Daniel Norman, 1864-1940.以下,父親については,長野県における宣教師として活動当時の表記・呼称であり,ハワードによる前掲書のタイトルともなっている表記を尊重して,ノーマンではなく「ノルマン」と表記する。)はカナダにおいて宣教師を志して神学を学び,メソジスト派教会(後に合同教会)の宣教師として,1897年9月に単身来日した。彼は,赴任後の1年を東京において日本語や日本文化の学習に費やした。その後1999年までは金沢等において宣教活動を行った後,1901年いったん帰国してキャサリン・ヒールと結婚した。妻を同伴して東京に戻ると1902年からは長野に移って宣教活動に入った。

長野では,当初市内の旭町に居住,1905年からは前年11月に西南部の県町にできた宣教師住宅に移った。この住宅は,旧来の日本家屋の「陰鬱で雑然とした構造を改めて,新しい明るい合理的な」家がほしいという妻キャサリンの要望をいれ,ダニエル自らが設計して建築を監督した大きな木造2階建ての家である5)。 ダニエルは,以後,日本滞在40年の内の30年間,「ノルマンさん」と親しまれながらこの家で過ごした。ノルマンの任地である長野県には,全国に名高い善光寺という大きな仏教勢力があり,宣教活動は着任当初から困難を極めたようである。しかしその布教活動の範囲は徐々に拡大し,長野市及びその周辺は言うに及ばず,越後高田,小諸,岩田村,軽井沢,また伊那,飯田にも展開した。ハワードによると,ダニエルの宣教方法は@教会中心の伝道,A新聞・通信伝道,B職域伝道,C禁酒運動の支持,であったという。各地に教会を建設しつつ,バイブル・クラス,日曜学校,幼稚園,英語教育等を行うほか,廃娼,禁酒,農村生活改善に力を入れ,カナダで学んでいた寒冷地農業に関する知識を活用した西洋野菜栽培,妻によるジャムやパイ作りの伝授など,極めて多様な活動であったようだ。その活動の重点は,一貫して農村伝道であり,スライドやフィルム映写機を使用して人々の関心を引き,長野県で初めての自動車や自転車を使って山間の村々を訪ね,百姓家に泊めてもらって聖書を読むだけではなく,農村生活のすべてにわたって相談に乗り,人々の信頼を勝ち得ていったのであった。そして,ついに人々をして「ノルマンさん」と呼ばしめた。ある時道ばたで遊んでいた二人の子どもの一人が前方から来る彼を見つけて「あ異人が来た」と叫ぶと,他の子どもが「異人なんかじゃない,あれはノルマン先生だ」と応えたという。また,ある時軽井沢駅で牧師の一人が聞き耳を立てた話によると,一人の日本人がノルマンのことを「まるで外人そっくりの日本人が歩いていったよ。」と語っていたというような逸話が残っているという。ノルマンの教会で教育を受けた人の中に,戦後民選初代の長野県知事になった林虎雄などがいた6)

) この家は,1971年,長野県の「県宝」に指定されて飯縄高原登山口近くに移築,保存されている。当時の生活の様子などは,先に掲げた『長野のノルマン』に詳しい。

 この家を買い取り保存したのは株式会社北野建設の北野幾造(当時,同社副社長)である。県宝に指定された当時の新聞によると,北野は「昭和30年に,当時住んでいた宣教師さんに,“新しい建物をつくりたいから,引き取ってくれ”といわれまして,確か当時の金で550万円出して買い取ったんです。」と語っている。これを買い取った後,北野は実際に10年間ほど住んだとのことである。その後,現在地に移築して同社の福利厚生施設(山の家)として社員に活用された。〜「人:教育,民間人の手で」『信濃毎日新聞』(1971.12.19)

<ダニエル・ノルマン邸>(長野市教育委員会資料):2001.10.17付けで同委員会から受領

 現在の所在地:長野市上ヶ屋大字麓原2472-2234番地

 構造及び形式:洋風木造2階建カラー鉄板葺

        (元瓦葺を移築に際してカラー鉄板葺きに改めた。)

 床面積等  :1階140.00u 2階110.89u 計250.89u

 高さ    :軒高7.00m 最高棟高10.20m

 建築年代等 :明治37年11月竣工(現長野市県町,棟梁:内田繁蔵)

         昭和44年11月解体

        昭和46年 7月現在地に復元工事完成

        昭和46年12月県宝の指定を受ける

 所有・管理 :北野建設株式会社

 なお,平成13年10月現在においては,維持管理の関係から閉鎖されている。

) 羽仁五郎「心痛む想い出」『ハーバート・ノーマン全集』第4巻月報,岩波書店,1978

 

 (2) ハーバート・ノーマンの生い立ち

ハーバート・ノーマン(以下,原則としてノーマンと表記する。)は,1909年,このような両親がその熱心な宣教活動の休暇として避暑に赴いた軽井沢において誕生した。「旧道の入り口に当たる所から左手に小さな川と橋を渡る,林の中」にノーマンの生まれた家があった7)。その軽井沢には,元碓氷峠を越える鉄道建設に従事した技師たちの憩いの場であった建物をノルマンが買い取り礼拝所として転用したユニオンチャーチがあり,避暑のために同地を訪れる他の宣教師や外国人たちの宗派を越えた集会所となっていたようである8)。この避暑・保養地としての好適の地である軽井沢は,既にノルマンが来日する20年前からカナダ出身のイギリス国教会宣教師A・C・ショー(1846-1902)らによって先鞭を付けられていた。ショーは,軽井沢に外国人として最初の別荘を建てた人物であり,その活躍から,「避暑地軽井沢の開祖」とも「軽井沢の恩父」とも称された。その後,避暑のためにここを訪れる人々は増大し,生活の上でや地元の人たちとの間に解決すべき多くの問題が発生したため,ノルマンはそれらの問題解決に奔走した。その誠実な人柄は多くの人に親しまれ支持されて「軽井沢の村長さん」と呼ばれ,軽井沢避暑団 “Karuizawa Summer Residents' Association”(大正5年には財団法人となる。)の会長,委員を20年にわたって務めていた。また同じように外国人が好んだ野尻湖周辺の土地の開発については,野尻湖開拓合資会社の一員でありながら,他の宣教師たちの独善,日本人排除の方針に反対して脱退したという9)

1916年,ノーマン7歳の初夏,父の休暇で家族とともに初めて祖国カナダの地を踏み,1年間を過ごす。1920年には,宣教師が神戸に作った在日外国人子弟の学校であるカナディアン・アカデミーに入学して寄宿舎生活に入った。大窪の「覚書」によると,その学生誌には,ノーマンは「挙動,精神ともに完全,紳士たるのあらゆる資質を具備」と記されているという。途中1年間カナダの高校に入学し,再び神戸に戻っている。1926年,卒業を目前にして,成績優秀で将来を嘱望されていたノーマンであったが,突然の出来事が彼を襲った。肺結核にかかったのだ。卒業と同時に軽井沢のサナトリウムに入り,翌年にはカナダに戻って1年間の療養生活を余儀なくされた。実は,この軽井沢に結核療養病院を設置することを発案したのは父ダニエルであり,地元の医療福祉の増進にも大きな貢献を果たしている 10)

この療養生活は,結果的にはノーマンにとって格好の読書の機会となったようで,既に高い学力を蓄えていた上に,その知的好奇心を大いに高め,知識を広めていった。1928年には健康も回復し,高校の学業を1年間修めた上で,1929年,両親や兄が学んだトロント大学ヴィクトリア・カレッジに入学してクラシック・コースを専攻し,特にラテン語をよくした。古典学の知識・教養,古代ローマに始まるフマニタス(humanitas)の素養,歴史への関心,ヒューマニズムとしてのマルクス主義への共感など,真摯な学生で研究熱心なノーマンの成績は極めて優秀であった。同カレッジを卒業すると歴史研究を続けるために渡英し,ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学する。そこは,古くはF・ベーコン,I・ニュートンから,20世紀のJ・M・ケインズやS・W・ホーキング等に至るまで,枚挙に暇がない程の逸材の輩出した名門校であり,彼は碩学メイトランドの薫陶を受けた。彼は戦後の日本で実施された丸山真男,都留重人との鼎談11)において,ケンブリッジ時代を振り返り,当時一番影響を受けた歴史家としてメイトランドを挙げ,「余り価値のなさそうな資料から非常に勝れた総合を行ってゆく手腕」,「既知のものから未知のものへと史論を展開してゆく手腕」に感心したと語っている。このあたりに,後の歴史家ノーマンの誕生の秘鑰の一つとなる彼の精神的基盤があるものと推察される。

このトロント大学からケンブリッジ大学,続けてハーバード大学に及ぶ学生生活を通じてノーマンは,実に多様多彩な人物たちと交流し,社会運動にも関与した。都留重人との出会いもハーバード大学においてであった。いわばその後の人生におけるさまざまな出来事の端緒を,このときに作っているとも言える。外交官としての活躍も,歴史家としての素晴らしい著述も,そして彼を襲った悲劇をも含めて。

 「それにしても宣教師や医者や外交官やその他の職業のヨーロッパ人は,それぞれ偶然の機会に,ヨーロッパのそれとは著しく異なる社会と文化に接触するや,職業上の必要を超えても,その社会の歴史や文化について,あいはまた自然について,古典的な研究をなしとげた。……私にはノーマン氏がそういうヨーロッパ人の人種の最後の一人のように見える。」

ノーマンの深くて幅の広い教養と旺盛な知識欲に言及して,加藤周一はこのように書いている12)

丸山真男は,また,ノーマンの訃報に接して認めた追悼文の中で,「私は誇張なしにそこにJ・S・ミルのいう完璧な『教養人』を見た」と表現した13)

) 松田智雄「深い寂寥のうちに」『ハーバート・ノーマン全集』第4巻月報,岩波書店,1978

) 2001年9月,同地で開催されたゼミ合宿に参加した筆者は,この教会を訪ねた。玄関には鍵がかかっており,入り口上部の看板には1906の数字が見えた。隣接の建物には,「日本語教室」の看板が掛かっていた。 

) 避暑地軽井沢を廻る時代の流れと,様々な出来事,人物,別荘,建築等については,次の著作を参考にした。

@宮原安春『軽井沢物語』,講談社,1991

A宍戸実『軽井沢別荘史』,住まいの図書館出版局,1987

10) 日本人には住みにくいと思われていたこれらの土地も,寒冷の地カナダから来た人々にとっては高温多湿の夏を避けるにふさわしく,郷愁を誘う好適の地であったようである。堀辰雄が『晩夏』のなかで「どうも外人の後ばかり追っかけてゐるやうで,気が引けるが,あいつらの見つけ出すものには棄て難い味がある。」と書いているのは,この避暑地のことである。

11) ノーマン・丸山・都留(鼎談)「歴史と政治」『展望』,筑摩書房,1949.6

12)加藤周一「E・H・ノーマン・その一面」『思想』634号,岩波書店,1977.4,40頁

13)丸山真男「E・ハーバート・ノーマンを悼む」『戦中と戦後の間』,みすず書房,1976

初稿は『毎日新聞』(1957.4.18-19),のち雑誌『世界』ほかにも転載された。

   なお,ミルの言う「教養人」とは,「everythingについてsomethingを知り,somethingについてeverythingを知る」者のことを指す。

 

 (3) 外交官ノーマンの誕生

1935年トリニティを優等生として卒業し,カナダに帰国した。そして8月,アイリーン・クラークと結婚した。ノーマンはトリニティ時代から抱いていた国際情勢に対する危機意識から外務省入省を望み,しかもかねて関心を抱いていた日本問題を研究するために語学官として東京勤務を希望したらしい。関係者に打診したが見込みはないということで,これを諦め,翌36年,カナダの中国人民友の会に書記として勤めた。この後ロックフェラー財団のフェローシップを受けるなどしながら,日本史・中国史の研究を進め,ハーバード大学から37年MAを,39年『日本における近代国家の成立』によってPh.D.を受けている。

1939年ノーマンはカナダ外務省に入省が決まり,翌40年5月,待望の駐日公使館語学官として日本に着任した。他方父ダニエルは,既に34年に宣教師を引退して軽井沢に転住していた。だが戦局の悪化にしたがって日本基督教団への参加をめぐって大きな選択を迫られていた。そしてついに,軽井沢外人墓地の一画に墓地まで用意して療養生活を送っていたノルマンであったが,「日本の土となる覚悟で日本に墓石を建てた私は母国に帰るというのにまったく好まざる他国へ行くと同様な哀しい気持ちである。」と言い残して40年末に家族とともに帰国,翌41年6月,77歳で故国の地に眠った。2か月後,軽井沢のユニオン・チャーチでは「ダニエル・ノルマン氏追悼記念会」が開催され,戦時下にも拘わらず多数の外国人,日本人の文化人が会合し,日本に一人残ったハーバート・ノーマンもこれに参加している。

日本に赴任したノーマンは,語学官という特殊で,割に融通の利く立場を利用して,意図どおり日本史研究を継続することができた。41年夏,日米関係の緊迫から妻をカナダに帰したのちは,父ダニエルと親交があった羽仁五郎について日本史研究を深めていった。避暑に来ていた羽仁に対して,岩波書店から出版されていた『岩波講座・日本歴史』に収められている羽仁の著作『明治維新』を読んでいるが理解できないところもあるので講義してほしいと頼み込み,7月から9月にかけて毎日午前中一杯,講義を受けた。羽仁は「一冊のテキストを厳密に読みとおして,現代史とのかかわりで詳しく説明し,そこまで丁寧に僕が教えたのは,ノーマン一人だけだ。」と書いている14)

1941年12月8日,開戦と同時にノーマンはカナダ公使館内に抑留され,半年後の7月,捕虜交換船に乗船して離日,交換地点であるアフリカのロレンソ・マルケス(現在のモザンビーク人民共和国の南方の港町マプト)において,同じく交換目的でアメリカから送還されてきたハーバード大学時代からの旧友都留重人に会った。このことが後日のノーマンの人生を決定づける重要な意味を持つことになろうとは誰も予想だにしなかった。

14)羽仁五郎「心痛む想い出」『ハーバート・ノーマン全集』第4巻月報,岩波書店,1978

 

2 「忘れられた思想家」前後のノーマン

 (1) 占領下日本と外交官ノーマン

カナダに帰国した後のノーマンは,外務省電信課において対日戦争関係情報の分析に従事するなど,日本に関する専門家として活躍する傍ら,1942年には,日本における武家支配の時代から近代日本陸軍の創設・徴兵制等について考察を行った『日本の兵士と農民』をIPR(太平洋問題調査会)15) から刊行している。

1945年8月末,連合軍の日本占領に伴い,ノーマンはアメリカ軍とともに厚木を経て横浜に入った。彼の能力と,いわゆるBIJ16)としての日本語能力,日本に関する知識が買われて連合国占領軍総司令部(SCAP)において,最高司令官D・マッカーサーの指揮の下,政治情勢分析,政治犯及び戦争犯罪容疑者に関する調査を任務とする対敵諜報部(CIS)調査分析課長に任命された。GHQから政治犯釈放指令の発出された10月4日の翌日,総司令部政治顧問部のJ・エマーソンはノーマンを伴って府中刑務所付設の拘禁所に政治犯徳田球一,志賀義雄を訪ね,さらに二日後に両者を総司令部に招致して意見聴取を行った。当時の模様を志賀は「最高司令部からは,エマーソン氏,ノーマン博士の二人,それにデヴィス中佐などがきて,『出てからどうするつもりか』とわれわれの意向をたずね,司令部の方針も伝えてくれた。」と書いている17)。いわゆる予防拘禁として豊多摩刑務所(東京都中野区)付設の拘禁所に収容されていた徳田と志賀は,敗戦の直前6月29日に,府中刑務所付設の拘禁所に移送され,そこで8月15日を迎えた。エマーソンの自伝によれば,府中に出向くことになったきっかけは,府中刑務所において徳田らへの取材に成功した『ニューズ・ウィーク』紙のアイザックス記者が,GHQの誰かが彼ら政治犯に会うことを勧めたことのようである18)

10月10日,徳田,志賀を含む,全国で約500名の政治犯が一斉に釈放された。この時期,ノーマンは,戦後日本の方向性を示したともいえる総司令部発表の「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」(いわゆる権利の章典指令,10月4日発表)の起草に加わったと推測されるほか,東京のみならず各地の知識人多数に会見しつつ,戦争犯罪容疑者としての近衛文麿,木戸幸一,伊沢多喜男に関する覚書を提出している。

46年,ノーマンはいったん離日し,8月には,新たに駐日カナダ代表部首席として来日した。このときは占領軍とは異なった立場であったため,比較的自由な行動ができたようで,活動範囲が大きく広がっている。占領政策を側面的に見ることができ,その進行状況を本国に報告しつつ19),カナダの対日政策の進行役を果たしていった。

15)IPR(Institute of Pacific Relations):アジア太平洋地域における学術・文化交流を目的としてハワイで発足した先駆的なINGO(国際的な非政府組織)。1925年発足し,1950年代末まで米国を中心として活動した。

16)BIJ:Born In Japan の略で,ノーマンと軽井沢でテニスに興じた仲間であったライシャワーによると,特に宣教師の子弟で日本生まれの者がそう呼ばれた。彼は,自伝の一節をBIJについての記述に充てている。

〜エドウィン・O・ライシャワー『ライシャワー自伝』,文芸春秋,1987

17)徳田球一・志賀義雄『獄中十八年』,時事通信社,1947

    この志賀の言葉「司令部の方針も伝えてくれた。」が,後のエマーソンやノーマンを追いつめるきっかけとなったとされている。

18)ジョン・エマーソン『嵐の中の外交官――ジョン・エマーソン――』,朝日新聞社,1979

なお,当時豊多摩には哲学者三木清なども拘禁されていたが,エマーソンらはこちらには出向いていない。三木は,結局1945年9月26日,豊多摩刑務所の拘禁所内で絶命した。GHQの関心が専ら政治犯釈放を占領政策遂行に利用するためであったためかとも推察されるが,確たる証拠はない。

19)オタワ公文書館等に所蔵されているその一部は邦訳され,次の著作に収められている。

@「外交官ノーマン」『ハーバート・ノーマン全集』第2巻増補,岩波書店,1989

A 加藤周一監修・中野利子編訳『日本占領の記録』,人文書院,1997

 

 (2) 歴史家としてのノーマン

外交官ノーマンのもう一つの顔,ノーマンの歴史家としての活動を見てみたい。いうまでもなく占領下におけるそういった活動は,占領方針に沿っており最高司令官D・マッカーサーの了解があるからこそ可能であったことを忘れてはならない。

47年6月には長野市において開催された父ダニエル・ノルマン追悼集会において日本語記念講演「封建制下の日本人民」を行い,長野県の農民の特質を見事にとらえて,一般に信州人といわれる独特の気質の歴史的な背景も紹介したという20)。このほか,日本歴史の研究家として,講演,著作,座談会等の多様な活動を行っている。並行して8月には『日本における近代国家の成立』,11月には『日本における兵士と農民』の日本語訳が刊行された。

さらに1948年5月東京大学において安藤昌益について日本語で講演を行い,その記事が『東京大学新聞』に掲載されて戦後における昌益研究の嚆矢となった21)。続いて「安藤昌益の思想とその方法」を発表した20)。さらに49年,ノーマンはマッカーサーに対して書簡により昌益研究書の刊行を予告した。そうすることは占領軍最高司令官への,その支配下で文化活動を行うものとしての当然の礼儀でもあったし,それなくしてこういった被占領国に大きな影響を与える活動は不可能な状態にあったはずである。そして同年末には,日本アジア協会紀要として“ANDO SHOEKI AND THE ANATOMY OF JAPANESE FEUDALISM”が刊行され,翌50年1月,並行して準備されていた日本語版『忘れられた思想家――安藤昌益のこと――』が大窪愿二訳によって刊行された23)。原題に“anatomy”の語が掲げられ,しかもそれが社会体制の「解剖(学)」の意味で使用されていることは,彼がK・マルクスの著作から,特に『経済学批判』から色濃く影響を受け,歴史分析の手法に関して多くの方法論的な示唆を得ていることをうかがわせる24)。この本の発行は,戦後における安藤昌益の研究を一挙に加速することとなった。この年までには戦前・戦中を支えてきた各種の法律のほとんどが新憲法下における法律に改まっており,各方面で民主化・近代化のための活動が活発に行われていた時期でもあったため,「封建制」批判を基軸とした昌益思想の紹介は,我が国の戦後思想に大きな影響を与えずにはおかなかった。そして,このことをきっかけとして,昌益に関する新たな資料の発掘が盛んになった。

このノーマンによる昌益研究は,当時の事情から,文献の入手などに極めて大きな困難があったようである。戦前の,唯一のまとまった著作である渡邊大濤著『安藤昌益と自然真営道』(1930)さえ手にすることができず,日本人研究者・旧友の協力で新聞広告を出してまで入手した次第であった。ノーマンは,上記の著作を執筆するに当たって『自然真営道』,『統道真伝』等の原著作を直接手に取ることができず,昌益の引用については,ほとんど渡邊大濤の著作によっていることが,その状況をよく物語っている。ノーマンは,東大図書館の貴重図書となっていた『自然真営道』の中から必要部分を写真にとって,これを利用することとしたという。1949年2月,『東京新聞』に「封建日本の民主思想家 安藤昌益を研究 ノーマン博士日英両国語で出版」という予告記事が出され,また,上述の『思想』に掲載された論文により,ノーマンの研究を知った渡邊大濤が,病身を押して住居の福島から上京し,秘蔵の『統道真伝』原本5冊,稿本『自然真営道』の一部所蔵分の貸与を申し出た。このほか,多くの日本人研究者等の協力,支援の中で,ノーマンの「忘れられた思想家」は書き上げられていったのであった25)。その後ノーマンは,日本を離れるが,外交官として多忙な活動の中,結果的には最後の著作となった歴史随想集の『クリオの顔』を,後述のエジプト赴任中の1956年に日本語で刊行した。

20)太田愛人「ノルマン家の人々」『ハーバート・ノーマン全集』第1巻月報,岩波書店,1977

21)大窪愿二訳「安藤昌益とその封建社会の批判」『ハーバート・ノーマン全集』第3巻,岩波書店,1977

22)大窪愿二訳「安藤昌益の思想とその方法」,同上 

23)“ANDO SHOEKI AND THE ANATOMY OF JAPANESE FEUDALISM”The Transactions of the Asiatic Society of Japan, Third Series Vol.2,1949

   (日本語版)大窪愿二訳『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』,岩波書店,1950

24)”the anatomy of this civil society, however, has to be sought in political economy”, Preface for A CONTRIBUTION TO THE CRITIQUE OF POLITICAL ECONOMY, Karl Marx, 1959

25)この辺の事情は,次のものに詳しい記述がある。

大窪愿二「解題」『ハーバート・ノーマン全集』第3巻,岩波書店,1978

 

3 ノーマンの悲劇……そして栄光

歴史家ノーマンの日本における活動は,この『忘れられた思想家』日本語版の発行後,わずか半年あまりでいったん終止符を打たれる。50年8月,ノーマンは本国カナダ外相でかつての上司でもあったL・B・ピアソンに対して,占領政策の変質を告げる報告を行っているが,翌9月には本国召還の命令を受ける。かれは,日本の友人約100人による送別会をもって見送られ,10月27日,離日して外務省勤務に復した。

このころ,時代は大きく変わっていこうとしていたのであった。すでに1946年3月,イギリスのW・チャーチル首相が「鉄のカーテン」の演説を行って以来,ソ連の共産主義の拡張が米国を始めとする西側諸国にとってグローバルな脅威と認識され始め,48年には米国でB・バルークが「われわれは今や日増しに暑くなる冷戦のまっただ中にある」と演説し,翌49年8月ソ連が原爆実験に成功,同年10月中華人民共和国成立,と次第にその脅威に対する警戒心が強まっていったのである。このような動きの中で,50年2月,アメリカ上院議員J・マッカーシーは共産主義者糾弾の猛烈なキャンペーンを開始した。その中で,アメリカ上院司法委員会の国内治安小委員会は「米国内でのソ連の活動の規模」を調査対象にし,一連の聴聞会を通じてノーマンに関心を寄せ彼に照準をあて始めた。その嫌疑は,ノーマンは,カナダの外交官であったにもかかわらず,ソ連共産党に加担したと思われる活動の舞台が米国内に及んでいたというものであったようだ。同年7月には我が国においてもいわゆるレッド・パージが始まっている。51年8月,初めて前述のアメリカ上院委員会でノーマンの名が初めてあがった。これに対して,カナダ外務省は徹底してノーマンの忠誠と潔白を主張し,アメリカの対応に抗議を行い,ノーマンを外交上重要な地位につけることで,その姿勢を示した。そこでノーマンは,同年9月サンフランシスコにおいて行われた対日講和会議にはカナダ代表団首席随員として条約に調印したピアソン外相に随行した。さらに52年外務省情報部長,53年ニュージーランド駐在高等弁務官等の重要な地位につき,外交官として活躍の日々を送った。また55年には休暇の途中で日本に滞在し,学者たちとの交流や講演を行っている。

このいわゆる「マッカーシー旋風(赤狩り)」と呼ばれる嵐はおよそ4年間猛威を振るったが,最終的には,同じく上院においてその行動への非難決議が為されるに至った。しかし,時代はそれ以上に変化し,世界の動向においてアメリカの恐れる事態が進行しつつあった。そして,53年のスターリンの死後政権を掌握したフルシチョフ第一書記が,56年2月にはスターリン批判を行う一方,同年6月ハンガリーを制圧するという出来事が起こると,一旦は終息したかに見えた「赤狩り」であったが,米国におけるソ連共産主義への不信感は急速に強まり,脅威はいや増しに増幅され,再燃し始めたのである。

56年,ノーマンはエジプト駐在大使に任ぜられ,いわゆるスエズ危機の回避のための大役の遂行を期待された。彼はカイロに着任すると活発に外交活動を展開し,大統領に会見して中東和平のために尽力した。その姿は,カイロにおいて一等書記官として彼を補佐していたA・R・キルゴアをして「外交の職に献身する,外交官の中の外交官であった。」と言わしめた26)。しかし,前段叙述のとおり時代は変わっており,事態は悪化していた。57年3月アメリカ上院国内委員会では,かつてGHQの中でともに行動したエマーソンが喚問され,ノーマンの過去についての嫌疑が蒸し返され始めていた27)。続いて日本人の旧友都留重人が喚問された1週間後,4月4日,カイロにあるホテルの屋上から投身自殺を図った。47歳であった。遺体はローマに空輸され,市内の非カトリック外国人墓地に葬られた28)。その後,カナダ政府ピアソン外相は対米抗議文を発表し,我が国においては,長野市において旧友による追悼式,ついで東京において追悼会が開催された。

その後,時代は更に急変し,同57年のスプートニク・ショックに始まる軍事技術競争の先鋭化,60年代にはいわゆるキューバ危機,ベトナム戦争の泥沼化と72年のアメリカの敗北,73年の第4次中東戦争とオイルショック,75年ベトナム戦争終結,80年代後半に起こったソ連・東欧における相次ぐ政権交代,そして89年の「ベルリンの壁」の崩壊,といった枚挙にいとまのない目まぐるしい世界情勢の変動の中で,ノーマンは次第に「忘れられた外交官」として過去の存在となり,公文書館の中,奥深い書棚の片隅にしまい込まれてしまったかに見えた。

しかし,ノーマンは本当に忘れられていたわけではなかった。特に我が国においては,多くの学者・知識人たち,真にこれを知る者の心の中で生き続け,語り継がれていたのである。また,丸山真男によると,アメリカにおいても1961年ころは「ノーマンの研究はもう時代遅れ」という雰囲気だったものが,1975年に訪米したときはノーマン再評価の動きが中堅・若手研究者に出ていたという29)。「イデオロギーの終焉」論を背景に,ライシャワー,ロストー流の「近代化」論に照準した日本研究が主流を占めていた1960年代の前半と比べて,70年代に入ると,「江戸思想史」研究の質・量両面での飛躍的な発展にみられるように,アジア系の研究者をも含めた多様で厚い研究者層が誕生しつつあったという事情がある。1975年,J・ダワーによって『ノーマン選集』の形で,ノーマンの著作『日本における近代国家の成立』(1940)と『日本政治の封建的背景』(1944)とが再刊されている。他方,常に語り継がれていた日本では,没後20年を期して77年には全集が刊行され,さらに30年を期して87年には全集の増補が刊行されたほか,数多くのノーマン研究が続けられてきた。

そしてソ連・東欧社会主義国家群の解体による冷戦の終結によって,ようやく彼の本国カナダにも,待ちに待ったノーマンの春が訪れた。2000年9月,カナダにおいては,英語版の『日本における近代国家の成立』刊行60周年記念版が出版された。アメリカ上院司法委員会国内治安小委員会に初めてノーマンの名が出された1951年,ノーマンの名を人々の記憶から消し去ろうとしたその年から半世紀を経た2001年の春,カナダ大使館は,同大使館図書館を,ノーマンの業績を称えて「E・H・ノーマン図書館」と命名した。「忘れられた思想家」安藤昌益を,戦後の私たちに思い起こさせてくれたノーマン,カナダ公文書館の書架の片隅で,その時の来るのをじっと待ち続けていたE・ハーバート・ノーマンは,ここに「忘れられた外交官」から「『忘れられ』なかった歴史家」へと見事に甦ったのである。30)

26)A・R・キルゴア著,大窪愿二訳「ノーマン最後の日々」『思想』634号,岩波書店,1977.4

27)ジョン・エマーソン著,宮地健次郎訳『嵐の中の外交官―ジョン・エマーソン―』,朝日新聞社,1979

28)阿部知二「ノーマンの墓」E・H・ノーマン全集第3巻月報,岩波書店,1978

  全集第4巻月報の「編集室より」にもノーマンの墓について言及されている。

29)丸山真男・萩原延寿(対談)「『クリオの愛でし人』のこと」『思想』634号,岩波書店,1977.4,

30)小論冒頭に触れた大使館主宰のパネルディスカッション開催に先立ち,図書館入り口に掲げる銘板の除幕式が挙行され,大窪育子夫人(故大窪愿二氏の妻)と共にカナダ大使が除幕した。

*このパネルディスカッション及びカナダ大使館図書館の命名については,次に掲げるとおり東京においてよりは東北地方において大きく報道された。報道によると,当日の参加者は約二百五六十名となっている。

・「昌益をよみがえらせた歴史家 ノーマンの名を図書館に」『デーリー東北』,2001.5.20

・「故ノーマン氏の業績を振り返る 東京でパネルディスカッション」同上,2001.5.30

・「日本の民主主義を発掘 ノーマンのシンポジウムに参加して」同上,2001.6.16

・「占領期の日本に勇気 加大使館ノーマンの業績たたえ 管内図書館に命名」『東奥日報』,2001.6.7

・「平和を愛し日本愛す E・H・ノーマンを思う」同上,2001.6.18

*東北地方以外における報道の主たるものは次のとおり。

・「今日の話題 太平洋の架け橋」『北海道新聞」,2001.6.13

・「文化往来 文人外交官ノーマンの業績をしのぶ」『日本経済新聞』,2001.6.13

・「窓 ノーマン余聞」『朝日新聞』,2001.6.16

"Work of Canada's ‘tragic historian’ now regaining spotlight in Japan" The Japan Times,May 31, 2001

 

4 文献目録(以下※印は直接参考にした版)

 (1) ノーマンの著作のうち刊行図書としては,次の書籍がある。(発表年代順)

 @『日本における近代国家の成立』,時事通信社,1947

  同,岩波書店(岩波現代叢書),1953

※  同,同(岩波文庫),1993

 A『日本における兵士と農民』,白日書院,1947

    同,岩波書店(岩波現代叢書),1958

※B『忘れられた思想家―安藤昌益のこと――』,岩波書店(岩波新書),1950

 C『クリオの顔――歴史随想集――』,岩波書店(岩波新書),1956

※  同,岩波書店(岩波文庫),1986  

これらを始め,論文,書評,評論等の多数の著作が,ノーマン没後20年を記念して刊行された全集Dに収められており,没後30年を記念する増補版Eが刊行された。しかし,先述のとおり,編集作業さなかに編訳者大窪愿二が急逝したため,増補版の計画は中途半端なものに終わらざるを得なかった。あたかも,ノーマン自身を襲った嵐のように,そのalter ego大窪も急襲された衝撃によって帰らぬ人になってしまったのである。その経緯は,第1巻増補巻頭の「増補版の刊行に当って」に記されている。

※D『ハーバート・ノーマン全集』全4巻,岩波書店,1977-1978

※E同全集増補版(第1巻増補,第2巻増補),岩波書店,1989

  次のFに収録されているものは,主として外交官としてのノーマンが公務上作成した公文書の翻訳であり,全集には収められていない。そのことは,全集第4巻月報の「編集室より」にも言及されている。ただし,公文書の一部は前掲の増補版にも収められている。

※F加藤周一監修・中野利子編訳『E・H・ノーマン 日本占領の記録』,人文書院,1997

   ノーマンが駐日カナダ代表部首席を務めていた1946年8月から1950年10月までの間に,本国の外務大臣に宛てた報告書(ディスパッチ)のうちから,その前半,1948年12月までのもの約60通を選んで邦訳されたものである。なお,Eに掲載されているものは重複を避けるため除外してある。詳細な資料であり参考になる。

 

 (2) ノーマンに関する著作の主たるものには,次の書籍がある。(発表年代順)

※@W・H・ノルマン著,平林広人訳『長野のノルマン』,福音館書店,1965(非売品)

注にも触れたとおり,ハーバート・ノーマンの兄ハワード・ノーマンが,主として父ダニエル・ノルマンの生涯を,家族の歴史としてまとめたもの。

※A『思想(特集 ハーバート・ノーマン)』634号,岩波書店,1977.4,

全集の発行を前にして編まれた多彩な執筆者による特集であり,ノーマンを取り巻く周辺事情,当時のノーマンに対する評価等について多方面からの執筆があり,参考になる。
B中薗英助『オリンポスの柱の蔭に――ある外交官の戦い――』(上下),毎日新聞社, 1985GHQのあった第一生命ビル表玄関のギリシャ神殿風石柱をシンボルとして,冷戦初期の時代を綿密に取材して描いている。

※C改題:『オリンポスの柱の蔭に――外交官ハーバート・ノーマンの戦い――』,

社会思想社(現代教養文庫),1993

※D中野利子『H・ノーマン――あるデモクラットのたどった運命――』,リブロポート,1990

 各種の文献・資料を参考に,ジャーナリストが描いたノーマンの伝記である。

※E改題:『外交官E・H・ノーマン――その栄光と屈辱の日々1909-1957――』,新潮社(新潮文庫),2001

 Dに,その後の状況を「ノーマンの復権」として加筆したもの。特に復権に絡む事柄について記載を改め,また注を補い,巻末には詳細な年譜が付加されている。

※F工藤美代子『悲劇の外交官――ハーバート・ノーマンの生涯――』,岩波書店,1991

ノンフィクション作家の視点から,独自に収集した膨大な資料を駆使して執筆されている。本国カナダ,アメリカ合衆国ほかの外交文書,本人及び関係者の手紙,そのほか,第一次資料に直接当たって執筆されているので,それらの資料の全訳ではないが,出典が明かであり大いに参考になる。

※G加藤周一編『ハーバート・ノーマン――人と業績――』,岩波書店,2002 

英文『日本における近代国家の成立』出版60周年記念版(Japan's Emergence as a Modern State, 60th Anniversary Edition, Edited by Laurence T. Woods, 2000)に掲載された論文の翻訳10編の他,「ノーマンの『人と業績』について,日本および北米の多様な著者たちによってかかれた文章」を集めたもの(出典は,『ハーバート・ノーマン全集』(1977-78)の月報,『思想』(634号,1977)等)である。

巻末には,中野利子による詳細な年譜も付されている。

 

 (3) 英文によるハーバート・ノーマンに関する著作には,次のものがある。

@Bowen, Roger, E. H. Norman: His Life and Scholarship, University of Toronto Press, Toronto, 1984

※ABowen, Roger, Innocence Is Not Enough, Douglas & McIntyre Ltd., Vancouver, 1986

 後者は,カナダにおける本格的なノーマン研究書であり,その構成は次の12章から成っている。

1.SON,   2.STUDENT,  3.SCHOLAR,   4.JAPANOLOGIST,  5.DEMOCRAT, 6.SUSPECT,  7. “A MAN WHO MIGHT HAVE EXISTED”, 8. “COMMUNIST”,  9. DIPLOMAT, 10.VICTIM,  11.SUICEDE, 12. “SPY”

      なお,本文で触れたとおり,1975年,次の『ノーマン選集』が発行されたことが,アメリカにおけるノーマン再評価を押し進めたと言われている。

Dower, John W., Origins of the Modern Japanese State ? Selected Writings of E. H. Norman ?, Pantheon Books, New York, 1975(『近代日本国家の起源――E・H・ノーマン選集』)

これには,次のものが収められている。

Japan's Emergence as a Modern State, 1940

Feudal Background of Japanese Politics, 1944

      また,ノーマンの本国カナダにおいては,次の著作が,ノーマン復権の一環として,同書刊行60周年記念版の形で復刊された。編集者の序文の他,巻末には10名の研究者による論文が付されている。

Norman, E. Herbert, Japan's Emergence as a Modern State, 60th Anniversary Edition, Edited by Laurence T. Woods, University of British Columbia Press, 2000

 

〔後記〕この小論は,いわば「E・H・ノーマン論拾遺篇」といったものであるが,安藤昌益をテーマとした修士論文の作成途上での予期せざる副産物である。