「未来のパンセ」
国際情報専攻 橋本信彦 |
いま、日々進む情報技術の歩みの中で、輝くような未来が語られ期待されています。ブロードバンド・情報家電・IP電話・オンデマンドな映像サービス、飛び交う言葉の勢いは、疑問を投げかける余地さえ与えません。しかしそれら情報化社会という言葉で一くくりにされているIT革命の本質とはなんなのでしょう。
ネットワーク社会の進展を考え、書物・論文を読み、自己のテーマに沿った論文を書く。そんな作業を進める中で、私は何かが欠けているのではと感じ始めました。いったい何がかけているというのでしょう。そこで自分に問いかけてみました。しかしなかなか答えがみつかりません。というよりも上手く表現できない、といったほうが正解です。けれども、もやもや漠然とした思考の中で、唯一はっきりと示すことができる答えがありました。それは「意識と心」です。それらは確実に、鼓笛隊や進軍ラッパをバックに雄雄しく進撃する情報技術部隊には欠けています。
デジタルに数値化することが難しい「意識と心」は、やはり技術の進歩とは別のラインでその歩みを続けるのでしょうか。向かうところ敵なし、こんな表現が出来るくらい情報技術の進歩には目覚ましいものがあります。けれども「何を、どうつくれば人の生活が幸せになるのか、快適な生活だけが、ほんとうに幸せな生活のすべてなのだろうか」こんな疑問も湧き出ます。そのあたりに、進歩する情報技術文化の中で、取り残され抜け落ちてきているものがあるのではないでしょうか。欠けている何かが、そしてIT時代のもう一つの役割が、実はそこにあるように思えます。
アーノルドトインビー(歴史学者)は、いまから40年近くも前に、著書『現代が受けている挑戦』新潮社 P346の中で次のように指摘しています。
「技術の加速的進歩によって、私たちは社会の一つの新奇な状態に直面しつつある。約五千年前の文明の黎明期以来、文明の快適さを事実上独占していたのは少数の特権階級だったが、その人たちのみ可能だったことがすべての人にできるようになろうとしている。過去においては少数者のみのものだった豊富な金と余裕が、今や大衆のものとなろうとしている・・・・・このように私たちは、遅かれ早かれ世界中の誰もが金と余暇を持つことを期待できる。しかし全人類が金と余暇を持つとき、全人類がこれまで人類の大多数がまだ毎日のつらい仕事によって暮らしを立てなければならなかった間、少数の特権階級がそれらを享受したように享受することはできない。特権をすべての人に広げるということは、すべてのひとからそれを取り上げるのに等しい。」
欠けている何かの答えの一つが、この文章に隠されているといったら大袈裟でしょうか。ヨーロッパ、北米、一部アジアの先進国の状況は、まさにトインビーの予想と重なります。しかしながら時の歩みは、思想としての人間の意識的な退歩を許容しません。権力による意識的なその試みは、アジアにおいて多くの残酷な歴史を刻んでいます。
もう一つ別の角度から、情報技術の進展による快適さについて考えてみます。アマルティマ・セン(経済学者)はそのケイパビリティ概念で「人々の選択の拡大過程」の中で最も重要なものは、長寿で健康な生活を送ること、教育を受けること、そして人並みの生活水準を享受することであるとしています。では人並みの定義とはどのようなものでしょう。同じく「貧困で栄養不良になり、欠乏にさらされている人物は半ばからっぽになっている胃袋に折り合いをつけて、小さな満足にも喜びを見出し、現実的であると思われるもの以上は望まなくなってしまう」センのこの指摘は、自身の置かれている立場からのみの思考という点において、ネットワーク社会への期待で浮かれている私自身への警鐘でもありました。
「生活の質」や「よく生きること」を実現することは、単なる財の効用という尺度のみによってははかりがたいものであり、もっと哲学的・倫理的な概念を基礎に置かなければならないの言うまでもありません。では、近代における技術革新の、その流れの延長にある現代においては、ポストモダン文化ともいわれるネットワーク社会への移行に際して、どのような未来哲学が必要なのでしょう。ポストモダンそのものが哲学となりえるのだとの議論も多く見聞します。そこでは、ポストモダニズムの特徴そのものが、その現実社会における統一された規格・価値尺度への対抗、そしてそれらを基礎としたヒエラルキーへの反抗にあるからとします。既成の統一された音楽批評や、採算性の追求に媚びた文学、あるいは高級な文化と大衆的なそれ権威的に分ける等、多くの例示がその考えを肯定させます。ただし極端なポストモダニズムは限りなくアナーキーな社会に近づくことも事実でしょう。それらのことは、近い将来において、本当の意味での社会構造の変革が、ネットワーク社会によって経験されるときに、初めて体験理解できると考えます。
21世紀最初の年、わたしたちは今、情報テクノロジー革命を21世紀の指標として立ち上げようとしています。20世紀おける機械テクノロジーを活用して出来上がってきたシステムを、21世紀社会においても、それらは最大限に生かし活用されるべきです。しかし機械テクノロジーの上部で、それらシステムを管理調整する情報テクノロジーは、わたしたちの自然を、そして心を、さらに自由や倫理の問題を思考できません。
飛躍的に拡張した情報テクノロジーの、知と技術にふさわしい未来の哲学研究がいま必要なときです。そのことが、科学の活用から活用の科学への飛躍をなし遂げる基礎となります。情報テクノロジーを肯定しつつも、高度化し双方向化し、そして水道や電気のごとくネットワークが自然化し、その利益が人口に膾炙した暁には、IT革命の達成が、幸福というコンテンツを目指すものであることであることを、常にその基本に持つことが必要です。その意識をいかにして持つか、その方法はいかにあるべきか。
「もの」の時代がその中心的な生産型といわれる立場を終え、「ことば」情報型中心の時代に私たちは足を踏み入れました。現在を生きているわたしたちの未来への指標は過去から探すのではなく、歴史的なそれぞれ「文化・技術・生活」の系を検証したうえで創造しなくてはなりません。高度化し自然化するメディア(手段)の達成が、自由と責任という未来市民社会人の論理をわたしたちに突きつけていることを強く自覚し、情報と行為を実証的に生み出していく未来社会の行動哲学を考えるべきでしょう。
近代においても過去の文明からの決別の時期がありました。それらの歴史を紐解き、技術の積み重ねが現代の情報技術を成し遂げたがごとく、文明も、そして文化も、その歴史の上に成り立つことを前提としつつも、思考のベースを、既存の知識に邪魔されぬよう注意しながら未知の領域に歩みを進めなければなりません。しのびよる情報化社会での負の部分も含め、大胆に未来社会のライフ哲学を考えてみたいと思います。次号より5回程度で完結するよう論を進めます。
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