「「哲学すること」を学ぶ」





人間科学専攻
安彦美穂子

時の経つのは実に早い。入学してから、もう、一年が経とうとしている。この一年を振り返ってみると思い出は色々とあるが、何と言っても、私はレポート作成に追われたこと、これに尽きる。まったく苦しい思い出となった。しかし、苦しかったことは事実だが、提出し終わってしばらく経った今、ちょっと寂しいような妙な気持ちも出てきたりする。思えば、その苦しかった時が、一番楽しかった時であったのかも知れない。実際、取り組んだ課題からは多くのことを学び得た。与えられた問題に対しては、どこまでも主体的に考えさせられ、論じさせられた。このことは、自分自身を現時点でひとまず立ち止まらせ、今後の人生観を考えるきっかけともなった。まさに、「哲学すること」を学んだのだ。そう考えると、非常に価値ある一年であった。

さて、私はもう一つ別なものから、日々、多くを学んでいる。私の知性は決して優れてはいないが、知的好奇心だけは旺盛で、どうでもいいことでも考え、悩まずにはいられない性分だ。だから、余計な考えに行き詰まることも多い。そうなると、さらにもんもんと考えるか、スパッとやめて気分転換するか、方法は様々だ。が、中でも特に有効なのは、私の目の前にいる、生きた哲学者から直々に教えをこうむることである。その教えは、相当な難問奇問に対しても応用が利き、度々、問題解決の糸口が得られる。それは、我が家に同居する「哲学する猫」から学ぶ方法論だ。そのいくつかをぜひ、皆さんにご紹介したい。……と、その前にざっと彼の紹介をしよう。

 その猫の名前は“ルネコ・デカルト”(「彼」と呼ぼう)。そう、あの、「コギト・エルゴ・スム」の命題で有名な大哲学者と同じ、いや、ほぼ近い名前だ。しかし、彼が訴えるには、大哲学者デカルトは実は自分であった、と。時は13世紀。所は南仏。中世キリスト教世界において、彼はやはり黒猫として生きていた。ところが、不幸にも異端裁きの犠牲となり、あっけない最期を遂げた。しかし、断末魔は取り乱すところが微塵もなかった。彼の死は実に悲壮であり、当時ではかなり有名な出来事だったらしい。その後、どういうわけか、あの大哲学者デカルトとして生まれ変わった、という。これが本当の、「不確実なデカルト」である。そして、現在、はたまたどういうわけか、我が家のこんなところで、また猫として生きている。ずうずうしくも毎日のほとんどは、哲学書を枕にのんびりと寝ながら暮らしている。1997年2月4日生。密かに血統を辿ったところ、単なる雑種ではあるが半分スコットランドの血が流れていた。もしかすると二度目の死後、ストックホルムからエディンバラに移り住みヒュームに可愛がられたのかもしれない。そのせいか、やけに紳士的で、「自己支配」の徳の強い猫だ。知れば知るほど奇奇怪怪、奇妙なやつ。まあ、立ち入った素性は抜きにして、真っ黒い見事な毛並みと、物事の本質を鋭く洞察する藍色の目は、哲学的センスに優れた猫であること、まず間違いない。ちなみに、パスカル研究に身を投ずる私にとっては、彼は宿敵でありライバルだ。時々、激しい哲学議論を戦わせることもある。ほとんど私の方が相手にされないが……。

前置きはこれくらいにして、実際、彼からどんな教えをこうむっているのか。まずは、彼がある問題にぶち当たった時の徹底的な観察態度である。それは、満遍なく、しっかりと五感を使うやり方だ。もともと彼も好奇心の塊であって、何にでも興味をもち、執着するたちだから、物事をとことん、あきれるほどしつこく観察する。狙ったものをじっくり凝視し、常に先を見抜こうとする視覚。どんな音にも敏感に反応し、聞き取る聴覚。要は地獄耳だ。音楽にも酔い痴れる。最も重要な働きをする嗅覚と触覚。新しい物事に対しては、必ず納得の行くまで臭いを嗅ぎ、見極める。同時に、体全体に行き渡っている触覚を使うが、特にひげは物差しと探知機の重要な働きをする。あらゆる状況に対しても瞬時に計算し、判断する。手も忘れてはならない武器だ。注意深く念入りに触りまくること、しばし没頭。ついでになめてみたりして、味覚は相当敏感でうるさい。このような科学的認識は、哲学することにおいても断然、有効となる。つまり、単に観察によって経験を積むだけでなく、五感を養うことによって、それがやがて、第六感ともいえる能力が身についてくるからだ。彼で言えば予知能力であろうか、我々で言えば直観能力とでもいえようか。その能力は奇想天外を生み出す。

次は、方法というより、彼の存在自体に大きな哲学的意味がある。それは、「存在とは何か?」という哲学の究極的超難問に対する、一つの手がかりとなる。いつだったか、彼をじっと見ていた時。ある本の対談の中で、ハイデガーの直弟子であったGH・ガダマー氏が、自分の飼い猫に対して、「猫のダーザイン」である、と言っていたのを思い出した。「ダーザイン」(Dasein)。もちろんハイデガーの「現存在」を指す。確か、「現存在」は「人間存在」を意味するから、ガダマー氏の言葉は、それを「猫」に当てはめたユーモアなのかもしれない。しかし、その言葉の裏には深い意味がありそうだった。晩年のハイデガーは、もっと「ダーザイン」を問い糺したかったらしい。この際、細かな解釈は措いといて、とにかく、私はガダマー氏の一言を真剣に考えたくなる。「人間」であろうと、「猫」であろうと、「何」であろうと、「存在」が「存在」する。いや、「存在」の「存在」。……えっ、あっ、ちょっと私もよくわからないが、……つまり、我が家の彼は、「存在とは不思議なことだ」なんてこと、考えないで「そこに存在する(ある)」。ずばり一言、「存在」(Sein)と言ってもいい。彼にとっては自然の秩序や法則などというものは、不思議でも何でもない。だって、その不思議さの中に、彼の「存在」も含まれているのだから。時間概念無くして、時計無くして、カントのように時間は正確だし、美しい色のバラが咲こうが、塵が地球にぶつかって流星になろうが、自然界の事象はすべて当たり前の中で生きている。逆に、自然でない事物には警戒を示す。雷の音は平気でも、飛行機の音は大の苦手なように。そして、どうも機械物に虫が好かないらしい。この大学から貸与されている大事なパソコン。既に、彼の後ろ足で蹴っ飛ばされて、3本の爪跡がくっきりとついている。(ごめんなさーい!)ある時、私は意地悪く彼に、「生きる目的とは?」という問いを投げかけてみた。彼は一言、「生きることだ」と、禅僧のような答えを返してきて、私は思わず平伏してしまった。至って、単純、明快、率直な答え。彼にとって、生きる目的や意味など問う必要はまったくなく、ただ自然にしたがって生きるのみなのだ。そして、瞬間瞬間が「死の訓練」であり、死期を自ら予知し、その上、死をも恐れない「魔力」を備えている。彼の「存在」を目の当たりにしていると、まったく新しい存在論、あるいはこれまでに見たことも聞いたこともない、とんでもない哲学に出会った感覚さえ覚える。本当に彼は不思議な「存在」だ。

最後は、他者との関係のあり方だ。何と言っても、彼は平和主義者で、基本的には争い事が大嫌いである。他者に対して先入観を持たず、差別や偏見など一切ない。まずは、どんな人でも信じきる。そして、相手がどんな立場の人間であろうとも、皆同じように接してしまうため、無礼極まりないことも多いが、純粋そのものだ。行動に損得感情は含まれず、人間よりもはるかに欲がない。ただし、主義主張は至って明確。自由奔放。親密な関係にある私にでさえ、時々、よそよそしい態度を見せる。そんな時は、決して冷たく無関心になっているのではなく、極力、言葉を発せずとも、「ロゴス」をもって信頼関係を深めようとしているのだ。その証拠に、愛はたくさんもらっている。こんな彼は、まさに21世紀に相応しい真の哲学者の姿ではないだろうか!す、すごい!!たかが猫、されど猫、恐るべし。今も、興奮する私をよそめに、外を眺めながら「存在」している。私も彼のように生きられたら、どんなに善い人生を送れることか…。常に見倣って行きたい。恐らく、彼とは長い付き合いになるであろう、このハチャメチャコンビ。その行く末や如何に。

……と、まあ、こんなふうに私は彼からも「哲学すること」を学んでいる。何はともあれ、「哲学すること」は断然面白い。楽しい。何を寝ぼけた、幻想めいたことを語って、不謹慎な!とお咎めを受けそうである。確かに。これはあくまで私流。言い訳すれば、かの偉大な哲学者たちであってもそうだったのではないか。幻想に取り付かれた者たちよ。しかし、そこには信念があった。もし、彼らから幻想を奪っていたら、生きることも失ったと同然だったろう。それが、哲学者の辛い定めかもしれない。古代ギリシア以来、「On」の発生から何千年たった今日までも、問題の解決には至っていない。本当のことなんて、誰にもわからないことである。哲学とは、言うまでもなく、「知を愛すること」。「なぜだ?」と、問うた瞬間から、もうすでに哲学は始まっている。その問いの追究は、「生きること」と深く関わってくる。だから、うさんくさい幻想や夢想めいた理想がついてまわることは、どうにも仕方ない。その上、先が見えず、何が起こるかわからない。何の保証もない。不安だけが増すばかり。時として、身の危険を伴うこともある。挙句の果てには、「身の程を知れ!」と言わんばかりに、「無知」を突きつけられ、へこまされてしまう。それでもなおかつ、真理を求めて止まないのが人間の「知」。「知」の限りない探究である。だからこそ、「哲学すること」は面白い。そして、「知」は素晴らしい!人間は「考える葦」だからである。

最後の締め括りに、J-C・ブリスヴィル著『デカルトさんとパスカルくん―劇的対話』(竹田篤司・石井忠厚訳,工作舎,1989年,42頁)から、私の大好きな1コマを。


パスカル

見失わせてしまうのです、学問は。ぼくたちの弱さを。

弱さにこそ、人間の偉大さがあるというのに。
デカルト な、なにをアホくさ、パスカルくん…。
わたしにいわせれば、人間の偉大さとは、考える力を
<最高完璧に発揮すること。
えっ、これです…これしかありませんともさ。