「スポーツ指導のパラダイムシフト」





人間科学専攻
品田松寿

 私はジュニア卓球選手の一指導者である。最近興味深いことを知った。スポーツの指導者にあたるcoachはもともと馬車の意味で使われていたというのである。馬車の仕事は、お客を目的地まで連れていくことである。その後この言葉が、スポーツの指導者の意味に使われるようになった。指導者の仕事は、選手を行きたいところへ連れていくのが仕事だからである。しかし、現在の日本では、指導者の連れて行きたい所へ選手を無理やり連れていこうとする場合が多い。同じようなことが教育とeducation についてもいえる。educationの語源は「引き出す」であるが、教育の「教」は教え込むである。日本では、これらの西洋から受け入れた言葉を、本来その言葉のもつ意味とはほとんど正反対の意味で使っているのである。

 スポーツは時代の流れに影響を受けやすいという観点でみると面白い。今日ではゴール型のスポーツのサッカーが非常に人気がある。その理由は、サッカーは、瞬間瞬間の選手の状況判断、決断、実行力が要求されるスポーツであり、このような一連の思考・行動のプロセスは、まさに現代社会が人に求めているものでもあり、ますます重要になりつつあるからである。卓球も同様の能力が要求されるスポーツである。しかし、指導者が統制型になると、本来選手にとって必要なこのような大切な能力の芽が摘み取られてしまいがちである。というのは、選手が自分の力で考えなければいけないときに、指導者から指示を出されるということが普段から習慣づけられると、選手自身は最終的には自分で考えなくなってしまうからである。これでは自立できない選手になってしまうし、国際舞台で活躍できるはずもない。統制型の指導は結局選手を自立させないばかりか、指導者に依存せざるをえない体質をつくってしまう。選手を強化するための“熱心な”指導が、ときとしてそのスポーツに必要な能力の育成を阻んでしまうというのはなんと皮肉なことであろう。 

 自立が大切なのは、自立していなければ国際的な選手になれないだけではない。私の考えるその最も大切な理由は、自らが行動を起こすという内発的に動機付けられた行動がより楽しさや喜びを感じさせてくれるからである。選手の立場に立った発想が大切なのである。

 とかく、わが国では指導者は、伝統や名誉に縛られて、選手に勝たせることが第一目的となりがちである。指導者は「勝てるから楽しい」と教えるのである。しかし、「楽しいから勝てる」という発想にもっと価値が置かれるべきなのである。世の中全般に「成功」ということに価値が置かれ過ぎてしまい、子どもがどれだけある行動を楽しく感じているかという目に見えない部分には目もくれない人が多いように思える。私は、「成功」よりも、内発的動機づけの経験それ自体に価値があると信じている。ルソーは『エミール』の中で、「最も多く生きた人は、最も長生きした人ではなく、生を最も感じた人である」と述べている。子どもを指導するときにいかに「勝てるようになるか」よりも、いかに「楽しく感じる環境をつくるか」ということに焦点を合わせていけば、最終的には「勝てるようになる」と信じている。サッカーS級コーチの話しを聞く限りでは、日本サッカー協会では、このような考え方に基づいた取り組みを全国的な展開で行っているようである。私自身もこのような考え方で子ども達の指導にあたっているつもりである。楽しくなければ、創意・工夫も生まれないし、また、楽しいから自分から進んで練習に取り組めるのである。

最後に、この内的な経験の積み重ねが自立を生み出すのであり、佐々木先生の「社会哲学講義(ヘーゲル)」で述べられた通り、自立した個がつくる市民社会は、ふらついていない立派な国家をつくる土台になると信じている。私の一卓球指導者としてのcoachingは将来の日本の明るさを取り戻すほんのわずかながらの貢献をしていると自負している。