「サラリーマン34年生になろう」
人間科学専攻 藤岡信二 |
自宅の庭の東端に夏みかんの木がある。先々週に40個ばかり収穫し、お礼にと石灰、有機肥料をたっぷり与えておいた。この木は義弟の家から5年前に養子にきたものである。庭の手狭な家に転居したからである。
実のほとんどならない木への彼の愛着には訳があってのこと。小学校低学年の頃、夏みかんを食べ、年齢相応のマナーで“ぺッ”と種を吐き出したものが発芽し、少年は大切に移植して育てていたそうな。
日本史の教授をしている今の彼には手に負えず、昔から可愛がってもらっていた近所のとび職親方“春夫さん”に頼み、我が家へ再々移植を決断したとのことだった。それならば、と私も快諾し直径1.5m、深さ1mの穴を掘って、迎えることにした。 春夫さんは既に70歳を越していたそうだが、若いとび職と二人で我家に現れた。トゲで体中傷だらけになりながら、2トントラックから溢れ出る木を私を含め3人で、その日のうちに作業を終えた。傷だらけの男同士ニッコリした。
昨年、数個実がついたので、義弟に報せた。“ぜひ全部送って欲しい”、とのこと。これにも訳があった。春夫さんがその前年亡くなられたので、墓前に報告する、ということであった。
推定樹齢44才、幹の直径約20Cm、安住の地を得たお礼に、沢山の実をつけた夏みかんの木と、春夫さん−義弟の交流に何かを教わった。
サラリーマン生活での思いでは多いが、海外事業の初陣での男臭いことを。イラン王制末期、駐在員間で“近いうちに革命が”との噂話が絶えない’77年10月−12月に単身で赴任していた。テヘランの自動車輸入基地が現地の手で建設を終え、部品センター運営の指導の為であった。行ったときは、旧センターからの商品の移動が始まっていた。労働者達は、折角部品番号順に整理されていたものを、二階から手押し車単位でドサッと投げ出していた。
ただ一人英語が通じる現地マネジャーに、“あれでは、ダメージが出るし、再整理に膨大な時間が掛かる、至急私の言う通りにやって欲しい。”と申し入れた。字の読める労働者がマネジャー以外に2人しかいない、ということが判った。インポーターの息子に談判したが、字の読める労働者は少ない、と笑いながら否定した。ならばと、テヘラン大学生を毎日10人連れて来るよう申し入れ、これは有効であった。ペースは上がった、しかし約束の12/25には間に合わない。マネジャーを通さず直接指揮をとるしかない。マネジャーは、これ以上顔を潰さないでくれ、と懇願する。奥の手を提案した。“君を含め、10人選抜してくれ。腕相撲で誰かが私に勝てば、君の指揮を続ける。私が全員倒せば、私の言う通りに動いてくれ、どうだ”と。
全員倒したところ、こともあろうか、オーナーの息子が “イラン人の名折れ!勝負せよ!”と。 結果が出て翌朝からは、日本風に全面切り替え、ピッチが上がり現場の整理は完了。 完了した途端にがっちりとした見慣れぬ髭面の男が現れた。“インポーター権を売却した。明日からこの人がオーナーになる。”という息子からの説明。ビックリ。
懸案であったルーティンのフローも現地に合わせて作り、トレーニングも約束の12/25に終えることが出来た。関係者への挨拶もそこそこ、一才になった長女の待つ日本に早く帰りたく、翌日は空港に居た。
そこへ、いきなり新オーナーが現れ、“予想以上の成果であった。ありがとう。記念に持っていってくれ。”と手荷物規格外の螺鈿細工のボードをくれた。今もそれは自宅にある。
‘79に家族でフロリダに赴任して居た時だと思うが、パーレビ国王は国を追われ、イランは純回教国に戻っていった。新オーナーは、国王派資本家として銃殺に処せられた、とその後聞いた。
春夫さんの優しさ、夏みかんの木と、義弟の律儀さ、新オーナーと私自身の体を張っての執務へのこだわり、これらに共通した点は何であろうか。誠実さ、他人にも自分にも、ではなかろうか。中世のサラリーマンに武士道があるように、現代サラリーマンにも道があり、それは倫に通じていると考える。其れの下、私は今春34年目にチャレンジする。
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