「「本当の本の話」後日談 〜池田永治の話〜」
昨年のこと。電子マガジン第5号に美術小雑誌『マロニエ』の記事を投稿、掲載されてしばらくたったある日、1本の電話が入りました。電話をかけてきてくださったのは、画家池田永治(1889〜1950)のご遺族の方で、私の拙稿の中にお父様の書かれた詩のタイトルを見つけて関心をもたれたとのこと。お忙しい中、職場までご足労を願い、詩の掲載された頁のコピーを持ち帰っていただきました。ご自身でも詩を書かれているとおっしゃるその方に、少しでも喜んでいただけたことが、どれほど勉強の励みとなっていることでしょう。素敵な出来事に感謝しています。
ところで、池田永治はどのような画家なのか、ご遺族の方から頂戴した展覧会図録『池田永治の世界―花袋著書の装幀を軸に―』(1998年 田山花袋記念館第15回特別展、丸山幸子 文)の記載をもとに、その経歴を少したどってみたいと思います。
1889年京都で木版業の家に生まれた彼は3歳の頃大阪に移り、少年時代から画家を夢見ていたそうです。しかし彼の父親からは、家業を継ぐための絵の勉強をすすめられ、また知り合いの印刷会社への見習いにも行っていました。そのかたわら19歳(1907年)の時に「中学世界」へ応募したコマ絵が掲載されます。そしてこの頃の彼には、すでに東上の計画があったらしく、父親の死後1909年21歳の年に本格的な画業の道を目指して東京へ向かいます。
翌年の1910年、太平洋画会付属洋画研究所に入り、秋の第4回文部省美術展覧会へ出品、入選し褒状を受けます。1911年には太平洋画会会員に推薦され、晩年までその活躍は続き、同時に後進の指導にもあたっていたそうです。また、挿絵・装幀画家、漫画家、俳画家としても活躍した池田永治ですが、特に挿絵・装幀画家としての彼の活躍を見守った人に田山花袋の名が見られます。
漫画家としての作品の多くは、「アサヒグラフ」「読売新聞」、日曜附録「読売サンデー漫画」、第三次・四次「東京パック」*に掲載され、『現代漫画大観』(1928〜29年)や『漫画講座』(1933〜34年)の執筆も担当、大正期から昭和期における漫画全盛時代の一翼を担った人でもあるそうです。
そして俳画家としての彼が尊敬したのは、正岡子規と小川芋銭で、1915年27歳の時に芋銭らの推薦もあり日本画研究団体である「珊瑚会」の同人となっています。後の1931年7月頃からは「名俳句を漫画にすると」と題して子規などの俳句を漫画で解釈する俳漫画が連載(「読売サンデー漫画」)され、1941年には著書『新理念 俳画の技法』が出版されています。1950年に療養先の富山県で、多岐にわたる活躍を見せたその生涯をとじました。
*… 『東京パック』は1906年(明治39、北沢楽天主宰)に創刊。サイズをB4版(週刊誌の倍版)の大判にし、全頁カラー・全頁漫画入り。最高時月10万部というヒット雑誌になり、漫画家という職業が誕生した。(『近代日本漫画百選』清水勲・岩波文庫)。
ここにも近代日本における洋画家の活躍の一端、文学界・出版界との密接な繋がりをみることができるのはいうまでもありません。そして、漫画もまた、文学・洋画とともに近代において大きく花ひらいた文化の一つであったことをあらためて知ることができました。と同時に、その後の時流により廃刊や終刊、発禁などを繰り返す漫画の歴史もまた、近代日本を考える上で欠くことのできない一面をもっていることに気がつきました。
私は今、池田永治と同時代に活躍した洋画家、黒田重太郎(1887〜1970)に関して研究を進めていますが、その周辺の画家に関する情報は大変貴重なものであり、一般では入手し難いものも含まれます。二度の大戦と、その間の関東大震災のため紛失したものも多いせいでしょうか。戦争を知らない昭和生まれの私にとって近代は、近くて遠い時代、そんな時代なのでしょうか。
今回のように、貴重な情報と出会えることは先人達が残してくれた豊かな文化を再認識するチャンスとなり、今度は私達が次世代に語り継ぐことができることにほかなりません。この電子マガジンで、近代日本を代表する洋画家の一人、黒田重太郎についてお話させて頂ける日を楽しみに、これから、収集した資料とじっくり向き合っていくことにします。
文化情報専攻 戸村知子
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