「カントの人間観を考える」



人間科学
専攻
深津雅義


著者紹介:

1995年、小学校教員退職したその年に、群馬大学大学院教育研究科修士課程の学生として38年間の教育活動を反省総括する。その間に哲学への関心を抱く。修了後、ハイデガーの著書を読もうとするが、理解困難のため、断念。基礎から学ぶ必要を痛感し、カントを読むが、独学では一歩も進まないことを自覚し、2000年に本学に入学、佐々木研究室のゼミ生として、佐々木先生の指導のもとで、カントの道徳哲学哲学の勉強を続けている。

 「私は、信仰に対して場所を得ておくために知識を取り除かねばならなかった」(Ich muss also das Wissen aufheben, um zu Glauben Platz zu bekommen.『第一批判』BIII)と述べられているように、「思惟する主観の絶対的統一」としての「霊魂の不死」は

理論的に認識できず、「現象の制約の系列の絶対的統一」は「二律背反」を引き起こし、とりわけ自由については、その思惟可能性が認められたのみであり、「思惟一般のあらゆる対象の制約の絶対的統一」としての「神の存在」もまた理論的認識は及び得なかった。しかし、カントは、「霊魂の不死」「自由」「神の存在」の三つの理念は理論的には認識できないにしても実践的には認識が可能であるとして、純粋実践理性の「要請」Postulatをして三つの理念にその実在性を得させた。ではなぜ、それらの理念を要請したのであろうか。自由については、自由の認識根拠ratio congnoscendiとしての道徳法則の存在を確立させる意図を読み取ることはできる。しかし、「霊魂の不死」「神の存在」については、信仰の領域であるゆえに、要請したことの意図の真相が必ずしも見えるとは言えないであろう。

 カントの道徳法則の基本原則は、「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法として妥当し得るように行為せよ」という命法である。この命法には内容(=質料)が取り除かれていて形式(=形相)のみである。この命法は人間の感性的衝動の根源たる「幸福」という質料の獲得への欲望を毅然と拒絶して、命法に基づいてのみ自己の意志を規定し、その意志を行為に移すことであるが故に、この命法を行うことは極めて困難であると言わざるを得ない。カントは、果たして有限な理性的存在者としての人間には、この命法を継続的、一貫的に行っていけるだろうかと、不安を抱いたに相違ない。彼は人間の脆弱さを十分に認識していたに違いない。道徳法則を最上善へと導くためには、来世でも継続的に道徳行為を行える条件整備の必要であるという認識に従って、霊魂の不死を要請した。しかし、それでも彼は人間の弱さを感じとるとき、不安が残ったに相違ない。カントは、「最上善」に到達した者に幸福を与え、「最高善」を得させることを保証する無制約的絶対者としての神が絶対不可欠であるという結論を下し、神の存在を要請したのである。すなわち、カントは、来世における「霊魂の不死」と「神の存在」という「信仰」の場所が与えられていない限り、人間には継続的、一貫的に道徳行為はできないという認識をもっていたと思う。カントは、感性的存在者であると共に理性的存在者という二重の制約によって成り立つ人間の道徳行為に大きな不安を抱いていた故に、「信仰の場所」を与えたのだと考える。