「子どもたちの未来」



人間科学
専攻
川原律子


著者紹介:

都内某心療内科にて臨床心理の仕事をしています。一人娘に「趣味は何?」と聞かれ、一念発起、スクーバダイビングのライセンスをとりました。異なる次元を漂うようで、これまでの自分が通用しない不思議な世界は、とても魅力的です。でも、次ぎに潜りに行かれるのは、きっと修論が無事終了してからですね…。

 子どもは全ての宝です。親にとってだけでなく、家族・地域社会・各々の国・世界にとっても、地球規模の宝です。そんな子どもの数が年々減少しています。原因は多々あるのでしょうが、この世に生まれた子ども達には、少しでも「幸せ」になって欲しいと思います。そして、多くの大人がそう望んでいると信じたいこのごろです。    

ところで、この「幸せ」の中身について考えなくてはなりません。何をもって「幸せ」とするのか。また、実は誰にとっての「幸せ」なのか。

幼児教育者のマリア・モンテッソーリ(18701952)は、子ども自身の力を発見し、子どもが自分で自分を教育していくのを助ける方法を考案しました。教育とは、先生が与えるものではなく、人間ひとりひとりが自発的に展開させる自然な過程であること、従って、教育とは、生命に対する援助であることを強調しました。親が子どもの「幸せ」を考えるとき、親が生きてきた環境と方法を土台に、これからその子どもが生きていくであろう世の中の状況を予測して、少しでも早期に良い教育を受け、優秀な成績を残し、やがて立派な会社にと夢を託すのだと思います。しかし、マリア・モンテッソーリは、子どもが自然から与えられたその独特の生命力と、その生命力を使って成し遂げねばならないこと、すなわち「自然から課せられている宿題」があるといいます。これは、人間として生きていく上で、とても大切な事柄を含みます。「自然から課せられている宿題」について説明をさせて頂きたいところですが、字数に限りがありますので、興味のある方は、モンテッソーリの幼児教育についての文献をご覧頂ければと思います。ここでは、子どもの周りにいる大人が、子どもが自分で体を使い、心を働かせて何かをしようとすることを邪魔する代表的なケースを、日本のモンテッソーリ幼児教育者である相良敦子の文献から引用させて頂きます。

 

1 大人がせきたてる:子どもが自分で「こうしたい」と思っていて、子どものゆったりしたテンポでやりかかっている時に、大人が「速く、速く」とせかせます。すると子どもは、自分の意志もリズムも見失って、どうして良いか分からなくなって投げ出し、無秩序、乱雑、わめくなどの状態になります。

 

2 大人が先取りする:子どもが自分で「やろう」と動き出す前に、大人が先取りして、やってしまうことがあります。それが重なると、もう子どもは自分から「やりたい」とも「やろう」とも思わなくなり、ただ大人がしてくれるのを待つようになります。

 

3 大人が中断させる:子どもは、やりだしたら面白くなって、自分のペースでぐんぐんやり続けます。そこで、大人の予定や考えで中断させたり、他のものを押し付けると、子どもの中に、「どうせまたやめさせられるから」「また取りあげられるから」などの予測から、自分の意志でとことん関わる心の姿勢を失います。

 

4 大人が肩代わりする:子どもが手を使って、切ってみたい、破ってみたい、包んでみたいなどと思っても、「危ない」「破っちゃだめ」「あなたがしたら、ぐちゃぐちゃになるから」「後でしておいてあげる」などといって、手を使う機会や材料を大人が奪ってしまう。代わりに高価なおもちゃを与えても、それは子どもの手を使うべき時期の本当の興味と一致しないので、投げ出してします。大切な成長の機会を奪われつづけた子どもは、思い通りに体を動かせない不精、不器用、あるいは衝動的な人になってしまいます。

 

5 ほったらかす:逆に、「なんでもしていいよ」とほったらかされて、「どうすれば出来るのか」については何も教えられない場合、子どもは大変不安定な状態になります。無目的な子どもになり、心に焦点がなくなります。

 

 気が付かずに大人の都合で成される、日常に起りがちな場面ですが、このように子どもの周りの環境や大人の介入の仕方が悪いと、子どもの精神的エネルギーと肉体的エネルギーがばらばらになり、そこにいわゆるはみ出し(逸脱状態)の困った現象がいろいろなタイプとなって出てくるといわれます。大人と子どもは違うものであると認識し、子どもが自分の仕事を自分で実行できるように援助するのが、大人の役割なのだと思います。

昨今の胸が詰まるような出来事に触れるたび、不幸な子どもたちの気持ちを思うと、居たたまれません。生きるために生まれてきた子どもたちです。それは大前提であって、どのように生きるかを、子どもたちが見つけ出す傍らに居たいと思います。

そして、どの子どもも、自分の向かう未来にきっと「幸せ」があることを信じられる、そんな世の中であって欲しいと思います。