美術小雑誌『MARRONNIER(マロニエ)』
大正14年6月創刊号第1巻第1号(大正14年5月発行)
〜大正15年5月号第2巻第5号(大正15年5月発行)
タブロイド版(タテ35.5cm×ヨコ26.5cm)
上質コットン紙8頁
編集:中川紀元、鍋井克之、小出楢重、横井禮市
出版:マロニエ社
定価:第1巻 35銭、第2巻 40銭
現在書店で並ぶ美術雑誌の数は、どれほどになる
のでしょうか。いずれにしても週刊誌、月刊誌と賑
わっていますが、今回ご紹介させて頂くのは現在は
ほとんど手に入らないものなのです。
「だったら何故、紹介するのか」ですって?
それは、ぜひとも近い将来に復刻版が出版される
ことを切に願うからに他なりません。
大正14年に発行された同人誌である美術小雑誌[i]『マロニエMARRONNIER』の主な執筆
者は、二科会を始め、およそ16の美術団体[ii]に所属している60人近くからなる画家や評
論家です。詳細は別に掲載した目次一覧の通りですが、毎号の表紙を飾る挿絵は4人の編
集者に加え、林重義、萬鉄五郎を含め当時の画壇で活躍していた9人が担当しています。
また、本文中のヨーロッパ画壇の紹介や、紀行文、詩、随筆、原色刷挿絵などからは、
生き生きとした当時の彼らの交流が波動となり伝わってきます。
装丁・内容とも画家として納得のいくものを目指した点に、当時の各美術団体の枠を越
えた、彼らの日本洋画界に対する心意気を感じないではいられません。それはおそらく、
執筆者の3割以上の人が当時の信濃橋洋画研究所、太平洋画会研究所等で美術教育に携わ
っていた[iii]ことも少なからず影響しているといえるでしょう。
ヨーロッパへ渡るのに船で40日近くかけていた時代です。今のように印刷技術も発達
していない頃です。その時代、かつて編集者を含め執筆者達がパリを訪れた時に目にした
であろう現地の美術雑誌(殊に“MONTPARNASSE”[iv]からの影響が大きく見受けられます)を参考
にして『マロニエ』が発行された[v]ことを思うと、これは彼らの記念碑的な意味も含めて
編集されたのではないかとさえ思われます。
1年間という短い発行期間ですが、これは採算が合わなかったこと以上に、編集者が芸
術家であったがゆえにマンネリ化を回避した結果であることは鍋井克之の後の記述[vi]から
もうかがい知ることができます。『マロニエ』廃刊から4年後に再び鍋井克之を中心にし
て1年間、美術雑誌『セレクト』が発行されていますが、これもあわせて復刻されれば、
大正末から昭和初期にかけての日本洋画史資料として脚光を浴びることになるでしょう。
今後の朗報を心待ちにしているのは私一人ではないと思います。
尚、『マロニエ』に関しては『日本の近代美術と文学』(匠秀夫著、沖積社、1987年)に収
録されている「雑誌「マロニエ」のことなど」(初出:「絵」1951年6月)でも紹介されて
います。また、『セレクト』もマイクロフィルム化されて、両誌とも閲覧可能であることを
書き添えておきます。 (文化情報専攻 戸村知子)
[i] 当時発行されていたその他の主な美術雑誌
アトリエ(1円) 中央美術(1円) みづゑ(80銭) 藝天(25銭) 美術春秋(45銭)
書画骨董雑誌(35銭) 美術時報(35銭) 美の國(60銭) 日佛藝術(50銭)
画壇(50銭) 國華(5円) 大東美術(3円50銭) 純正美術(30銭) 芸術(50銭)
[ii] 執筆者達が所属した主な美術団体
帝国美術院(長原孝太郎、牧野虎雄、藤田継治、南薫造、柚木久太)
二科会(石井柏亭、小出楢重、国枝金三、黒田重太郎、正宗得三郎、鍋井克之、中川紀元、ロート、
坂本繁二郎、津田青楓、山下新太郎、安井曾太郎、横井禮市、湯浅一郎)
春陽会(足立源一郎、山崎省三、木村荘八、中川一政、萬鉄五郎、木下孝則)
国民美術協会(石井柏亭)
太平洋画会(石井柏亭、柚木久太、松村巽、鶴田吾郎、奥瀬英三)
光風会(遠山五郎、大野隆徳、小寺健吉、赤城泰舒、南薫造)
日本水彩画会(赤城泰舒、石井柏亭、古賀春江、南薫造、富田温一郎)
槐樹社(奥瀬英三、牧野虎雄、斎藤興里)
珊瑚会(鶴田吾郎)
白日会(富田温一郎、小寺健吉、柚木久太)
圓鳥会(木下孝則、木下義謙、前田寛治)
日本創作版画協会(永瀬義郎、平塚運一)
中央美術会(田口省吾、古賀春江、木下義謙、林重義、前田寛治)
1930年協会(里見勝蔵、前田寛治、木下孝則、古賀春江、林重義、木下義謙)
柘榴社(曾宮一念、寺内萬次郎)
関西美術会(黒田重太郎、里見勝蔵)
[iii] 執筆者が後進の指導に携わっている主な学校・研究所
大阪美術学校(当事者:斎藤興里)
日本美術学校(職員:鶴田吾郎、遠山五郎)
太平洋画会研究所(教授:石井柏亭、松村巽、柚木久太)
文化学院美術科(教授:石井柏亭、有島生馬、山下新太郎、正宗得三郎、赤城泰舒、中川紀元)
信濃橋洋画研究所(実技指導者:鍋井克之、黒田重太郎、小出楢重、国枝金三)
*@〜B 『日本美術年鑑 昭和2年(1927年)』朝日新聞社編 大正15年12月発刊 より
[iv] 「パリのカフェと画家たち」展(大阪展:2000年2月2日〜20日、大丸ミュージアム梅田)
にて、藤田嗣治表紙絵の“MONTPARNASSE”(1922年6月1日)が展示されていた。
その表紙のレイアウト、文字のデザインなどが「MARRONNIER」と酷似している。
黒田重太郎の静物画(「卓上」第10回全関西洋画展、1935年)に“MONT”という、この雑誌の文字を模
したモチーフが描かれていることから、彼が初めて仏蘭西に滞在した1917年以降、一時宿屋を同じにし
たこともある藤田嗣治との交流が続いていたことを思うと、2度目の滞欧中となる1922年6月発行の“MONTPARNASSE”を日本に持ち帰ったことは容易に推測できる。
また、黒田自らではなくとも、おそらく、当時仏蘭西に渡っていた日本画家の多くは、この雑誌を手にし
たことと思われるので、誰かが持ち帰っていた可能性は高いであろう。
[v] 「マロニエ」第1巻第1号 編集後記より
「雑誌としての大体の感じは、頁数その他版の入れ具合など、巴里で数種発行されて居る美術家自身編
集の絵画雑誌にその範を取ったものである。巴里でのこの種のものは原色版が無く、大型の素描に力を入
れて居るようであるが、本誌はなるべく毎号原色版を入れることにした。これは田中松太郎氏独特の熱心
な製版で今度なども4色版として大変うまく行って居るのである。」
[vi] 「マロニエ」第2巻第5号 編集後記より
「マロニエも本号で満1年となった。御蔭で月々発行部数も増して今日では丁度創刊号の倍数になった。
然し最早体裁や編集共に一つの形にはまって来て少し飽かれた感があるので、次号より全く別の形式によ
って発行したいと思っている。それで発行日や定価等も只今では何もまだ決定していないので前金で申し
込まれて居る方には本月中郵便で御通知する事にしたから不悪御承知を乞う。」
「セレクト」第1巻第1号 「セレクト」発刊について(鍋井克之)より
「大正15年に『マロニエ』を廃刊してから、あんな絵画雑誌があればいいのにと云う人が時にあった。
『マロニエ』は中川紀元、小出楢重、横井禮一の三君と私とが編集に名を出していた。経済的にはもちろ
ん失敗で、飯島貫一氏、久世勇三氏その他二三の篤志家に御厄介になったが、ああした雑誌は丁度合本に
して美しい程度に達したら、後は同一の編集を繰り返すより一たん打切った方がいいし、それで『マロニ
エ』の使命も果したことになっていると云う考えが初めからあったのであった。
近頃また前の『マロニエ』のような雑誌を出してもいいと思っていたところへ『現代素描選集』を刊行
された矢野松太郎氏がそれではやってみてはどうかとすすめられたので、愈々『セレクト』として発刊す
ることになった。併しこれも今同様に物質的に損をして関係者はただ働きと云う訳になるのであるが、そ
れでもいい美しい雑誌が出来れば文句は云はないことにしてある。読者がふえれば益々内容はふやして行
ける勘定であるから、どうか後援のつもりでなるべく年極め読者に加入して貰いたい。編集は私が引受け
ることになっているが、いづれ前の『マロニエ』の時の如く私の知己の人々には編集者と同様のような御
迷惑をかけることになるので何分よろしくお願いしておく。これも合本に出来るまでの量に達するのが楽
しみの訳で、一通りの編集の予定が済めばあとはだらだらとせずに又打切るつもりであるが、それまでは
幾ら損をしても中止するようなことはない。特別な美術雑誌の為め普通の書店には取次いでいないからな
るべく発行所か発売所へ直接申込んで貰う方が便利である。」
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