江戸時代の外来思想である儒教思想の受け止め方

 

        は じ め に

 

中国において儒教を国教化したのは前漢の武帝だと言われているのは、武帝が公羊学者である董仲舒を重用したからである。しかし武帝の政治は、「内法外需」にあり、実際は第十代皇帝であった元帝の時代からである。この元帝が皇太子のとき、父宣帝にむかって儒生を登用すべきであると具申した。これに対して、宣帝が漢王朝を乱す者は、皇太子であろう、と嘆いたと言われるその人である。

この儒教が日本に伝来し、江戸時代の思想界、とりわけ儒学思想界において、新儒教と言われた朱子学の果たした影響は大きい。日本に朱子学が入ってきたのは、千二百年頃といわれている。この年は丁度朱熹の歿年頃であった。従って日本への伝来が、遅かったとは決して言えないであろう。その後、京都五山の禅僧が兼学して鎌倉・室町時代へと伝えられてきたし、朝廷の中でも学者の秘伝として伝えられていた。しかし朱子学が本格的に受容され普及していったのは、藤原惺窩が臨済禅から取り出した朱子学を弟子である林羅山が、江戸初期に、清原家の秘伝の禁を破って朱熹の著書である『四書集注』(『大学』・『中庸』・『論語』・『孟子』の注解)により公開講義を行ったことに始まる。

 

第一節              朱子学の特徴

 

林羅山は、海外から新たに輸入された儒教関係の書物の中から自覚的に朱子学を選択してそれを主座に据えたのである。先に述べた如く朱子学は、江戸時代以前から一部で受容されていた。しかしそれは所詮臨済禅の中に潜り込んだり、秘伝の世界に深く埋もれていたので一般思想界が朱子学を共有財産として自由に研究していたものではない。従って江戸初期の朱子学は、舶来の新思潮であったと理解することができ、中国の朱子学とは、出発点において実質的に約四百年の開きがあることを意味する。

 朱熹の唱えた朱子学の重点は、形而上学である理気説にある。この理気説は、この宇宙は、理と気の二つから成るとし、理は気の本源であるとする。そして理が動いて気に働きかけたときに陽気が生じ、理が静まったとき陰気が生じ、この二気の変化こそが万物を創っているという。理と気は万物の中にあり、そして分かれて存在しているということになる。理は、物ではなく無状無形であり、それ故に万物の本源となり得るものと考えられている。これが「無極」とも「太極」とも呼ばれるものである。そして人間の本性もまたこの理気の二つから成る。何故ならば理は、人間が生をうける以前から、宇宙に普遍的に存在しているものであり、気は生をうけると同時に人間に付与されるものである。そこで理は、「本然の性」・「天地の性」と呼ばれる。これは本質的に善なるものであり、その内には、孟子の仁・義・礼・智が具備されている。気は清明なる気と混濁した気との別がある。理に混濁した気が付与されると、そこに人欲が生じ理の働きが妨げられる。これが常人の状態である。これに反して人に清明な気が付与されれば性は善となり、聖人の場合がこれである。この理気説は周濂渓以来、継承発展されてきた宋学の理論を朱熹が大成したものであるが、この思想は突然現れたのではない。万物の本源に理を設定し、あらゆる働きをするものとしたのは、仏教の「理事の説」から出ており、太極や無極という考え方は、道家の思想の中にある。朱子学の特徴は、精緻な哲学であり、完成度が高く、倫理学の面から見ても、聖人も常人も「本然の性」を持ち、常人も気の変化によって聖人に成れるのだという人間平等論に立っており、優れたものである。

 

第二節              『大学』について

 

先に林羅山が『四書集注』により講義をしたと述べた。この四書のうち実践道徳を説くに当たって、特に『大学』が重視された。『大学』は『中庸』と共に『礼記』の中の一篇であり、薪を背負った二宮金次郎の石像が読んでいた本が『大学』である。原文はわずか壱千七百五拾参字である。

 ここで『大学』経一章を挙げておこう。

 大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善。

(大学の道は明徳を明らかするに在り、民を親たにするに在り、至善に止まるに在り。)

知止而后有定、定而后能静、静而后能安、安而后能慮、慮而后能得。

(止まるを知って后定まる有り、定まって后能く静かに、静かにして后能く安く、安くして后能く慮り、慮りて后能く得。)

物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣。

(物に本末あり、事に終始あり。先後する所を知れば則ち道に近し。)

古之欲明明徳於天下者、先治其国。欲治其国者、先斉其家。欲斉其家者、先修其身。欲修其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意。欲誠其意者、先致其知。致知在格物。

(古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先その家を斉う。その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、先その知を致す。知を致すは物に格るに在り。)

物格而后知至。知至而后意誠。意誠而后心正。心正而后身修。身修而后家斉。家斉而后国治。国治而后天下平。

(物格って后知至る。知至って后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身修まる。身修まって后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まって后天下平らかなり。)

自天子以至於庶人、壱是皆以修身為本。其本乱而末治者否矣。其所厚者薄而其所薄者厚、未之有也。

(天子よりもって庶人に至るまで、壱是に皆修身をもって本と為す。その本乱れて末治まる者は否ず。その厚うする所の者薄うしてその薄うする所の者厚きは、未だこれ有らざるなり。)

このように『大学』には三綱領八条目というのが書かれている。三綱目とは、明徳・親(新)民・止至善である。八条目とは格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下である。これを「修己治人」からアプローチすると修己は、学問・徳行であり、学問は、格物・致知であり、徳行は、誠意・正心・修身となる。治人は、功業であり、斉家・治国・平天下となる。

 江戸時代の日本において、朱子学は儒学の基本となったが、勿論朱子学一本で固まっていたわけではない。陽明学があり、日本固有の古学派があった。中国においても、発足当時から順調な道をたどったわけではない。朱熹が生きた時代は南宋が女真族の建てた金の圧迫によって、屈辱的な講和を強いられていた頃であった。彼は十九歳で進士に合格してから、しばしば上書して大いに活躍し時事を論じたが、あまり採用された形跡はない。それでも地方官を歴任し最後寧宗の侍講までになった。朱子の晩年慶元二年(1196)各派と朱子学派とが対立して「偽学の禁」に会い、朱子は侍講を罷免され、党首として大いに迫害を加えられた。しかしながら朱子が歿して後、嘉定四年(1211)この禁は解かれる。元に入ると、朱子学は、次第に隆盛になり、元末(仁宗の時代)には科挙の科目にも採用され、明代初期には官学と定められて盛行の気運が生じて儒教の主流になった。

 

第三節              格物致知の解釈と楕円運動の思想構造

 

主流となると当然批判が強くなる。明時代の陽明学と清時代の考証学が批判者の代表である。『大学』の解釈で朱子と陽明の相違を述べておく。

『大学』では、八条目のうち、誠意以下については、詳細な説明があるけれども、「格物致知」の解釈はない。従って諸家は苦心した。

 朱子は、@大学の始教は、格物致知にありとし、A物とは天下の事物の理、B格とは窮格であり、C知とは人心固有の先天的知識よりも後天的知識だという。これに対して陽明は、@大学の始教は、誠意にあるとし、A物とは意のあるところであり、B格とはこれを正すこと、C知とは先天的良知であるとする。

 ところで中国の思想界において正統的地位を獲得するためには、修己と治人を兼備する必要がある。二つの焦点をもつ楕円運動をする思想構造がそれである。@修己の中核は、人間の本性を完全なものと理解する人間観にある。孟子の性善説に立った考え方であり、これを前面に出したのが朱子学である。これに対して陽明学は、無善無悪説を主張するが、これは性善説と矛盾するものではない。この無善無悪説は、人間は本来完全である、と言う思考を基幹にすえた人間論で、人間が如何に背理の可能性に満ちていても、それは本来の姿ではないから自分の力で回復可能であるとする「自力による自己救済」を意味する。朱子学も陽明学も性善説に立つ正統思想である。A治人とは、その思想体系が政治的有効性を持つことである。具体的には斉家・治国・平天下のために役立つということである。

 朱子学は、この正統思想の条件を最も良く備えており、壮大な規模の元に綿密に楕円形の体系を構築し得たことが、元・明・清初と陽の当たる道を歩かしめた。           

日本においても朱子学の学問体系を全面的に否定した思想家は古学派以外には存在せず、如何に朱子学を自己の陣営に取り込むかに腐心したのが実情である。この古学派と云われる人々も全員始めは朱子学から儒学にアプローチしているのである。

 

第四節              着せ替え人形

 

ところで「日本文化着せ替え人形論」というものがある。日本は、儒教が入ってくると儒教で装い、仏教が入ってくると仏教で装い、ヨーロッパの文化、アメリカの文化と衣替えをすると言う説である。良いと思うと急速に受容し、一斉に従来の古いものを脱ぎ捨てて新しいものに着替えるというものである。こういう変わり身の早さを言っているのがこの「人形論」である。「人形論」を考察する場合に、衣替える客体である文化を問題にする場合と、その人形そのもの、即ち主体を問題とする二つの方法があるであろう。人形に着せる衣装である儒教は前述したので、ここでは人形自体を考えて見る。この人形は、外観からは衣装しか見えないけれども、少なくとも衣替えしようと言う主体的意志を持つ者である。換言すると、アイデンティティをもっている主体的な人間の集合体だということにある。この人形は日本列島に住んでいるが、その日本列島は地理的条件からどんなものが入ってきてもそれを許容し、迎え入れ、それを溜めて置く大きな貯水池のような役目をしているように見える。島国の方が、直接文化と文化が接する大陸よりも消化するか、吐き捨てるかを考慮する時間があるので、この点有利であり、アイデンティティの危機に脅えかされる度合いが少ない。日本の思想史においては、西洋と出会うまで、学習や好奇心の対象としては専ら中国大陸だけしかなく、大陸的文化を絶対化するか、それに少し距離を置いて立つしか対処の方法がなかった。入ってくる文化は防ぐ方法がないから仕方がないとして、それを如何に取捨選択するかは、島国に住む人形の方に主導権があったのである。

 

第五節              日本人のアイデンティティ

 

そもそも思想は、各民族の歴史的所産であって、その思想史はその民族の生活を通じて創造されていくものである。江戸時代の儒学者達は、渡来した儒教を最上の道であると信じ、自分がこれを世に伝えることを自己の使命だと考えていた人達である。彼等が伝えたかったものは、「聖人の教え」であり、優れた「道」であって、客観的な学問・知識ではなく思想なのである。従って江戸時代の儒教は、日本人の儒学者達が受容し変容させた思想であり、中国の儒教思想として捉えると大きな間違いを起こす可能性がある。

(例えば中国には、朱子学という言葉は存在するが、陽明学という言葉はない。これは、日本人の発明である。)

日本人は、漢字・漢文を通じて中国の言語に親しんできた、と考えているのでこれについても考察しておく必要がある。現在でも中国語と日本語では根本的な違いがあることを知らない人が多い。当たり前のことであるが、中国の人々は、中国語で考え、中国語を話し、且つ書き残している。この中国語は孤立語であり、西欧の屈折語とも異なるし、膠着語といわれる日本語とも異なっている。中国語には、時の観念も数の観念もなく、能動と受動の区別もなく、仮定形、命令形もない。語と語の文法的関連はその語の置かれた位置によって定まる。従って文法がない言語と言ってもよい。これ故に中国語は、過去の文章を多く読めば読むほど文章がうまくなる。文法がないので多民族の多言語による自由使用を許す性格を持っているのである。

日本人は日本語として漢字・漢文を読み、内容的に中国の儒教を中心とした古典思想や古典文学、果ては、仏教、律令に至るまで自分自身で理解し、解決する能力を持っていた。中国人からみたら、滅茶苦茶な読み方ということになるであろう「訓読み」は、漢文を中国語として認めないところから出発しているので(唯一の例外は、荻生徂徠)、これも日本人のアイデンティティの問題である。聖徳太子の「十七条の憲法」の言う「一曰、以和為貴、無忓為宗。云々」には漢語は一つも入っていない。全部ヤマト言葉で読める。要するに日本人にとっては、中国語は言語ではなく、あくまでも二次的に漢字で書かれた文章として利用すべき対象でしかなく、意味が理解できればそれでよかったのである。日本人が中国語を自分の言語として使用するなら格別、そうでないとするならば高度な文化である儒教や仏教や律令を取り入れることを放棄するかどうかという絶対絶命の窮地に陥ったとき、人形が主体的に「訓読み」という中国語の解読法(返り点、一、二、三、上、中、下)を発明したのである。

お隣の朝鮮半島でも吏読(イドウ)という「訓読み」に近い方法を試みたが成功しなかった。ベトナムも字喃(チュノム)を開発したがこれも成功しなかった。ハングル語は、日本の仮名の使用法にほぼ等しい。大戦後は漢字漢文表記を止めてしまい全部ハングル語である。

 

       お わ り に

 

日本人である儒者が、江戸時代長崎を通じて入ってくる漢文の書物を、中国思想を理解する道具として考え、そこから聖人の教えを汲み取り、知識としてではなく、自分の思想として受容しようとすると文化と文化との摩擦、その延長上には、民族のアイデンティティの問題にまで発展すると認識しておく必要がある。

中国と大きく異なる制度・思想を列挙してみると、@天皇と幕府との関係を中国の天子との比較において、どのように位置付けるか。A科挙のない日本と、科挙により選ばれた官僚、しかもこれが儒教で武装している中国との相違。身分制度のある日本と、建て前としては、それが無い中国。B中国の中華思想(華夷思想)に対する日本人の抵抗感。C武士国家である日本と、文人国家であり・学者国家である中国。D家連合家職国家である日本と、民は統治される対象のみである中国。民衆に忠を求める国とその観念の無い国。E同姓婚と異姓養子の禁止の社会的規制がある中国とそれが無い日本。F中国は統治者としての儒教であり、日本は被統治者の儒教であること。中国では建て前としては、儒教は誰でも学べるものであるが、現実は、為政者側のものであり、日本では、寺子屋において庶民でも学べたこと、また昌平坂学問所でも袴さえ着ければ誰でも講義が聴けたこと。

我々は思考する動物であり、長い歴史の中で生活していることを前提にすれば他国の文化・思想を受容し自分のものとしようとするならば、如何に時間と大変な努力が必要であり、どうしても変容させなければ、自己喪失という現象がでてくることが理解出来る。これは何も儒教文化の受容だけの問題ではなく文化の受容全てに言えることであろう。

参考文献

「江戸の思想」編集委員会 代表子安宣邦『江戸の思想』12345678910巻 ぺりかん社

尾藤正英 『日本文化の歴史』 岩波新書

宇野哲人 『大学』      講談社学術文庫

             

平成十三年三月人間科学専攻修了生  相見 昌吾