おばさん学生奮闘記



平成12年度修了生・人間科学
 
島田洋子


著者紹介:

都内の病院で技師として勤務。
生活信条;ひっそりと咲きしっかりと根をおろす道端の野花のようでありたいと思う。
好きなひととき;日当たりのいい縁側でぼーとしていること。


 大学院を受験しようと決めた日、近所の写真屋で撮影を頼んだ。

できあがり写真のさまざまな見本がケースに並んでいた。

「どれになさいますか?」

「若く写るのはどれですか?」

「白黒ですね。」

あまりの素っ気ない即答に、ちょっと、むっとしたが、

「それでお願いします。」

 入学願書を書くなんて久しぶりなので、今までの経歴の年度を指折り数えた。

…大丈夫かなあ。写真も撮ってしまったことだし、まっ、やってみるか…

 

合格通知がきた

「ほらほら、見てごらん。これが合格通知だよーん。」

家族の目の前に合格通知をちらつかせて、私の心はうきうきしていた。

私は入学後の学業の苦労を想像すらしていなく、何とかなると思っていた。また、家族も妻であり母でもある私が、この後、家庭に及ぼす影響を想像していなかった。

 

所沢での入学説明会

 社会人学生と自認していたが、さすがに学生達の年齢層は高い。各ゼミに分かれ、指導教授とゼミ生に対面した。自己紹介をということになり、皆の顔を見わたすと、個性派ぞろいとお見受けした。戦後抑留生活を送った方、戦争により学業を中断された方、ご主人をなくされた方、作家、美術学芸員、バイリンガルの方、社会福祉士、綺麗なお嬢さん、私は医療従事者。同ゼミ生の学業に対する熱い思いに、私は襟を正した。パソコン研修でメールのやり取りを教えていただいても、初対面したばかりの人達にメールを送るには抵抗があり、そのまま時は過ぎていった。

 

 必修科目のスクーリング、夏の軽井沢でのゼミ合宿で一気に親睦が増し、年齢を忘れて学生気分に浸れた。スクーリングの帰路が同じになった他のゼミ生との会話は、不安や授業の疲れを共有でき、楽しい会話の時間となった。しかし、軽井沢ゼミ合宿での授業は私には難しく、外出する間もなく遊び心の出番はなかった。アウトレット、プリンスホテルのケーキ、軽井沢銀座、信州蕎麦には縁なく、旅行雑誌、日焼け止めクリーム、帽子は使わずじまいだった。但し、施設の温泉はよかった。

 女湯にひとり浸かっていると、若い声が聞こえる。通常の大学生達であった。

「私、ここにお肉がついてるの。」

「いやーん、私もここ。」

などと言い合って、どどーと入ってきた。

何か場違いな気がして、おばさんひとり肩まで湯につかり、どうやってここを出ようかと考えた。

…私も最初はそこだけ、ここだけだったのよ。…

 

レポート作成

 キーボードを打つのが遅い私はキーボード打ちの練習から始めた。教科書は通勤電車の中で読み、昼休みに図書館でポイントに線を引いた。家族の夕食の時間がばらばらで後片付けが済むのが10時すぎ、勉強時間はその後の時間をあてた。勉強方法や簡単な疑問はメールで同期生に相談した。指導教授にお聞きするには、自分の不甲斐なさゆえのためらいがあった。

「どうしよう、さっぱりわからない。目で行は追っているけど、内容が頭にはいらない。初めてアダルト小説を読む少女の気持ちなの。」

こんな言い方をして、ごめんなさい。私にとって本当に難しく、どうしようかと冷汗がでた教材があった。メールで繋がっている同期生は、その度に適切なアドバイスをくれ、苦労しているのは私だけではない共感を得ることもできた。

 

修士論文 

 まず深呼吸。自分が入学を希望した初心を思い出そう。私は医療従事者として病理部門に属し最終診断を知る立場にいながら、公表してはいけない立場でもある。長く病院に勤務していると、多くの知り合いが患者となって訪れてきた。多くの人々は事無きを得ているが、時として長期に治療を必要とする場合がある。日本人の死因は癌が現在トップである。癌になったことに対して、人々の心の苦悩に医学的知識では応えられないものを人々との会話のなかで感じていた。人々の癌に対する誤った世俗的な話、ドラマはいつも悲劇的なあらすじ、医学的に根拠のない治療に類する広告、宗教団体からの出費を募る働きかけなどに疑問をもっていた。心の苦悩に真に応えられるものは何か。不条理な場面に心にわき起こる日本人の宗教的意識とは何か。論文を書きながら、生きる意味と価値を求めて自己を見つめていた人々の声と姿が重なる。冷静ならなきゃと自分自身に何度かつぶやきながら、時として思い出に押しつぶされそうになり、叙事的な表現にも涙が出てくることがあった。   

 二年次から小坂教授の修士論文指導が始まり、その度ごとに自分の知識の浅さと論文形式で文章をかく作業の難しさに慌てた。レポート作成がままならない状態となった。勉強時間は益々長くなり、睡眠時間が減った。昼休みは仮眠を取る時間とし、午後の業務にそなえた。体重は減ってきたが、まだ標準を上回っていた。

 妊娠した時以来のことだが、さまざまな宴会を総て辞退した。

「最後の妊娠をしたのでは。」と、噂がながれた。

「高齢のため親の体調があまり良くないので。」と嘘の理由を添えることにした。

「お父さんがボケて夜に徘徊をするそうよ。彼女は夜眠ってないみたい。だから昼休みに眠っているのよ。」と、私は肯定も否定もしてないけれど噂は変わっていった。

 大学院で学ぶことは、業務に関係なく、個人的な理由からなので公にしたくない気持ちがあった。親には申し訳ないが、しばらくボケているということにした。

 

 できあがった論文は、家族の協力の賜物でもあるので、まず夫に、論旨は子供達に感謝を込めて進呈した。自分用の論文には“犬の足跡”がある。印刷した部数を部屋に広げていたら、散歩から帰った我が家の愛犬が突然入ってきて、洗った足とはいえ、しっかりと足跡をつけていってくれたから。あらら…

 

やっと卒業できた

 ほっとしながらも、体の力がぬけ、張り詰めていた糸がきれたような、これが燃え尽き症候群というものだろうか。どうなることやらと思った学業は何とか達成でき、あの緊張感をもった日々が懐かしく思える。この年齢になって、師と思う方々との出会いは衝撃的であり、先生方の学識や教材には学ぶべきものが多かった。修士課程の在り方は、さまざまな形があると思われるが、視野とか見識が広がるとは、こういうことだろうか。この頃、通勤かばんの中には修論テーマと関連した本をいれている。また、卒業後も継続して勉強の場を持とうというゼミ生の声がまとまり、さらに学習は続きそう。まだ遣り残したことがあるような気がする。

 

ちょっとお行儀の悪い話ですけど

 今ここに大学院に収めた金額が目の前あったら何に使おうかと考えました。

ダイヤモンドを買うか、古くなった風呂場を改装したいと思う。それを私自身につぎ込んだ訳だから、ダイヤモンドのように美しく光り輝き、改装された風呂場のように皆を快適な気持ちにさせる私でありたいと思う。