芸術家のひとりごと



人間科学
専攻
三橋紀子


著者紹介:

芸術家。日芸所沢校舎1期生です。卒業後、渡英、Chelsea College of Artを卒業し ました。大学道楽と呼ばれています。高校美術非常勤講師、カメラマン、英文テキス ト切貼など、専門にならないように加減して働いています。他の事を専門にしてし まったら芸術家ではなくなってしまうので。そのくせ、最近では造っていない時間の ほうがずっと長いようです。それでも年に1回は何らかの形で作品を発表していま す。母校の高校で空手道部の監督もやっています。


みなさんはじめまして。私は、みなさんとは少し違った分野の出身かと思われますの
で、本業から、この院にどのように至ったのか、少しだけお話したいと思います。
私は普段、「仕事は?」と問われた時、「芸術家です。」と答えていますが、まず納
得はしてもらえません。確かに、生活の為の職業という意味でなら、的外れな答えに
思われるでしょう。実際問題、現在新聞沙汰になるようなことがあれば、自称芸術
家、フリーター、或いは非常勤講師と書かれてしまうに違いありませんし、芸術で口
に糊することができない為に、肩書きが迷子になってしまうのですから、生業とは呼
べる状態ではありません。しかし、その納得できない様子の影に、芸術と言う言葉に
対しての、身構えを感じることが少なくないのです。そのような時に、「版画家で
す。」(実際にはいくつかある専門のひとつですが)と言い直してみると、大概、安
堵の表情が戻ってきます。知らない事柄に対して、警戒心を持つことは往々にしてあ
ることです。また、「生活」と「職業」の関係が成り立ち得ないものなら、その人物
に対して理解しがたいという感情をもつでしょう。そして「うさんくさい」とすら感
じるのではないでしょうか。
芸術家と版画家の差はどこにあるのでしょう。版画という言葉からは技術が想像でき
ます。版画家と言う言葉に安堵感を感じる人は、技術に対して報酬が支払われるとい
う事に、納得を求めるように思われます。それを裏付けるように、版画家と言う答え
の後には、例えば木版を彫っていると言った、技法的な解説を求められることが多く
あります。版画は技術的分類名ではあるものの、それだけではなく、やはり作品を示
す言葉です。反面、技術的に確立された部分があり、遠く浮世絵の時代には、彫りも
刷りも分業でしたし、現在もプリンターという技術職があります。浮世絵は、印象派
の時代には、欧州の画家たちに多大な影響を与えたことでも、広く知られています
が、当時の国内では単なる印刷物、ブロマイドであり、芸術としての見方は逆輸入さ
れたものです。そして現在でも、その時代の因習的認識は残っているようです。技術
に報酬が支払われるという枠にとらわれるならば、芸術のそれ以外の要素は理解の範
囲を超えてしまいます。ピカソの絵なら描けそう、という台詞も良く聞きますが、こ
れもこの枠がある事を感じさせるものです。
芸術の技術という価値観で推し量れない部分、多分「うさんくさい」の源ですが、は
一般的にどのように認識されているのでしょうか。私は東京とロンドンで美術を学び
ましたが、両都市間での違いは明らかで、大きく隔たったものでした。英国では芸術
は「ある」事が前提ですし、芸術家は「いる」事が前提です。人々は、作品が気に入
れば学生の作品であろうとも購入しますし、エントランスロビーを、無名の美術家に
開放している企業が多々あります。一人前の芸術家として生活してゆけるまでは、援
助金制度を利用する事もできます。また欧州では、町村レベルから楽団が数々あり、
それに伴い音楽家の需要も多くあります。音楽も美術も社会に組み込まれている為、
それらを担う芸術家という職業は自然に成り立っているのです。技術以外の何かが必
要だと認識されているのです。そして、その価値や価値基準は個人の中にあります。
勿論、社会的な価値観は存在し、合致することは社会的成功を意味しますが、絶対的
な基準とはなり得ないのです。「うさんくさい」は、欧州では、多様な価値観で塗り
分けられ、霧散しているように思われます。
日本での「うさんくさい」は、どうもこの多様な価値観の欠落に起因しているように
思えてなりません。例えば作家の価値(作品の商品価値)を表す、号いくら、つまり面
積あたりの値段の目安があることなどは、欧米の感覚からすれば奇異なものです。そ
してそれらは往々にして、個人が自分で作品の価値を判断する妨げになります。そし
て、公の価値観からこぼれ落ちてゆけば、理解できないもの、すなわち「うさんくさ
い」ものとされてゆくのです。このような、罠があちらこちらに仕掛けられた結果、
芸術は間口を狭め、一般的に縁遠いものとなっているのではないでしょうか。
私は勿論、欧米のような社会になってくれれば助かりますが、なにも日本に対して批
判的なわけではありません。むしろ、芸術に従事している者が反省すべき点だと思っ
ています。前述した浮世絵の話のように、歴史的な背景が違っているのですから、概
念を輸入移植して根付くものではありません。個人の価値観に基づいた判断も、元来
あまり得意とは思えません。そんな中、限られた中ではありますが、私が帰国後に美
術の世界で感じたことは、美術従事者達がそれらに甘んじてきたということです。つ
まり、画一的な価値観や、親しみやすいとは言いがたい世界に、自ら安住してきたと
言うことです。美術従事者と括ってしまうことは、かなり乱暴かもしれません。画一
的価値観に合致した従事者と言い換えましょう。私は基本的に「うさんくさい」芸術
家なのですが、海外で学んだ、或いは教職についているという判断材料から、一般的
価値観に合致してしまうことがあります。そんな時の反応は、すごい事をしている、
自分には難しくて解らない等、過大評価したものがほとんどです。聖域化されている
という印象すら受けます。これを、自らが招かなかったとしたら、いかにして起こり
うるのでしょうか。
私は、縁あって高校で美術講師をしていますが、等しく芸術に触れる機会が与えられ
る筈の学校で、いまだ、優秀作品が掲示されるに相応しいという認識が残っているこ
とに驚きました。作品の価値が権威、この場合は教師、によって与え得るものなら、
行き着くところは聖域かもしれません。しかし、歴史を鑑みれば、人々の作品に対す
る評価に普遍性などないことが良く判ります。甚だ検討違いとしか言いようのない認
識に対しては、やはり、払拭の努力を払う必要があります。
しかし、私も芸術の存在に関しては、自分の中で当たり前の一言で済ませてきたの
で、当たり前とは考えたことのない人に対面した時に、話す言葉を持たない自分にも
どかしいばかりです。たとえて言うならば、日本語ではなく美術語でしか話せないの
です。若い世代を中心に作家も作品も活動も、多様化してきていて、古い因習とは相
反する動きも出てきていますが、それらのほとんども美術語でしか語られていないよ
うに思われます。業界的とでも表現すれば良いのでしょうか、一般的な評価よりも、
狭い社会での評価が優先する傾向があるようです。そこは居心地の良い世界かもしれ
ませんが、やはり古い因習が生きている世界なのです。
芸術と言うものは決して特殊なものではありません。人間が表現しているものですか
ら、共感できる部分は必ずあります。何も、理解することが求められているわけでは
ないのです。他分野において学ぶことで、これらをより確かに認識し、美術語を翻訳
してゆく心積もりです。2年後にもう少しまとまった考えをご披露したいと思いま
す。お付き合い下さり、ありがとうございました。