「修士論文を書き終えて」
文化情報専攻 木佐貫洋 著者紹介: 年齢:52歳 |
論文題目 「糸瓜考・正岡子規のへなぶり精神 ―糸瓜句から見える世界―」
[執筆時間の確保について]
修士論文執筆上の最大の悩みは時間の確保でした。この悩みは、仕事を持つ社会人院生の共通のものであると思います。社会人院生の場合、男女を問わず当然、日常の業務や家事、公的・私的雑用が必ずついて廻ります。それに費やす時間は圧倒的な量です。
私の場合、通勤時間が短く(職場まで自転車で15分程度)、比較的時間の確保が容易であったと思います。ただし、修論を本格的に取り組まねばならない2年次は、高校3年生の担任となり、非常に時間が取りにくい状況がありました。とくに、昨年の9月から11月末までの3ヶ月は、連日、夜遅くまで過密な仕事となり、執筆時間が取れず、ほとんど修論に手が出せない状態が続きました。とにかく、早朝(午前3時か4時頃に起床)学習に切り替え、少しずつ書き始めましたが、3時間程度の時間では、その日の書く構想がまとまったら時間切れ、というストレスが溜まる日々が続きました。この時期は、これまで集めた資料の整理と構想が涌いたらメモをすることに専念しました。
前述のような状況でしたので、(10月の末、妻は母親の看病に実家に行き、家事等も私の肩に掛かってきました)永岡教授のアドバイス通り、とにかく書き進めることにしました。このことが大変役に立ちました。また、ゼミの発表に向けて、無理矢理にでも論述したい方向性を模索したことは、修論の論旨を纏めていくのに大変有効であったと思います。
12月に入ってやっと本格的に執筆が出来る環境が整い始めました。とくに22日以降は1日の睡眠時間は4時間前後、食事と生理作用以外は机に向かいました。暮れも正月もありませんでした。修論の完成は1月8日でした。400字詰原稿用紙で、420枚になりました。
[『子規全集』探しについて]
正岡子規について論じるには、何をさて置いても『子規全集』(講談社版)を手に入れる必要がありました。既に絶版になっていますから、古書店で買い求めなければなりません。神田の古書街をはじめ、大阪の各地の古書店も訪ねましたが、なかなか手に入りませんでした。ネットでも探しましたが同様でした。途方にくれていた所、近所の古書店にまさかと思いつつ探してみると、驚きました。ショーウィンドウに並べられていたのです。本当に「灯台もと暗し」でした。早速、店のご主人に「おいくらですか」と訊ねました。「別巻1がないので安くしときます」という返事でした。それでも18万円ということでした。
これはご主人が購入した値段でした。欲しいけれども、私には高い値段でした。そこで、「大学院の勉強に必要だ」ということで値段の交渉をしました。最終的には13万円で、何度かの分割での支払いということに応じてくれました。しかし、支払いが済むまでは本は渡さないという条件でした。やっと私の手に入ったのは1年次の秋でした。苦労して手に入れた『子規全集』でした。しかし、久し振りに胸がときめきました。
[修論の内容について]
論題は入学時に提出したものとは違ってきましたが、論述内容は基本的に同じでした。ゼミの永岡教授より常々「書きたいことを、しっかり書きなさい」と、アドバイスを頂いていたので、執筆のスタンスは早期に確立していたように思います。このことは大切な事であったと思います。時間が大変制限されている私達にとって、何をどのように書き進めていくかが最も重要な事であると思います。
私の場合、正岡子規の絶筆三句
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水も取らざりき
にこだわって論旨を展開しました。「何故、子規は辞世の句として、他の植物を選ばず、糸瓜を選択したのか」という疑問からの出発でした。人生の最後の表現材料に、美しい草花を選ばず、「糸瓜」という精彩なイメージとほど遠いものを選んだのか疑問でした。最後に「糸瓜」を選んだのですから、子規の精神の到達点に「糸瓜」が大いに関与しているに違いないと思ったのです。
各研究書を調べてみますと、さすがにこの絶筆三句について言及しているものが多くありました。とにかく、子規を評価する者も、そうでない者も絶筆三句については高く評価しているのです。
ところが、この絶筆三句に糸瓜が何故詠まれているのか言及しているものは少なく、とくに糸瓜と子規精神の関わりについて論証されているものは意外と少なかったのです。「糸瓜」こそ子規精神のキーワードだと思いつづけてきました。
子規は死に至る十年前より糸瓜句を詠んでいます。生涯で五十余句あります。この糸瓜句の全てを分析すれば、子規が最後に糸瓜を詠んだ理由が分かるのではないかと思いました。子規は糸瓜句の一句一句に、その理由づけを述べていません。従って、糸瓜句を詠んだ時の子規のそれぞれの感慨は、回りから攻めていくしかありませんでした。その材料探しの時間が必要でした。松山に三度、東京の子規庵に四、五回足を運びました。実際に家と職場の両方で糸瓜を育てました。とにかく、書物だけでなく体験的に糸瓜に触れてみました。そうすると、いくつかの思わぬ発見にも繋がりました。
例えば、「病間ニ絲瓜ノ花ノ落ツル晝」(『仰臥漫録』)という糸瓜句があります。一般的には花が落ちていく場合、「散る」という語を使用します。しかし、「糸瓜の花」が散る場合は、子規がこの句で詠んでいるように「落ツル」という表現がぴったり当てはまります。実際に糸瓜を育てればよくわかります。そして子規の確かな写生の目を確認することができました。
限られた時間で多くの資料を調べ、そして、その資料を駆使して論述するには自ずと限界があります。牽強付会的な論証になっているところもあるように思いますが、とにかく全ての糸瓜句にこだわって論証を重ねました。その中で、子規の「写生論」をはじめ、芭蕉や蕪村の精神にも触れ、「滑稽観」やユーモアや諧謔性にも目を向けながら、なにものにも阿らない子規の「へなぶり」精神のあり方について論究しました。その精神を底で支えたのは、物事に対するニュートラルなスタンスであったように思われます。それは、子規の懐の深さを表わしています。
絶筆三句は突然詠まれたものではなく、十年に及ぶ糸瓜句の歩みの帰結として詠まれたことを、どうにか論述できたように思います。
ともかく時間が制限されていたからこそ様々な創意工夫もしました。何よりも得たことは、書くことは「しんどい」けれど、発見の連続であり、楽しいことであるということが分かったことです。修論を書き終え、やっと、「書きたい」ことの入り口に立ったという感慨が、私の正直な現在の気持です。また、修論の執筆を通して得た最大のものは、書かねばならない更なる課題が見つかったということのように思います。
これからも「しんどい」けれど、楽しい研究活動に励みたいと思っております。
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