越後に進出した下野武士の活躍
(大関弥七郎親憲を中心として)




人間科学専攻
那須義定

著者紹介:

1949年新潟県に生まれる。
那須氏研究家・作家
日本大学大学院に入学し,見性の目的を達成した。
海音寺潮五郎先生が生前,執筆を計画していた歴史小説に『那須七騎』があった
およばずながら,小生が『那須七騎』を書く予定にしている。

 従来,新潟県の歴史研究者の間では,信濃と越後・上野と越後といった視点で歴史が考えられていることが多かった。栃木県と新潟県の両方で勤務した経験を持つ小生,密接に関係があった下野と越後といった視点から興味深い史実を提供してみたいと思う。

小山城址(長岡市村松)

 大関氏の越後における初期の城に大荒戸城(東頚城郡松之山町)がある『温故の栞』大荒戸の古城跡の項に「東頚城郡蘆谷荘大荒戸の古城跡は山に拠りて要害を構ふ建仁年中佐々木盛綱の一族下野国那須郡の住人丹治左衛門俊秀此処に移住し姓を大関に改む後上杉家に属し一族繁栄せり云々」とある。大関氏がまさしく那須七騎(那須氏・大田原氏・伊王野氏・大関氏・千本氏・福原氏・芦野氏)の一家大関氏の一族であることを伝えている。大関氏の嫡流は下野黒羽藩主である。大関氏の越後における居城として次のようなものがある。大関城(西蒲原郡西川町),浦佐城(南魚沼郡大和町),小千谷古城(別名深池城・小千谷市),栃尾城(栃尾市),大関の舘趾(新津市),小山城(長岡市村松林・写真参照)
 昨年,小山城を見学した。山城とばかり思っていたら平城であったため驚いた。『越後野志』小山城の項に「褥拔荘小山村ニ在,城主大関大蔵之進ハ栃尾城主大関信濃守ノ弟ニテ,弓馬の達人也,」とある。
 大関親憲は大関阿波守盛憲の子で天文15年(1546)浦佐城で生まれたと思われる。『越後野志』浦佐城の項に「城主大関常陸之介,後ニ蒲原郡水原ニ移住ス,」とある。天正14年(1586),親憲,上杉景勝から水原城(北蒲原郡水原町)及び水原満家の名跡を賜って水原城主となり水原常陸之介親憲と改名する。慶長3年(1598),上杉氏は会津に移り親憲は福島城代となり5500石(一説には一万石),伊達正宗の襲来を破り,勇名を天下にとどろかした。鉄砲奉行のも任ぜられた。慶長5年(1600)親憲,猪苗代城代となる(5500石,与力200騎)山形最上攻めでは直江山城守と共に軍奉行をつとめるとともに軍を壊滅から救った。慶長9年(1604)景勝の旗下25将の一人として,鉄砲奉行,軍奉行を歴任。慶長19年(1614)親憲,大阪冬の陣の信(志)貴野表の戦いで鉄砲組(猪苗代衆150人―種子島
150挺)隊長として活躍,翌年1月将軍秀忠より感状を賜わる。元和2年(1616)5月,親憲,板谷峠に於て主君景勝を迎え,その時峠で没す(71歳)。景勝の命により,米沢林泉寺に葬られる。
 その他の下野武士について述べる。
 観応2年(1351) 宇都宮氏綱越後守護職となる。この年,宇都宮氏綱は,守護代芳賀禅可とともに越後に入り,柏崎で上杉憲顕とはげしく戦った。宇都宮方として,?生一族をはじめ,宇賀地,芋河,大窪といった魚沼武士が参加した。小千谷市を中心に宇都宮神社・二荒(山)神社が多数残っている。
 嘉慶2年(1388) 那須資世越後守となる。一説によると上田坂戸城(南魚沼郡六日町)は那須越後守の築城になるものという。
 下野と越後の関係まことに深いものである。下野武士は太平洋へ出る場合,強敵佐竹氏がいた。海(日本海)への道を夢みていたのであろう。    完