後期スクーリング時に開催した「公開パネル討論会」の総括


国際情報専攻 村上 恒夫

「総括」と聞くと、どうも穏やかではない。その次に出てくる言葉が連想されるからだ。

「自己反省」、どうもこの言葉も穏やかではない。何かお尻が、もぞ痒くなる。ここは軽い気持ちで思ったままを、書き込むようにします。

 

それは、所沢のスナックから始まった!

前期スクーリング時に日下田さんと呑んだ時、二人とも酔いのせいか言いたいことを言いあった、ような気がする。どうやらお互いに、現状の大学院のあり方に一過言あるらしい。「何かみんなで盛り上がる、意見の交わす場所が欲しい!DRをもっと活用していきたい!」だいたいこのような話だったと思う。この話に西牟田さんも加わり、さらに色々な方々のご意見ご指導により、「公開討論会」が開催される運びとなった。

 

なかなか進まないテーマ決め

公開討論会を開催することに決定したのは、8月に入ってからだった。ちょうど高知に出張している時に決定された。この時ほどモバイルをありがたいと思ったことは無い。パネリストは、日下田さん、西牟田さん、村上の3人で学生から司会者を募って進行して行こうと決まった。決行前にDRにて十分意見を交わし、その盛り上がりから公開討論に持っていこうとする方針も決定された。あとはテーマである。元来、硬いテーマや文章が苦手な私は以下のようなテーマを提案していた。
ITは人間性を豊かにするか、しないか?」
「情報源としてのインターネットの役割、TV、新聞、雑誌はなくなるのか?」
「携帯電話は、本当に必要なのか?」
「21世紀の社会、鉄腕アトムの社会は実現するのか?」
「社会人とは? 子供のころ見た大人を自分に置き換えたら」
「ホーキング博士の言う地球滅亡までのカウントダウン 1000年後の未来に残す
もの、残さぬもの」
「豊かな社会とは? 心とお金の意味」
「国際化って何? 語学知識が全てか?」

なかなかテーマが決定されない。かなり焦って来た。

 

 レポートとの仁義泣き戦い

 テーマが決定されないまま、遂に魔のレポート提出時期来襲!

とにかく、レポート作成に血道を上げる日々。公開討論会どころの騒ぎではなくなった。

毎日毎日明け方までレポートと格闘し仮眠の後出勤する日々が続く。レポートのことで精一杯、とても他のことまで考えられない。

 

 討論会中止の危機

人間忙しい時にかぎって、色々な事件が発生する。レポート作成作業で忙しい時に同居している母親が入院。ボケもかなり進行しており、どうやって介護していくか嫁さんと深刻に話し合う日々が続く。さらに、日下田さんの奥方が交通事故に会う。幸いたいしたことはなかったとのことで一安心。しかし、これで終わったわけではなかった。西牟田さんがアメリカに出張が決定。ダメ押しに日下田さんもアメリカ出張が決まるかもしれないとのこと。公開討論会はついに頓挫する様相をしめした。

 

初心貫徹

 多難続きの公開討論会だが、初心貫徹、誰かひとりでも残った者が開催する。まことに悲壮感あふれた意気込みで開催することに決定。10月も中旬になり、テーマも「日本語は変わったか?」に決定した。パネリストも寂しいが西牟田さんを除き、日下田さんと村上の2人で進めることにした。しかし、誰か協力者を募ることで合意をみる。

 

 開催まで残り1週間

 数々の困難を乗り切り、周囲との打ち合わせも進む。しかし、DR上の話がいまいち盛り上がりに欠ける。思い切って星さんに協力を要請したところ、快諾して下さり一安心。プロの作家さんをこのような場に担ぎ上げるのは、非常に悪いと思いながらも、根がずうずうしいので、同窓のよしみでお願いした。もう開催まで残り少ない、問題提起の案をひねり出し、まとめて原稿を作成し、スライドも作成しなければならない。

 

開催前日

泣くも笑うも、明日は公開討論会の開催日。しかし、原稿はおろか、スライド資料もまだできていない。会社から家に午後10時にたどり着く。これから全ての用意をする。朝5時に原稿とスライド完成。仮眠する。朝7時に起きて、奥方に原稿を読ませるが、「論旨がハッキリせず、何を言いたいのかわからない!」との無慈悲な一言。急遽、原稿を書き直す。8時に再び読ませると、「さっきよりも意味はわかるけど…、まだ何を言いたいのかわからない、本当にこれでやるの?」。「後は根性あるのみ!」と、意味不明の言動を発し所沢へ、いざ出陣。

 

 本番

 星さん、日下田さんに比べれば、このような事に私は初心者である。最初に発表し、恥じをさらし、後の2人に締めてもらおうと開きなおる。タイムテーブルが分刻みで決まっているので、一分の時間も無駄にできない。発表は時間通りに終わったのだが、原稿から顔をあげる余裕が無かった。星さん、日下田さんと続き、参加者からの意見を聞く。ここが一番問題で、誰からも意見が無ければ、進行予定B案(日下田、村上で討論する)に進まなければならない。お互いの意見のすりあわせが十分できていないので非常に不安だ。しかし、何と、さすが、みんな社会人。色々話してくれて感謝感激雨あられ(T0T)。進行予定を大分オーバーし、3分で意見をまとめるはずの私の所定時間が無い。15秒でわけのわからない「まとめ」をおこない、佐々木先生にバトンタッチ。佐々木先生のすばらしい「まとめ」で、私の「15秒まとめ」を補っていただいた。残り1分、日下田さんの終了の言葉で、約4ヶ月続いた苦闘はあっけなく終了した。

 

 おわりに

 近藤教授、佐々木教授そして大学関係者の方々に心から感謝申し上げます。そして、なによりも同窓の学生諸氏に「ありがとう」、しかし、同輩、先輩の諸氏へ、これはあくまでも始まりであります。われわれは、栄え有る大学院の一期生、二期生なのです。我々が卒業した後も、「実は、私は日本大学大学院総合社会情報研究科で修士を取ったんです。」と胸をはって誇れる、そのような学校にするよう一丸となって邁進しようではありませんか。今後も切磋琢磨し、より良き刺激の場を、我々自身の手で築き上げるのが最終目的なのだから。


付録  村上問題提起の生原稿

題 「誰のせいでもありゃしない。みんな日本語が悪いのさ」

 

(1)カワイソウナ「日本語」

 

明治維新、第二次世界大戦の敗北、日本語はその度に排斥の矢面に立たされてきました。
日本語とは、なんとカワイソウな存在なのでしょうか!

過去の日本語撤廃論者は、「産業革命の遅れ」も、「戦争の惨敗」も、みーーーんな日本語がその根本原因だと思っているのでしょうか?
 思うのですが、「『日本語』の未熟さみたいなものから、日本人は未熟な人間なのだ。」と言う、この論法は正しいのでしょうか?

本当に「日本語」が悪いから「日本文化」が悪いのでしょうか?

確かに、「言葉」と「文化」は切っても切れない関係にあります。

しかし、「言葉」は自分の意志を100%伝達可能な手段ではないと思います。

「言葉」は伝達手段の一部分でしかないのです。

それゆえ、我々は大昔から「言葉」をより使いやすく変化させて行ったのです。

より良く相手に自分の気持ちを伝える。これが「言葉」の使命です。

 

(2)相手に意思が伝わればなんでもあり

 

 私は電子マガジンの400字特集では、「『舞姫』と技術文章(文語とカタカナ)」と題して、このように書いています。

 

 高校生のころ、森鴎外の「舞姫」を読んで非常に感動したのを覚えている。文語調で書かれたその本は、戦後の新しい教育を受けた私にとって、新しい「日本語」だった。鴎外は、文語調で「舞姫」を書くことにより、古い日本の因習を浮き彫りにした。文語調で書くことが強力なメッセージなのだ。

 文調あるいは、使用する言葉で相手に強烈なメッセージを送ることができる。わが身を振り返ると、私は、カタカナをよく使用する。技術者なので、当然と言えば当然だが、必要以上に多いと思っている。外国の事物を表すだけでなく、自分自身の感情までカタカナ語を使用する。これは、どうやら私だけの傾向でないらしく、眼を通す報告書もカタカナ語が多用されていて、非常に読みづらい。そうだろう、私がカタカナ語を多用する理由は、相手と自分自身を煙に巻くためなのだから。鴎外に比して、なんと低級なメッセージか。

 

先ほどまで、「言葉」とは、「より良く相手に自分の気持ちを伝える。これが『言葉』の使命です。」と言っておきながら、自分では意味不明な伝わらないメッセージとして「言葉」を使用することがあります。

 

直接相手に対して、「ABと言う明確な理由においてCと言う答えを生む。」

これが、本来的な手法としての言葉の使いかたでしょう。

これに対して、私の使うカタカナ語は

ABと言うらしいすごく難しい意味をもっているらしいが、私は深い意味は知りません。当然と言っては失礼ですが、貴方も知らないと思います。しかし、本当はお互いこれぐらいは知っておかなければならないということは理解できます。なので、ここはお互い知っているものとして話を進めましょう。Cと言う答えが生み出されるらしいです。同意してください。」

このように言うと身も蓋も無いですが、これに近いことは実際身近で行われています。

自分自身の気持ちを伝えるのに、時として突拍子も無い言葉の使用方法もあるのです。

要は、相手に気持ちが伝わればよいのです。

 

(3)言葉は変わって来たのか変えてきたのか

良く、「日本語が変わって来た」と言う言葉を耳にしますが、これはオカシイ。

変わってきたのではなくて、変えてきたのです。

DRにも書きましたが。

私は東京の下町(入谷)に生まれ、その後基地の町に引っ越してきました。
基地の町、ここには色々な地方から来た家族がいて、いろいろな方言をしゃべっていた。

(もちろん、方言だけでなく、英語、中国語、韓国語なまりも多数だったのですが。)
東京の西に位置する多摩地区は関東地方特有の方言を残している地域でもありました。

当然私も多摩地区に昔からあった方言には非常に影響されました。
子供のころの仲間意識もあったし、第一、方言はカッコヨカッタ!
 今でも色々な方言に影響され、自分自身の話言葉が変化しているのがわかる。

秩父生まれの妻とその家族がしゃべる北関東の方言には特に影響されました。

「そうなんですか。それは大変でしたね」これを秩父弁で言うなら。

「そーなん。えらい大変だったいね」と言います。

勿論、今では後者の「そーなん、えらい大変だいね」が無意識に出てしまいます。
地方のスナックなんぞに行くと、「お客さん、本当に東京の人?」と聞かれます。

長い出張では、次第に言葉使いがその地方の言葉に似てきます。
特に、関西弁、高知弁!

標準語? に比べて、方言のなんと魅力的なことか!

 

このように書き込んだところ、文化情報の棚田さんから

 

>標準語に比べ、方言に魅力を感じるとのことですが、何故でしょうか?

ときかれました。


これ、非常に難しいんです。
この感覚を伝えるのは大変です。^^;
方言の魅力はどこにあるのか?

私には以下の3点があります

1)方言を使用すると、言葉に嫌味がなくなる気がする。
2)表現が丸くなるような気がする。
3)自分の感情をより良く表現しているような感覚になる。

 

この後、日下田さんが4番目の点をDRで加えてくれました。

棚田さんからはさらに
>村上さんが生まれ育った環境は常に変化してきたかもしれませんが、
>東京の下町(入谷)も下町ならでの言葉もあったかも。


確かにありましたありましたが、親父が使うのを嫌っていましたね。
当然、これも方言なんですが。
1)古臭いイメージがあり避けていた気がします。
2)言葉が汚い。
3)喧嘩ごしだ。喧嘩売ってるようにしか思えない^^;


私は、これらの理由から自分自身の使用する言葉に変化を持たせてきました。

勿論、より良く相手に自分の気持ちが伝達できるようにです。



(4)おわりに

その昔、

近代国家の建設時に、言葉を統一し、国語を作成しました。

これが「標準語」です。

各地方でバラバラだった「言葉」を統一し意思伝達の手段を整理したのです。

「国民国家」を作る上では重要な意義がありました。

その国の文化育成に重要な影響を与えるのが「言葉」であると理解されたからです。

 

 最近、「一度戦い、完膚なきまでに打ちのめされ、憲法まで書いていただいた国」だけでなく、国内などからも「自由競争の原理にしたがえ」、「日本型経営の終焉だ」などと言われます。

その急先鋒に位置するのが「終身雇用を嫌い、会社を渡り歩く若者」であると言われます。

ようは、個人を前面に主張する人間のことです。

文化と言葉は密接な関係にあるのですから、当然言葉も、直接的な表現が好まれ、相手の気持ちを考えず、表現する言葉が主流になってきているはずです。

現状はどうなのでしょうか?

井上史雄著「日本語ウォッチング」によると、「新しいイントネーションの出現」と題して

「『それでえ、あたしがぁ、言ったらア』のように尻上がり口調が増加しており、記録によると1970年代に発生し、今はさして若くない女性にも広がっている」と言います。

そしてこの口調の特徴として「会話を見ると、聞き手がうなずく例が多いい。「エー」

「ウン」などのあいずちも打つとのことです。

また相手が話しに割り込むことがない(実例は高校生の討論番組で司会者が割り込んだ例だけだった)。この口調は相手の割り込みを許さないので、押し付けがましくひびく」

自己主張が強い人間が多くなり、言葉もそれにつれて変化しているようです。

どうやら、「文化」が「言葉」を変えているの事は否定ができないようです。

みなさん、

「日本語」が汚いと思った時には、こう考えるのが妥当なのです。

「日本語」が汚くなったのでなく、「日本の文化」そのものがが汚くなったのだと。