「私のビズネスマン時代(第1回)―ある事業再構築の体験から―」

人間科学専攻 沼上基

著者紹介:
日本大学大学院総合社会情報研究科 専攻:人間科学昨年6月末,企業人としての人生を無事終了しました。少し充電しようと思い当大学院にきました。目下,河嶋孝先生(行動分析学)にお世話になっています。企業時代は,実力もないくせに,オッフロードばかり走ってきました。敷かれたレールの上を走るのを好まなかったのです。最後のレールは脱線しかかったレールでしたが,私とともに立ち上がってくれた部下たちとの"栄光への脱出"の軌道となりました。この記事は,痛烈な批判ばかりではありません。


私は昨年夏,約40年におよぶビズネスマンとしての人生に終止符をうった。燃焼しきってはいなかったが,自己の責任をなんとか果たすことができたことは,幸せかもしれない。ただ自分の体験から,極めて気にかかることがある。今回は,それを問題提起しておこう。

それにしても最後の10年は,40年間のなかで,最もきびしい時代であった。私は突如,二つの事業部門と一製造子会社の事業再構築を命じられたのである。それまでの私は,商品開発部のトップであった。開発業務も,常に成果を問われはしたが,何かを“生みだす”ということは,生産的,創造的であり,私たちは“いつかは,この商品が収益をもたらすぞ”と,いつも未来に希望をもった。しかるに,次の業務は,痛みをともなう事業改革であった。バブル経済は1991年をピークにして崩壊にむかった。下がり始めると早いもので,予想外のスピードで売上高の大幅ダウンという事態を招いたのである。製造を分担させるために設立した地方の子会社が,60%を割る稼働率では,債務超過に陥るのは時間の問題であった。未来を云々するよりも今日,現在が問題であった。予定より3ヶ月も早く,私は新職場に移動した。

事業再構築とは、既存の採算のよくない事業をスリム化し,新規の有望な事業分野へ経営資源の重点的配分を行い,起死回生を図ろうとするものである。具体的には,大幅なコストダウン,合理化による事業改善,赤字事業からの撤退,事業所統合による合理化,人員削減などの様々な方法がとられる。私の場合も,真っ先に製造部門における固定費(特に労務費)削減のために,人員を削減せざるをえなかった。私の指示に対して工場長は,「落ち度のない者を辞めさせるくらいなら,俺が辞職する」と食ってかかり私を困らせた。それでも,最終的には地元という地の利を生かして,彼が中心となって,辞めていく従業員たちの行き先を確保したのである。私たちの打つ手が早く,バブル崩壊直後は,まだ就職先があった。

この件で,私は自分を責めた。私を支配したのは事業再構築という大義名分であった。自分が率先しなければ,誰がやるのだという気持ちがあったにちがいない。「人間に対する血の通った配慮」を忘れていた。まだ一度も話をしたことのない人々であったことも,むしろ私を苦しめた。後日,工場長に礼を言った。“よくぞ,突っ張ってくれたな!この俺に”本音であった。二人だけで静かに笑った。

一年後には,全社員の顔を覚え,話しかけていた。全員と夕食をともにしようと思い立ち,グループごとに実行しつつあった。そして,時にはカラオケに誘われた。彼らはみんな,私の愛すべき部下だ。こと,人間に関するかぎりは,善きにつけ悪しきにつけ感情的になる方がいい。冷静が“冷淡,冷酷”に変わる場合だってあるものだ。

すべては,まだ始まったばかりであった。事業部側のターゲットユーザー奪取による拡販戦略が成功しないかぎり,製造子会社の稼働率向上は望めない。結局,数年かかって目的を達成したが,そこへの道程は別の機会にして,冒頭の「気にかかること」に言及する。

リストラの問題点

リストラという名のもとに行なわれる雇用調整,削減の問題はさまざまあるが,少し違った観点から論じてみたい。一般に人員を削減するには,非組合員の中高年者が対象になる。また能力的にも問題視された社員も対象になる。こうした人々を現業からはずして、社内の一室に集め,一定の猶予期間をもって転職先を探させる。会社に出て来させずに自宅で職探しをさせるケースもある。組合員の場合は出向させるが,いったん出向したら,定年まで出向というケースである。出向先での仕事の条件が合わなくても,折り合いが悪くなっても“そんな甘えた料簡で”とやられる。もう退職させることが目的であるから,一度指名された者は二度と現職に復帰できない。ひたすら我慢する。しかし合法的である。顧問弁護士もついている。企業も人減らしをしなければ,生存競争に勝ち抜けないのも事実だ。ディレンマである。

しかし,ある経営者が,自社の人員削減を中心とするリストラ進捗状況を誇らしげに株式市場に向けて宣伝しているケースがあった。優秀なエコノミストも,経済評論家も声を揃えて,これを評価する。しかし,これでいいのか。

社長も,人事部責任者と担当も,所属長も,あの時の私も,厳しい処置をとることに関しては大義名分をもつ。ここに陥穽がある。そして社長は株主たちのために(そして会社のために),人事部門の担当は社長命令(方針)の執行のためということで,問題が処理される。「自分たちには責任はないのだから……..」と思い込む,ミルグラムいうところの“責任の代理状態にある”のだ。しかも権威者への成果報告という義務もある。いくらでも人に厳しくあたれるのである。しかも上位者であるほど,被害者との距離が生じるから,彼らの痛みも分らないし,歯牙にもかけない。誰も責任を感じない。責任は“目標を達成したかどうか”なのだ。

 企業経営にとって業績主義は当然である。しかし“大義名分”と“責任の代理状態”のなかに,密かにモラル・ハザードが忍び寄りつつあることを私は危惧する。

 人間に対する視点をどこに据えるかによって,彼らとの距離をどのようにとるかによって,リストラのあり方も少しは変わりうるはずである。人員削減は最後であって,選択肢をどうとるかでもある。

例えば,問題はあるにしても,ワークシェアリングがどこまで考えられたか。経営の責任のとり方をどのように考えるのか。

第1回−完