「江戸思想史と私」
人間科学専攻 相見昌吾 著者紹介: 昭和34年3月 中央大学法学部法律学科卒 本文にもある通り、日本大学経済学部・産業能率短期大学・法政大学史学科・日本大学哲学専攻・同商学部、いずれも通信制。 34年4月東京都庁に入る。 昭和46年品川区に異動 本年10月6日退職 その間13年半は特別職(会社に例えると教育担当取締役と副社長)現在はある会社の顧問、来年3月まで。年齢67歳 |
江戸の研究を始めてから8年になります。以下簡単に付き合いを述べてみます。
(1)江戸の思想史といっても、私の研究は思想史が先ではなく江戸時代の一般史が先である。約八年前思い立って、法政大学の史学科(通信制)に学士入学した。卒業まで二年間しかないので直ちに卒論に執りかからなくてはならない。史料が一番多いのは江戸期であることは知っていたので江戸時代とは決めたが、では何をテーマにするかという時になって困ってしまった。いろいろ考えた結果、江戸庶民が日常生活で何を考えていたかということを、問題としたかったので具体的な事例が多い内済に焦点を絞り、「内済論」とした。現在の言葉で言うと、和解である。江戸時代は、裁許(裁判)は、非常に少なくて、殆どが内済で済まされている。「差上申済口証文之事」とあるのがそれである。済口(スミクチ)証文は、江戸庶民の生活が生き生きと描かれ、現在の我々と思想的にあまり違っていないことがわかる。
(2)歴史の次は思想である。今度は日本大学の哲学専攻(通信制)に入学した。この時の卒論は、やはり時代を江戸期にすることは決めていたので、江戸期の誰の哲学を研究するかが問題となる。江戸時代の哲学は、殆どが儒学者であるのでその中から自分の好きな人の思想の研究というのが普通であろう。その時は、儒学者の考え方が系統的に自分のものになっていなかったので、洋学思想をと考えその中であまり知られていない本多利明(1743−1820)を研究することに決めた。題して「本多利明の洋学論」である。利明は、関流の数学者である。和算は、中国古来の数学とも、近代ヨーロッパの数学ともその趣を異にしている。それは、和算家が哲学や思想方面と極めて縁が遠かったということである。中国の数学者は、儒者であり、官僚であったので、殆どが思想家である。ヨーロッパの数学者はというと、デカルト・パスカル・スピノザ・ライブニッツは勿論のことカントのように哲学から数学を考察する人もいた。江戸期では、数学者であり哲学者というのは、本多利明一人である。彼の思想的立場は多様であり、百科全書派的である。彼には国家論あり、自然哲学があり、歴史哲学者でもあり、ヨーロッパの近代精神も理解でき、世界地理学、人口論も書いているし、カタカナ論者でもある。一般的には本多利明を重商主義の思想家であるという人が多い。それは彼が鎖国時代に在りながら開国論者であり、貿易により国を富ませることを主張しているからである。
(3)江戸時代は、幕藩体制国家である。その拠って立つ経済基盤は、米遣い経済であるということに建前はなっている。経済学部は、二十五年前に卒業しているので、今度は商学部に編入した。卒論は、「幕藩体制下の米穀流通論」である。この論の中心課題は、単純な算術から出発している。年貢を生産高の四割と仮定し、農民が日本の人口の六割だとすると生産高と消費高がつり合う。農民の人口は、約八割であるので農民が自分の出した年貢米を買うという行為をしなければ、消費と生産が均衡しない。何処かにカラクリがある筈だ。という疑問から出発した。表石高と生産額の違い、検地の不正確さ(実際の方が大きい)は、明確になったが、課題を残したままに終った。江戸時代の米穀生産高の記録は、無いに等しい。しかし人口の問題と生産高のは社会のきそであり、その上に思想が生まれてくる。
(4)さて大学院の修士論文のテーマは、「江戸思想史における儒教の受容と変容」である。ここでは、ある特定者の思想ではなく、江戸期全体の思想家を考察している。外来思想の受容と変容を研究するとすれば、日本の土着思想特に神道をどう捉えるか、現在まで血統が続いている天皇の問題をどう考えるかということを抑えて置くことが必要になると考えている。論文は、ほぼ出来上がっている。
現在の我々の思考は、ほぼ江戸時代に出来上がっており、それも日本人が持つ土着思想の上に理解した中国思想、即ち儒学を受容し、変容させたものである。土壌が違うと同じ種を蒔いたとしても当然そこに生える植物は少し違ったものとなる。皆さんは、江戸時代は封建的で取り上げるには古すぎると考えていると思われるが、切り口をどうするかに掛かっていると思います。取り上げた江戸時代の儒学の思想家は、藤原惺窩・林羅山・山崎闇斎・新井白石・貝原益軒・中江藤樹・熊沢蕃山・山鹿素行・伊藤仁斎・荻生徂徠・国学者・懐徳堂の儒学者・水戸学の儒学者達である。導入部には、中世の畠山親房と慈遍を取り上げた。
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