『文藝春秋』と岩波『世界』の論調から戦後日本の経済成長を考察して
国際情報専攻 西牟田邦彦 論文題目:戦後日本の経済成長と社会構造の変遷 −「日本的な個の確立」への一考察− <自己紹介> 福岡市で情報機器メーカーに勤務しています。入社後に中近東へ出張し、湾岸戦争の後遺症が冷めぬクウェート、相次ぐ戦禍で頽廃したレバノンを目の当たりにしました。その後、パキスタン等にも渡航し、人間の群集とバイタリティに触れた感が強烈な印象として残っています。これらの経験が相俟って、本稿の論旨である戦後日本への考察を深めることに繋がっていると自負しています。
この度、国際情報論特講Tのリポート課題から、「戦後日本の経済成長と社会構造の変遷−『日本的な個の確立』への一考察」と題した論文を寄稿するに至った。リポート、及び本稿の作業は『世界』・『文藝春秋』の主要論文(左下の表を参照)に目を通すことから開始したが、両誌の論調を比較すると、改めてその議論、主張の多様さに驚くのである。
戦後の日本は、米国の介入によって経済的活路を見出し、今日の繁栄をもたらした。だがその変遷は、幾多の波乱に富むものとして、時に深刻な不況やパニックに陥り、脆弱な社会構造の様相をも露呈してきた。では、何が欠け、また何が脆弱なのか。米国の機械的、要素的な資本主義は本当に有効なのか。この点では『世界』及び『文藝春秋』も多様な角
世界 「資本主義は変わったか」都留重人(1958.1-2)/「日本経済のゆがみ」美濃部亮 度から主張を展開し、問題提起を行
吉(1961.8)/「しのびよる公害−その政治経済学」宮本憲一(1962.12)/「社会主義と ってきたのであるが、これら論調は
市民社会」平田清明(1968.2)/「高度成長の再考察」中村隆英(1968.5)/「経済学は現 「大衆」に立脚し、米国の計量的解
実にこたえられうるか」伊東光晴(1971.7)/「パニックの社会経済構造」宮崎義一 析も大方「Mass」というものに括
(1974.7)/「神話の時代は終わった−経済学は有効性を取り戻しうるか」佐和隆光 られることから、戦後の経済成長と
(1979.7)/「『土建国家』ニッポン−政権再生産システムの安定と動揺」石川真澄 は、すべてこれらを主体にしてきた
(1983.8) と言えるのではないだろうか。
文藝春秋 「もはや戦後ではない」中野好夫(1956.2)/「赤旗と戦った十年間」前田一 だが、「Mass」が急速に浸透する
(1958.8)/「所得倍増の二日酔い」松下幸之助(1961.12)/「繁栄のための算術」松下幸 社会構造は、その代替として、思想
之助(1964.8-12)/「会社は遊園地ではない」盛田昭夫(1965.11)/「日本列島改造の青 的な側面や文化的背景についても、
写真」田中角栄(1967.2)/「“貧乏”はもう売物にならない」永野重雄(1971.9)/「パ いつしか「脱色」せざるをえない現
ニック−その生態系」上前淳一郎(1974.2)/「労働組合−甘い夢の終り」中島誠(1979. 実に直面する問題も否定しがたい
5)/「総合商社は戦艦『大和』になる」海部八郎(1983.4) とさえ思われ、またこのことが、
日本やアジアの言論界に、ある種の危機的観測をもたらしている状況も頷けるのである。
情報化の進展に伴う社会構造の受容は、米国主導に拍車をかけ、更に経済分野においても数理化による計量的解析の高度化が促進されている。プロ集団の米国による技術+理論の拡大化に、日本はどう対処してくのか。今後、改めて盛んな議論が待望されよう。
本稿はまず、第二次世界大戦の狂乱期における日本と米国の世論形成における背景から、大衆の理解・及び現実への「自覚」の相違点を踏まえ、そこから戦後日本の経済成長の概観に触れつつ、社会構造の変遷過程、並びに大衆、個人の意識変化から「日本的な個の確立」への考察を行うものである。自分が扱う課題としては誠に力量不足の感が否めず、拙作だが、皆様のご意見を賜れば幸いである。
戦後日本の経済成長と社会構造の変遷 −「日本的な個の確立」への一考察−
1.狂乱期から解放の時代へ
経済と、その成長に伴う社会構造への展望において、それらが常に相互補完作用を繰り返し、変遷していく過程において、大衆の、各々の事象を把握する観点もまた、常に移り変わっていかざるをえない。しかし大衆が、事実としての存在、倫理としての当為との間を分離することなく、合理的秩序による社会構造をつくり上げていこうとする限り、その合理性は、常に非合理性に勝るという信奉すら、世論の主流を形成してきた時代があった。
因みに、第二次世界大戦の勃発と同時に日本が宣戦布告の狼煙をあげた時、大衆はこの様相をどう受けとめたのだろうか。このことについて、当時の新聞記者が大衆に行ったアンケート調査をもとに、以下のような興味深い考察を行っている。
昭和16年12月8日、多くの人はもやもやが晴れたとか、とうとうやったか、やるぞ
と快哉を叫んだなどと正直に答えている。時局の重大さに身の引き締まるのを覚えたという人もいた。
これに対して、いわゆる知識人といわれる人の少なからずが、何という馬鹿げたことを、これで日本もおしまいだと思ったとか、これまでの侵略戦争にも反対しつづけてきたのに、と激しい怒りを感じたなどと、自分が戦争反対の姿勢を貫いてきたように答えている。うそだ。それほど数多くの指導的な立場の人が戦争絶対反対なのだったら、少なくともその気配ぐらいは当然、世論を映す鏡である新聞に反映していたはずであろう。
だが、当時の新聞はたんなる対米英戦争支持どころか、その熱狂的な謳歌、戦意昂揚、皇軍万歳一色だ。冷静な分析報道さえ影も形も見せていない。どうも日本の知識人は自らをいつも先覚者らしく見せかける。つまり、関西弁でいう『いい恰好しい』が多いのではないか(会田雄次他編『転換期の戦略6 激動昭和』経済界、1988年−概説、会田雄次「狂乱の時代から高々度工業社会の時代へ」)。
この内容は、日本人のある貴重な側面を呈示したものとして、示唆に富むものと言えよ
う1。戦禍の最中、戦争反対を訴えることは誠に危険であり、一方でやむをえないことではあると観念しつつも、感激はおろか、大変なことになったと狼狽した人もかなりいたはずである。だが時事的な動向をそのまま受け入れる新聞は、時勢を顧みず、口癖のように、大衆に向かって戦意を煽った背景も垣間見られるのである。
狂乱期の中、その世情を実感し、把握することは如何に困難であったとはいえ、この記者は、新聞における主張を過大に自己評価すべく、当時の日本軍の半ば情報宣伝部と化した言論の妥当性、及び正当性から、当時の日本人の思想を断定し、誤った見解を引き出したのではないかとも考えられる。
またこのようなことは、当時の新聞のみならず、昨今の雑誌やその他の報道メディア全般についても言えることではないか。言論の自由が謳歌され、多様なメディアが大衆に立脚している今日でさえ、建前主義をはじめとする偽善行為に拘束され、メディアの報道は真実、真相を伝えることから程遠いのが実情である。更にこのことは、大衆における日本人の思想動向に対する「自覚」はおろか、現実社会の本質的な部分すら見逃してしまう危険性を孕んでいるとも考えられるのではないだろうか。
一方で、この戦争における連合国側の米国では、その政治的孤立からの脱却に成功し、世界的秩序の構築と維持のために自ら責任を負わねばならないという立場と、従来から構築されてきた圧倒的な経済力とが相俟って、今世紀が「米国の世紀」であることを宣言し、米国国民の大半もこれを「自覚」するに至った2。このことを促進させた背景として、従来の独立自尊的風潮に基づく自由、及び民主主義を基軸とした理想主義的な使命感と、それに支えられた国際主義的な米国流ナショナリズムの「奇妙な融合」が存在していたとされている。
ドイツと、その戦力を頼りに開戦に踏み切った日本の全体主義と軍国主義における大量の侵略、及び殺戮は、米国の理想的な使命感と正義感、更にはナショナリズムを刺激し、「奇妙な融合」の形成に拍車をかけた。米国は、経済において既に段違いの進展を見せていた「米国の世紀」の現実を、世界政治の場においても、ようやく認めたのである。
このような米国の圧倒的な政治・経済力、軍事力に、ドイツとともに決定的な敗北を喫した日本は、暗澹たる虚脱感のもとに、一方では混沌とした荒廃の中での解放感を大衆に浸透させた。大衆は、なお不安感に脅えながらも、手探りで方々の灯りを頼りに歩き出し、やがて視界が定まってくると、生活の再出発を誓いつつ、「衣」・「食」・「住」に活路を求めて動き出したのである。
日本復興への道は、経済にしかその活路がなかった。朝鮮戦争による特需は「神風」を巻き起こし、また、全面講和か否かの議論はあったものの、米国の方針に則り、サンフランシスコ講和条約を成立させ、「三種の神器」といわれた家庭用電化製品も普及し、大衆の日本経済への期待は益々高まることになった。
もはや「戦後」ではない3。1956年、「経済白書(年次経済報告)」は前年度の経済分析を通じて、戦後の復興期から「近代化」による成長期に入っていることを示唆し、また同時に、それを目標として設定することによって、企業経営者に設備投資や新たな技術の導入を喚起させていった。
だが、もはや「戦後」ではない、といったところで、「戦前」に戻ったということではな
く、それはまったく新しい日本の隆盛であったと言えよう。大衆や企業経営者が自信を取り戻したとはいっても、それは経済的な側面だけで、つまりは「貧乏」でいなくても済みそうだ、いや、「貧乏」はむしろ言い訳にはならなくなったというだけにすぎない。今後の針路はすべて米国の手中にあり、希望や期待感と並行して、不安感や懸念、ひいては生活の実体性のなさを実感せざるをえない新しい日本の姿であった。
会田雄次氏は、米国の介入による「新生日本」の社会構造について、次のように指摘している。
新しい日本をつくったのは、アメリカ占領軍による徹底した農地解放であり、それは
爵位制や皇族制の廃棄が付随し、家主・地主のパージ、戦犯裁判をともなって明治以来
の日本社会の支配体制を根本から破壊し、世界歴史にも例をみないほどの平等社会をつ
くり出したことにある(「狂乱の時代から高々度工業社会の時代へ」)。
経済成長が達成され、旧勢力下における窮乏や格差の問題は改善し、稀にみる平等社会が到来したのだが、支配者層の崩壊をもたらしたのは、日本の自国内で台頭してきた新たな勢力によるものではなく、米国がその根幹を形成したことによる。このことは、日本に新たな時代を支配し、管理する主体的な社会層が生まれてこなかったことを示している。
敗戦という外生的要因によって、米国の許容のもとで育成・扶助され、その基盤を構築した政治体制、及び企業組織は、大きな価値観の転換を迫られた。伝統的な支配者層を一新し、「天皇戦士」から「産業戦士」へと半ば自己否定的に再生した若手の抜擢を図り、その転身の過程において、日本は独自の社会構造をつくり上げていったのである。
2.高度工業化の成熟とパニックの社会構造
もはや「戦後」ではない、との世論が飛び交う中、日本は技術力強化に伴う高度な工業化社会の実現に向けて邁進しつつあったのだが、その転換期の最中における特徴として、若手を中心とした社会主義への理想が高まった背景があげられる。
ここで多少論旨から逸脱するが、同じマルクス・レーニン主義を標榜し、発展を遂げつつあるかの如く報道されていた中国・旧ソ連が、政治的対立の様相を深めていったことで、第二次世界大戦に見られた帝国主義国家間の対立以上に、危険な影響を世界政治の過程に植え付けていった背景も注目に値する特記事項と言えよう。
平田清明氏は『世界』1968年2月号において次のように指摘している。
日々の報道の背後にある客観的な問題は、資本制からの社会主義への移行と、社会主
義から共産主義への移行の両過渡期が、ロシアと中国の歴史的風土的諸条件に媒介され
ながら、同時存在していることのうちにある(「社会主義と市民社会」)。
このことは、若手のみならず、知識人を含め、日本でもマルクス経済学思想への議論が隆盛をもたらした背景と結びついていると考えられるのではないか。そうであるならば、米国主導の資本主義的市場経済の機械的、或いは要素的な理論の導入よりは、有機体論的な思考法に頼り、これが日本特有の伝統における人間、或いは社会文化というものについて想いを馳せる一助になったことで、「受容された」と考えるのは強引過ぎるだろうか4。
日本における戦後の経済成長の現実は、米国主導の資本主義的市場経済に伴う自由競争の産物であったにも拘わらず、一方では上述の理想論が台頭し、組合の跳梁、更には学生運動の高揚、過激化が付随するという、新たな社会構造における矛盾と歪みを露呈した5。
経済にしか活路がない日本は、皆無に等しかった資金・資材・技術を米国の指導と助力によって獲得し、自国の風土的文化に根ざした羞恥心や面子を一切払拭することによって猛進して行く。「働け、そして追いつき、追い越せ…」という地鳴りのするような大衆の信念は、より豊かな生活への理想を、半ば「国民的理念」として定着させたかのような側面すらあった。
経済成長を基軸とした時代潮流は、一方では政治への関心を急速に低下させ、政治もまた、大衆に我慢・忍耐を説得的に提案する構想力を失い、生活を改善・向上させる、というスローガンでその政策を標榜しなければ、大衆の支持を大方得ることが出来なかった。
日本が高度な先進工業国の仲間入りを果たしたことを煽るかの如く、1964年に開催された東京オリンピックは、発展途上国を卒業した記念式典として国民に自信と希望を与え、更に1970年の万国博覧会は「新生日本」にとって新たな転機をもたらすことになった。
当時、小説『坂の上の雲』を執筆中の作家・司馬遼太郎氏と、東大総長で工学博士である向坊隆氏との「日本の繁栄を脅かすもの」と題した対談6は、敗戦から遮二無二登り続けてきた先進工業国日本の岐路を示唆するものであったと言えよう。長くなるが、以下はその主要部分の引用である。
司馬 日本は明治維新以来、西洋からいろんなパテントを買い受けて、それこそ鉄の
つくり方から女の靴下のつくり方までパテントを買ってここまでやってきた。ところが
ここへきて、パテントを売ってくれた先進国を追い越しちゃったわけで、そうなると日
本恐るべし、もうパテントは売ってやらんぞといった態度に諸外国がなってきつつある
らしい。(中略)それならそれで、自力で技術革新をやっていく力が日本にあるのかどう
か。ないという説もありますね。「日本は技術の三流国だ」という文章が『文藝春秋』の
昭和45年3月号にものっておりますし、これは加工産業国家としては、エネルギー確保に劣らず、重大な問題だと思うんですけれども。
向坊 一つは、迷惑をかけなければ意地悪をされないですむわけで、(中略)エコノミック・アニマルといわれる面を改めるとかすることですね。いま一つは、技術格差論というのは日本で起こる前にヨーロッパで起きた。フランスのマシン・プルという電子計算機メーカーがアメリカのIBMに乗っ取られて、これがヨーロッパ中で問題になり、アメリカとの技術格差をなんとか縮めなきゃいかんと検討してみた。
結果は悲観論なんです。(中略)進んでいる国が大きな努力をしているんだから、差は
大きくなるばかりだ、という悲観論に落着いたんですね。ところが日本の場合は少し違
う。ヨーロッパは進んでいたのをアメリカに追い越されたが、日本は少なくともいまだ
かつて追い越されたことはないという自信があって…。
司馬 変な自信だけれども、(笑)これは大きいですな。
向坊 大きいです。そこのところがヨーロッパと日本の技術格差論の違うところなん
ですね。日本の技術者は追い越そうと思って頑張っていますよ。(中略)一流になろうと
思ってやってます。
司馬 そういう人たちの士気を奮い立たせるような国の政策が欲しいですね。
向坊 ええ。それから格差解消のための戦略を立てるべきだと思うんです。(略)
東海道をひた走る新幹線と、高度に発達した重化学産業の発展からの次なる課題。それは「鉄鋼業」、即ちハード・ウェアからソフト・ウェア開発、並びに製造・生産から知識を集約したサービス産業への転換に他ならなかった。
しかしその道のりについては、当時では舗装整備が不十分であり、一方で視点を現実社会に向けると、「雲」を目指して登り続けてきた成果として、生活革命をもたらした家庭用電化製品を手に入れ、経済的ゆとりは確保したものの、その「雲」は、いつしか不安という「暗雲」へと変化していった。更に下を眺めれば、公害の「海」が騒然とした波しぶきを上げ、そこにオイル・ショックや変動相場制によるドル切り下げの「嵐」が吹き荒れる。ふと顧みれば、もはや浮かれてばかりはいられない過酷な問題に直面していたのである。
「不安とパニック」は、この時期の日本を象徴したキー・ワードとして妥当であろう。「暗雲」に蔽われ、「嵐」に見舞われる中、その忍耐にも限界があった。大衆は不安を解消させる上で心の奥底にあった葛藤を口々から放散し、外部にあらわす行動を伴って日本全体は無防備な状態のままパニックに陥ったのである7。
高度な工業社会の実現に向けた社会構造は、労働の集約化に伴う人口の密集化を招き、一極集中型の宅地開発、ニュータウンの建設へと進化した。密集地の群衆行動は、「人間と人間の連帯性の欠如と建築構造上の相互関連性との矛盾8」を露呈した形で、その脆弱性を浮き彫りにしたと考えられる。「集団」や「密集」において効果を発揮する力学の様相は、方向性が一定で明確であれば、その力は2倍、3倍となって加剰されていくものだが、外圧に脆く、一旦方向性、更には確信性まで喪失してしまうと、個々の力は分散化されてその効果を減退させる。日本は、羅針盤を失った航海のように、あてもなく、海路の日和も訪れず、ただ目先の針路を目指して前進していくしかその処方箋は見当たらなかったのではないだろうか。
3.情報化社会の到来と「日本的な個の確立」への課題
「暗雲」に蔽われ、明確な針路を喪失していた日本に、ようやく光が見え始めた。それはまたもや米国からの「輸入」によるものではあったが、IC(集積回路)の開発をはじめとするマイクロ・エレクトロニクス分野の発展に伴い、驚異的な技術革新がもたらされたことである。
それまでの日本における、鉄鋼業を基盤とする重化学産業を目的とした経済成長は、2.で触れた司馬・向坊両氏の対談他において議論された技術格差解消のための、更なる革新が待望された矢先において、公害問題の発生、更にはエネルギーの大量消費に基づくオイル・ショックの影響を受け、その結果、先進工業国としては回り道をすることになった。
マイクロ・エレクトロニクスによる技術革新の進展は、先端の工業技術が、重厚長大型から付加価値性が高い軽薄短小型に移行するという衝撃的な変化を可能にし、格差解消のための足掛りとして従来の難点を克服していった。この技術革新の波は、後の超LSI(超高密度集積回路)の開発によるコンピュータの発達・並びに小型化を促進させ、更に光ファイバー技術の進展によるディジタル通信ネットワーク(ISDN)の構築は、産業構造の転換に拍車をかけていった。
技術の精密化に伴って、企業も「減量経営」戦略に乗り出した。特に製造業の多くの部門において、機械化・自動化が浸透し、生産部門の従業員の比率は低下、変って販売管理や研究開発部門の比率が上昇した。このことは、経済全体におけるサービス産業の向上、ひいては経済のサービス化を促し、2.で既述した「舗装整備」は、短期間のうちに見事に実現されたのである9。
図1は、戦後の経済成長における技術革新が、重厚長大型から、精密化による軽薄短小型に移行した背景と、労働力、更には資本蓄積の寄与度を表している。鉄鋼業を基軸とする高度成長期までは、圧倒的な技術進歩が顕著であるが、その後は企業が「減量経営」戦略に転換し、ある程度の技術水準を維持しながらも、労働生産性の向上と資本蓄積を主体とした産業構造の転換に伴う、経済のサービス化へと移行したことを表示している。
(9.7%) (8.7%) 図1 注1)日本の技術進歩が経済成長にどれだけ寄与したか動態的生産関数を用いて推計したもの 注2)ここでいう技術進歩の概念は新製品開発、労働生産性向上、更には低生産部門(農業)から高生産部門(工業)へ労働力が移動する産業構造変革も踏まえ、幅広い概念を対象にしている。 出所:エコノミスト臨時増刊号『戦後日本経済史』(初出は宍戸寿雄『日本経済の成長力』ダイヤモンド社、1979年)
このように、経済のサービス化が促進されたことは、一方では大衆の日常生活における人間的な接触の場の多大な部分が、市場的な関係で包括されたことを意味している10。資本主義的市場経済が正当化される要因は、そのことが効率化と自由競争を促進させ、ゆたかさを保障するための極めて効果的な体制であり、かつ手段であるということに帰着する。またこれらの要素に個人の選択的自由が加われば、現代人の優先的価値に則した不可欠な体制であるとも考えられる。
中国や東欧諸国をはじめとする、社会主義国家の相次ぐ頽廃と崩壊は何を意味するのか。ゆたかさを満喫し始めた大衆は、この惨状を把握し、かつてのマルクス主義も、その原理原則から見て、もはや誤りであったと認めざるを得なくなった。また、組合が強いという体制を保持していることすら、そのような社会は国際競争から脱落してしまい、組合が強い企業も、市場競争において敗退するのではないかという認識までが、この時期の大衆の関心を広く捕えていった背景も見逃すべきではなかろう。
中島誠氏は『文藝春秋』1979年5月号において、経済成長の乱気流と並行して、組合の結束性は凋落傾向にあるが、一方では労働運動関係の雑誌や、単行本を読み漁る若手が増えているという新たな傾向を指摘している。
本を買いにくるのは個人である。個人が組織のテキストを買いにくるのではなく、個
人が一人で自分のために買いにくるのである(「労働組合−甘い夢の終り」)。
このことは、従来の組合の結束性が崩壊して、労働者は自分だけの個人生活、即ち、個人的事情を中心とした生活スタイルが既に定着しつつあることを示唆し、企業における共同体意識や出世願望の低下が、新たな「日本的な個の確立」という側面の一部分を呈示しているとも考えられよう11。
図2は、2.で詳述した高度工業化社会の成熟期から情報化社会の開始期とも考えられる1973−83年の大衆の意識変化についてまとめたものである。経済成長に伴い、生活にある程度の満足感が達成された後は、経済のサービス化が進むにつれ、政治への関心度が低下するも、職場での結束・闘争性の静観度、並びに社会における平等・情緒志向度が向上するという、新たな「日本的な個の確立」期へ移行したことを表示している。
注1) 選挙の影響度は国会議員選挙の際、投票が国の政治に影響している度合い(有効性感覚)の強さを表す。 注2) 職場における結社、闘争性の静観度が高まった層は、20〜40代の働き盛りの年層を指す。 注3) 女性の若年層が中心であった<愛>を主体とした平等・情緒志向度は、中年、更には高年層まで浸透して いったが、ここでは年層的に最も軸となる中年層の推移を表示した。 出所:NHK世論調査部『現代日本人の意識構造(第二版)』、及び経済企画庁編『アジア経済2000』の内容から作成。 図2
だが、企業が「減量経営」戦略を推し進め、人員削減によって変則的な経営戦略を構築していくことと、労働者に新たなモチベーションや欲求が喚起されないということとは、双方が半ば惰性的で宙ぶらりんの状態に陥る危険性を孕んでいる。またこのことが、労働者の構想力や企業のみならず、社会全体の活性化を阻害しては、安全性と保身のみが台頭する「日本的な個の確立」を促してしまう。更には、意欲減退に伴う心の空洞化現象までが一層蔓延していくのであれば、今後の経済成長においても大きなマイナス要因になりかねないのではないだろうか。
情報化社会が到来して、経済の国際化に伴うボーダレス化、グローバル化が進展し、日本も国際社会の潮流に合わすべく市場開放を迫られる。だが、国際化の潮流に追随して、一方では大衆の確固たるアイデンティティの確立が更なる課題として浮かび上がってくる。
技術の精密化の時代とはいえ、地道な生産活動における労働や社会生活を営む術を見失い、投機と思いつきが主流となれば、自律的に自己制御する能力を欠くことに繋がる可能性もある。またこのことが発端となって、目先の享楽志向に陥ることになれば、確固とした「日本的な個の確立」など本末転倒と言わざるを得ない。前例を見ないような新興宗教による呪術や、空論としか思えない理論に、何千万人という大衆が振り回され、このような異常とも言える実態が情報化社会の進展と並行し、拡大しているのが現代なのである。
4.まとめ
戦後の日本は、破壊的な頽廃を喫し、米国の占領を体験しつつも産業の近代化・合理化を推進し、貿易・資本の自由化による国際競争力の強化と生活の改善に向けて努力を続けてきた。その結果、日本は「経済大国」として国際社会において頭角を現し、いつの間にか「後発国型・敗戦国型セカンド・ランナーから、ファースト・ランナー12」へと躍り出てしまっていた。
しかし日本人は、自分たちの発言や行動が国際社会に対して多大な影響を与えるようになってからも、この厳然たる事実を明確に「自覚」できておらず、結果として、日本独自の世界情勢の判断、及び戦略を持つことの必要性をも忘却してしまったのではないか。本稿全体の論旨、更には3.で既述した「日本的な個の確立」への視点もここに立脚する。
改めて戦後の日本を回顧してみた時、日本の政策とはもっぱら米国に追随し、米国の顔色を伺いつつ国際的な行動措置をとってきた背景が浮き彫りになっている。またこの側面は、経済的にはファースト・ランナーとして台頭しているにも拘わらず、精神的には相変わらずセカンド・ランナーに甘んじ、根本的な改善はされていない側面を象徴しているかのようでもある。
嘗ての米国でさえ、自国の経済が世界的に多大な影響を及ぼすようになったとはいえ、「米国の世紀」宣言がなされてその重要性を把握するまでに時間を費やし、戦争によって初めて政治的主導国家として責任を担うという「自覚」に至ったことは、本稿の1.でも既述した通りである。
日本人が、嘗ての米国同様の「自覚」をすることにおいて、ある程度の時間を費やすことはやむをえない側面もあるとはいえ、国際社会における現実と、日本人の上述のような意識構造とのギャップをいつまでも放置する訳にもいかない。日本人のこのような行動様式を是正するには、中央集権主義と画一主義の克服、また昨今盛んに議論されている「日本的経営」における集団主義の制度的、構造的転換への視座も改めて検証されるべき喫緊の課題であろう13。
経済成長を達成することによって、明治維新以来、日本が懸命に取り組んできた産業の近代化・合理化の路線は終焉し、またそれは、「米国の世紀」に追随する時代の終りでもあった。だが、所謂マクロ的な近代化・合理化は達成されたものの、ミクロ的な近代化は成熟しているとは言えず、なお課題として残されたままである。今こそ大衆は、確固たる「日本的な個の確立」を主体とした市民的な意識、及び責任の形成に尽力すべきであろう。またこの「自覚」無しでは、大衆の積極的な政治参加を促すための民主的制度に基づく、真の意味での大衆民主主義の確立は期待できず、更には21世紀の国際社会においても、日本独自の国民的理念を旨とする新たなナショナリズムの確立まで高められることも、決してありえないと考えられるからである。
[注]
1ここで第二次世界大戦における日本人の世論形成について触れた理由として、軍の絶対的支配とメディアの共存によって大衆意識が確立され、後の経済成長絶対視における日本人の意識構造の脆弱性にも深く影響しているとの判断に基づいている。
2『タイム』、『ライフ』、『フォーチュン』各誌の創始者であるヘンリー・ルースが「米国の世紀」を宣言したのは、1941
年、2月17日号の『ライフ』においてであったと見られる。当時『ライフ』はテレビが普及する以前の米国における代
表的な大衆メディアであった。同じメディアの影響とはいえ、その相違点から、当時の日本との比較考察も興味深い。
3東大教授であった中野好夫氏が『文藝春秋』1956年2月号で標題の論文を記載し、翌年、「経済白書」がこれをとりあげ、流行語になったことで知られる。中野氏はこの論文で、戦後を卒業し、新たなる「小国」の意義を認め、それを活か
すべく理想を持つことを主張した。
4
この時期、『文藝春秋』・『中央公論』と並び、岩波書店発行の月刊誌『世界』が知識人のみならず、学生を中心とした若手にも広く購読されることになった。『世界』は『文藝春秋』・『中央公論』とは別の路線でその価値・存在意義を提示し、研究者中心による寄稿のもと、学術的究明や仮説・検証による具体的な問題提起を基軸とした論旨を展開。特にマルクス経済学による社会主義経済の制度的評価や、後に顕在化する「都市化」や「人口問題」、更にはモータリゼーションによる「公害問題」、「環境破壊」、「交通災害」等の発生についても観測的な論旨を展開して読者の関心を捕えていった。
5
アサヒグラフ増刊『アサヒグラフに見る戦後50年−ひと・まち・こと−』(1995年7月20日発行)に、当時の様相を記した興味深い文章があるので、以下引用しておく。
連日のアンポ、フンサイ、のデモから帰って、下宿で、当時持っていた唯一の家電、電気ポットでお湯を沸かし、チキンラーメンをすすっていた(中略)。どんぶりに入れたラーメンにお湯を注ぎ、蓋にするものを探しても見つからず、手近にあった月刊誌『世界』をかぶせたりしたものだった。食べる時に雑誌をとると、その白い表紙は湯気で変色していた。この雑誌で「今こそ国会へ」*1と呼びかけていた学者が、その後、テクノロジーとレジャーを評価する視座に身を転じたのは、それから間もなくのことであった。
生活においても、思想においても、「インスタント」*2が浸透していった。
(*1『世界』1960年5月号に清水幾太郎氏による標題の論文が掲載されている)
(*2「」は筆者による)
6 司馬遼太郎対談集『日本人を考える』文春文庫、1978年 P87-P111所収。また、この対談が行われた翌年、1971年に発表された産業構造審議会『1970年代の産業政策のあり方』に関する「中間答申」においても、「成長追求型から成長活用型」への政策転換、並びに「知識集約産業」育成策の必要性を論じていた点を注目されたい。
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当時のパニックの様相を伝える論文としては、『文藝春秋』1974年2月号の上前淳一郎氏による「パニック−その生態系」、及び『世界』1974年7月号の宮崎義一氏による「パニックの社会経済構造」をそれぞれ参照されたい。なお、宮崎氏はこれより以前にも『世界』において「“経営者支配”の理念と現実」(1973年3月号)という論文を寄稿し、行過ぎた経済成長に伴い、「花見酒に酔う日本」と定義した上で、今後の社会的不安の顕在化について既に警鐘を発していたことは注目に値しよう。
またここでは、『文藝春秋』と『世界』の論調の相違性も抽出される点で興味深い。同じ論題でありながら、ジャーナリスティックな観点で、しかもホットな話題として逸早く着手した『文藝春秋』と、『文藝春秋』より提供が遅れること5ヶ月ではありながら、精巧な分析によって、問題の本質を解明しようとする『世界』の取り組み姿勢の相違性も把握できる。
8 宮崎義一氏は、この矛盾を解決するための条件として、「団地ミニマム」を仮説とした上で論旨を展開。食物類の代替は事欠かないが、トイレット・ペーパーや洗剤等の生活基礎物資の代替性には欠ける点を主張し、また密集地に点在するスーパーマーケット等の量販店の流通システムにおける高価格化現象にも触れている。一方で上前氏の論点は、不安感にかられた群集心理に注目し、米国の心理学者オール・ポートの公式「噂の量=重大さx曖昧さ」が日本の都市部において立証された、との見解を表明している。
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公文俊平氏は、オイル・ショック時における日本の対処について、備蓄を取り崩すどころか、逆に積み増すという「行動の方針は妥当だとしても、過度に追及しすぎてしまうと対応すべき行動の選択を誤る可能性がある」との観点に基づき、70年代後半以降の日本経済の課題とは、本来であれば、輸出より内需指向、減量経営より労働時間短縮、更には国民生活の質を重視した体質転換へ取り組むべきであったにも拘わらず、「石油危機への直接の対応に熱中したあまり、より大きく長期的な課題への対応を怠ることになった」と論述している。この論点は、その後の省資源、低公害のマイクロ・エレクトロニクス技術の進展に伴う輸出競争力をもった産業構造への転換に邁進した日本の目先の経済的措置への建設的批判として注目に値する内容と言えよう。詳しくは、公文俊平『情報文明論』NTT出版、1994 P277。
10 金子勝『市場』岩波書店、1999年 所収の「U市場とコミュニティ」P51-P103。特に第2章「企業社会における『共同性』の内実」、及び第3章「市場の匿名性と暴力性」を参照されたい。
11 当時の若手世代が現在の管理職、ひいては日本の経済的原動力の主軸を担っている点も注目に値しよう。
12 正村公宏「産業主義を越えて」講談社学術文庫、1993 P251。
13 ここでは紙数の関係から詳述は割愛せざるをえなかったが、今日の「日本的経営」について考察を深める際に、戸部良一他編『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』中央公論社、1991年、並びに松尾良秋、青山正治、高橋敏信『日本型企業の崩壊 変貌する国際競争環境』東洋経済新報社、1994年、公文俊平、同掲書等の文献を併読されることは有益であると考える。第二次世界大戦における日本軍のエリートには「狭義の現場主義を越えた形而上的思考が脆弱であり、普遍的な概念の創造とその操作化ができる者が殆どいなかった」という軍事的組織編成における自己革新性への課題を抽出し、今日の日本的経営との接点を模索している観点は示唆に富む。情報化社会の時代が到来し、企業経営もグローバル化の様相を呈してはいるが、その中央集権主義、及び画一主義的な集団主義の側面は、未だ組織内に深く根ざしているのが実情である。ネットワークの原理が益々浸透し、組織の自律分権化の背景を踏まえて、今日の国際環境での「日本型企業」が如何なる戦略をもとに発展を遂げるべきなのか、改めて盛んな議論が待望されよう。
<参考文献>
「『世界』主要論文選 1946-1995 戦後50年の現実と日本の選択」 岩波書店、1995年
「『文藝春秋』にみる昭和史 全4巻(別冊1)」 文藝春秋、1988年
「岩波書店と文藝春秋 『世界』・『文藝春秋』に見る戦後思潮」 毎日新聞社、1996年
エコノミスト臨時増刊号『戦後日本経済史』 毎日新聞社、1993年
アサヒグラフ増刊『アサヒグラフに見る戦後50年 ひと・まち・こと』 朝日新聞社、1995年
会田雄次他編『転換期の戦略6 激動昭和』経済界、1988年
司馬遼太郎対談集『日本人を考える』文春文庫、1978年
金子勝『市場』岩波書店、1999年
正村公宏『産業主義を越えて』 講談社学術文庫、1993年
NHK世論調査部編『現代日本人の意識構造(第二版)』 日本放送出版協会、1985年
戸部良一他編『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』 中央公論社、1991年
松尾良秋、青山正治、高橋敏信『日本型企業の崩壊 変貌する国際競争環境』 東洋経済新報社、1994年
公文俊平『情報文明論』 NTT出版、1994年
久野収、鶴見俊輔、藤田省三『戦後日本の思想』 岩波書店、1995年
鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史』 岩波書店、1991年
柳田邦男『大いなる決断』 講談社文庫、1980年
渡辺洋三『日本社会はどこへ行く』 岩波新書、1990年
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