「留学生予算の再定義を」

国際情報 武田 里子

白川英樹・筑波大学名誉教授が電気を通すプラスチック研究でノーベル化学賞を受賞される。この研究は大学院生が実験の触媒の濃度を間違えたのがきっかけだったと言う。なぜ、大学院の実験室で触媒の濃度を間違えるようなことが起きたのか。この大学院生は韓国からの留学生で、白川教授のメモ書きmmol(ミリモル)のmが続けて書かれていたため、m(ミリ)を読みきれなかったためらしい。

偶然の失敗をノーベル賞に繋がる研究へと発展させた白川教授の研究者としての感性に感銘を受けると同時に、私は、触媒の濃度を間違えたのが留学生だったという記事に興味を覚えた。mmolのmを見落としたのは、単にその留学生が白川教授の手書きの文字に馴染んでいなかったせいかもしれない。日本の大学制度の中で、学部から修士、博士課程へと持ち上がっていくと構成員の均質化が進み、こうした初歩的な失敗は起きない。その代わりに創造的な研究が生まれにくくなるといわれる。

日本政府は1983年に21世紀初頭に留学生を10万人受け入れるという計画を発表し、一貫して留学生の受入拡大を図ってきた。しかし、ようやく5万6千人を超えたところだ。留学生数が伸びない理由は日本社会の閉鎖性も含めて様々な指摘がなされている。留学生受入には、白川教授を慌てさせたような予測しない「失敗」も起きれば、生活上の支援も大学側に求められる。国のレベルでも大学でもそのための予算措置が必要だ。文部省の留学生関連予算は約550億円でその9割以上がODA予算を財源としている。このため、留学生受入は途上国の人材育成的な印象を与える。

しかし、留学生はグローバル化社会に対応する日本人学生の教育のために、そして、日本の高等教育機関の国際競争力を高めるために不可欠な存在ではないだろうか。とすれば、留学生予算はODA予算ではなく、グローバル化時代に対応する日本人学生のための教育環境整備費と再定義する必要がある。日本の高等教育に対する公的予算の対GDP比はわずか0.4%である。米国、ドイツ、フランスなど先進国の1%に遠く及ばない。人づくりをおろそかにする国に未来はない。最低限、先進国並みの教育予算を措置することによって、日本の国づくり人づくりの姿勢を示すことを提案したい。