「ゴホン!ゴホン! シーユー」

国際情報 村上恒夫

したたか酔った体に、車の窓から入ってくる風が心地よい。車を運転する妻は他県から 嫁いできたので、車窓に広がる広大な空き地の謂れを知らない。いや、正確には彼女が生まれる以前の出来事だった。その広大な空き地は昔、「立川基地」と呼ばれていた。そして 滑走路の拡張問題が、全国的な規模の盛り上がりを示したことがあった。日本各地から活動家が集合し、地名からその名を「砂川闘争」と言った。子供のころは畑ばかりで、砂川町を東西に横断する五日市街道以外、満足な道もなかった。当時、デモ隊は立川駅から五日市街道へ抜ける基地の周遊道路を、大きな旗ざしと手ぬぐい姿という出で立ちでぞろぞろ行進していた。それを僅かな警官が引率の先生のように散らばって、車からデモ隊を守っていた。子供心に、「あんなに広がって歩かずに、綺麗に端によれば良いのに、おまわりさんも大変だ。」くらいにしか思っていなかった。子供のころフェンスの向こう(米軍基地の内)の子供たちと、よくフェンス越しに戦争ごっこをした思い出がある。泥球を投げ合う、本格的な日米戦争だった。「ゴホン!ゴホン!(GO HOME! GOHOME!)」と言いながら戦争しても、日が暮れれば、「バイバイ シーユー(BYE! SEE YOU!)」だった。子供には大人たちがやっている「戦争」が理解不能だった。

この「砂川闘争」(泥球の投げ合いではない)を当時の『文芸春秋』と『世界』の論調から見ると、いわゆる「理想の『世界』、現実の『文芸春秋』」の言葉通りの論調がある。当時の世間は、今から考えれば「?」としか言えないほど「左」に偏った意見が主流を占めていた。そして、その牙城とも言えるのが「月刊総合誌」であり、中でも『世界』は急先鋒であった。編集方針がヒステリックなまでに偏向しているかは、『文芸春秋』が取り締まる側である警官隊の意見を掲載したのに対して、『世界』ではそのような掲載が無かったことを見ても、容易に推察できる。今では書店に山積みされ、駅のキヨスクにさえ販売している『文芸春秋』に比べ、『世界』は大きな書店ならいざ知らず、小さな書店では販売していないところもあるほど、弱体化している。何故、当時は『世界』が売れたのだろうか?

明治維新後の日本の目標は「列強と並ぶ日本の建設」であった。そしてそれは、国家と国民の一体化した目標であり、「日露戦争の勝利」によって大方の目標を達成した。その達成感は万感の思いで国民に押し寄せ、浮かれ、騒ぎ、いい気なり自分自身を見失った。その後の日本は新しい目標を探しつつ彷徨える巨大な国家であった。新しい国家的、国民的な目標を定めることができず、ただ折角手に入れた世界的な地位を失う事のみを恐れて彷徨し、無謀な戦争に突入した。

敗戦後、日本は「国の再建」という新たなる目標ができた。この誰にも理解できる単純な目標は全国民の総意となり、この目標に邁進した。その目標も1970年代には完全に達成された。そしてまた、達成感が押し寄せ、万感の思いで国民に押し寄せ、浮かれ、騒ぎ、いい気になり自分自身を見失った。再び、新たなる目標を探し彷徨える民となった。戦前の「お国のために」という美辞麗句に惑わされ、多くの人々が死んでいった反省から、戦後には極端な理想主義が生まれた。それは戦前の価値観が180度変った日本に当然のように受け入れられ、理想国家建設の道しるべの役割を果たした。今ではお笑い種だが、少なくと、当時は本気で考えられ、精鋭化していった。まるで戦前、戦中の皇国史観を信じて疑わぬ軍国少年のようではないか。戦後、欧米から輸入されてきた「新しい自由」なるものは、その本質的意味が真に理解されぬまま普及した。新しい知的好奇心をかき立てられた若者たちに支持され、ゆがんだ理想主義と結びつき、当時の月刊総合誌『世界』に帰結した。

しかし、出版社からしてみると、理想主義の理念のためにのみ、発刊したわけではないだろう。確かに、そういった理想に燃えた一面もあるだろうが、そのような論評(読者が飛びつく流行)を載せなければ、売れ行きが伸びなかったのもまた事実だろう。偏向した『世界』に比べれば、あらゆる主張なり物事を「幕の内弁当型」に掲載した『文芸春秋』が、月刊総合誌無用論が叫ばれる現在でも、それなりの部数を出していることからみれば、読者に多角的な選択肢を待たせた『文芸春秋』の編集方針は正しかった。少なくとも判断は読者側にあり、『世界』のように意見を強要するイメージは無い。

それにしても、「内灘」を知らず、新聞記者から聞きつけすぐ自分の「メシの種」にしてしまうような、清水幾太郎を代表に、彼らのような人間がなぜ支持されていたのだろうか?彼のような人間に「砂川」の今を見せてやりたい!

現在の立川市砂川町(私が居住している町)は、往年の「砂川闘争」時の「一坪地主」の所有地や国有地が入り組み、道も拡張できず、新しい道路もひけない区画整理のやりずらい町だ。立川基地が変換されても、彼ら活動家がこれらの土地を綺麗に整理することはなかった。自分たちの理想実現のために他人を食い物にする輩は現在でも後を絶たない。